プロローグ 転生者と右腕狩り
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……!」
荒い息で悪態をつきながら、男は夜の路地を駆けていた。
エイシズ教国。全能の甕を持つとされる唯一神を崇める宗教国家は巨大で、本部教会のあるプリオリアからは遠く離れた田舎町であっても、下水道の整備や道の舗装は十分に行き届いている。
「くそ、どうして、どうして——」
そんな石畳の上を、男は叩くように踏みしだいてひた走る。敷石は夕方の小雨で軽く湿り、そのぬらりとした表面を冴え冴えとした月光が冷たく照らす。
——どうして、こうなった!?
走る男の頭の中を占めるのは、「なぜ」の二文字だけだった。濡れる地面のことも、突き放すように冷淡な明かりを送る天上の月のことも、今の彼に気にする余裕はまったくない。
男の生まれは、この片田舎の街……ラダムフォストでもなければ、そもそもエイシズ教国でさえなかった。
日本。
夜になれば今とは違う月が昇り、朝になればこの地を照らすものとは別の太陽が輝く、地球という星の小さな島国。その猫の額ほどの島国の、さらにノミの額ほどしかない東京という猥雑で騒々しい町の近郊こそが、彼の生まれ育った場所だった。
名を神澤天志。二十六歳、男性。
彼は日本人で、異世界転生者に該当する人物だった。それゆえに追われている。
そう、追われているのだ。
「はぁ、はぁ」
天志は走りながら体をひねり、背後をちらと確認する。夜闇は深く、月明かりだけではその存在を捉えることはできなかった。
だが、いる。まったく距離を離すことなく、何者かが自身を追跡していることを、天志は察していた。
この足音は、追い立てられる恐怖から来る幻聴などではあるまい。そして息も上がり、街の造りなど知らないため、既に自分がどこをどう進んでいるのかなどとっくにわからなくなっている自分。
対し、背後の闇より近づく足音には、一切の迷いも乱れもないようだった。
逃げられない——
「ぐぅっ……!?」
恐怖が足をこわばらせたのか、それとも単に濡れた地面が足裏を滑らせたのか。不幸にも天志は呆気なく転倒し、受け身も取れず路地の地面に上体を打ち付けた。
痛みにうめきながらも、すぐに立ち上がり、逃走を再開しようとする。
……そうして足に力を入れたところで、背後からの足音が止んだことに気が付いた。
すぐ後ろに追手がいる。ただ一度の転倒で、追跡劇は終了していたのだ。
「追いかけっこはここまでだ。たとえ東の果てまで逃げようが、俺は貴様を追い続ける」
月光よりもなお冷たい、男の声だった。
再び逃げ出そうとすれば、背後の男は躊躇なく天志に危害を加えるだろう。それを本能的に理解した天志は、震える足でおずおずと振り向いた。
「……子ども?」
そこに立っていたのは、高校生くらいの外見をした男性だった。
青い髪に、同じく青い瞳。しかし隻眼で、左目は黒い眼帯がされていた。神秘的とも言えるその片目には、凍てつく氷を思わせる、研ぎ澄まされた殺意が満ちている。
加えて言えば服も青系統だった。闇に溶ける紺色で、修道服のようなデザインをしている。目につくのは腰に下げた、刃がむき出しのサーベル……否、こんな街中でどこの草木でも刈るつもりなのか不釣り合いな大鉈と、片手で無造作につかんだ黒い立方体。
わからない状況だった。少なくとも天志にとって、すぐに理解のできるシチュエーションではなかった。
今こうして、自分が追われているわけがわかっていないのと同様に。
しかし確かなことはひとつ。ここまで追い立ててきた相手は単なる子どもだった。
——ならば、怯えることもないのではないか?
恐怖が、不安が、急速にしぼんでいく。代わりに怒り、嗜虐心が膨らんで大きく育っていく。
ついさっき夕方ごろ、天志は街中でナイフで刺されかけた。雨も降っていたし、近くに人が多かったためよく見えなかったが、それもおそらくこの子どもがやったのだろう。
どうして自分を殺そうとするのかはわからない。ただとにかく恐ろしく、ここまで必死に逃げてきたのだ。
しかし、怖がりすぎたのかもしれない。異世界に転生したばかりで、少しナイーブというか、神経質になりすぎた。
(そうだ……なにこんなガキにビビってたんだ。大人の恐ろしさを教えてやる)
——こんな子どもに負けるはずがない。
今までだって、面倒なやつは誰だってひどい目に遭わせてきたじゃないか。
病院送りに一家離散。女だったら体を使わせることもあった。おかげでつまらない報復を受けてしまったが、最終的に得をしたのはこちらの方だ。
(なにせ、俺は……神に選ばれた人間だ!)
感情のまま、天志は眼前の少年につかみかかろうとする。
その手があらぬ方向に曲がり、へし折れた。
「……へ?」
伸ばした左手は、絡めとるように手首をつかまれ、そのまま大きくひねって骨折させられたのだ。
「ぎっ、があああああぁあぁぁあっ!?」
「……やかましい男だ。骨の一本で」
ねじ曲がったまま、ぷらんと垂れ下がる左の手。
痛みが神経を通して脳を乱し、それはそのまま煮えたぎるような怒りへと変換される。
「お前ッ、ガキのくせに! てめぇえええええ!!」
呪われた右腕を振りかぶる。しかし拳が少年を捉えるより先に、鋭い蹴りが天志の体を突き飛ばした。
「ぐぶっ、ぇ」
「手首のひとつで騒ぐな。どうせすぐ、その程度のことは気にならなくなる」
体格差を考えればただの蹴りでこうも簡単に倒されるはずがない。相手が普通の、天志が言うところの『ガキ』なのであれば。
まるで交通事故にでも遭ったかのような、内臓を突き上げる痛み。胃からせり上がってきた半固形のものを口の端から漏らしながら、天志は地面に尻もちをついたまま少年を見上げた。
「ぉ……お前、なんで! なんなんだよ、お前! 俺を殺そうとしているのか!?」
唾なのか胃液なのかわからないものを散らし、叫ぶ。大きな声を出していなければ、心の支柱が折れてしまいそうだった。
だがそんな去勢がまったくもって無駄だったと、天志はすぐに思い知る。
「そうだ、貴様を殺す。逃げても殺す。謝っても殺す。わかったら口を閉じて大人しくしろ」
「……っ」
再び、恐怖の闇が心の中を覆っていく。
目の前の青い隻眼に、恩情の光は一片たりとも宿っていない。死神のごとく佇む彼は、天志のことを同じ人間だと思わないかのように、忌々しい虫けらを見る目で見下ろしている。
「なんでだよ。なんでだよ! 俺がお前になにかしたか!? してねえだろうが! 意味がわかんねーよ、お前!」
「いいや、したとも。貴様ではなく……貴様たち転生者が。俺の家族を奪ったんだ」
「家族……? 知るかよそんなの、俺じゃあねえ! 俺はまだ、なんにもやってねえ! 転生したばっかりだっつうの!!」
「そうだな。まだやってない。まだ、な」
氷の瞳が、刺すような殺意をより一層強め、天志を凝視する。
「神を自称する悪魔。お前も、それに転生させられて……ニホンとかいう国からやってきたんだろう。貴様ら悪魔憑きの転生者は、ただそこにいるだけで災いを呼ぶ」
神を自称する悪魔。
悪魔だと?
「悪魔……憑き? なんじゃそりゃあ……違う、知らねえ、聞いてねえよ。そんなはずがない。俺は、選ばれた。神に選ばれた人間なんだ」
——ワタシは神だ。
——キミは選ばれた。
——不運にも命を落としたキミに、新たな世界と、そこで振るうべき異能を与えよう。
——その右腕に祝福あれ。
転生の時。箱のような空間の中で聞いた、その声を思い出す。
そうだ。神は確かに祝福をくれた。この異世界で、やりたい放題の楽しい人生を送るために!
「——貴様」
「神は俺を選んだんだ! 見ろ、この右腕を! ここに宿る——『暗闇』の異能を!!」
天志は口を使い、右腕の袖をまくる。
その腕には、黒い螺旋状の紋様が刺青のように刻まれていた。
烙印。悪魔憑きを殺し、その右腕から悪しき力を祓う烙印払いたちがそう呼ぶ、悪魔に唆された証明だった。もっとも少年の第二視野では、服の上からでもその存在は確認できていたが。
「俺を殺す? 逆にぶっ殺し返してやるよ、クソガキが!!」
右腕の螺旋——烙印が黄金色に発光する。そして、どこからともなく周囲を黒い霧のようなものが覆った。
路地は一瞬にして、夜闇よりなお濃い暗闇に包まれる。
これが天志の異能。悪魔に——神に授けられた、奇蹟の力。与えられた祝福。
この暗闇に乗じれば、逃げることなど容易いはずだった。
(殺してやる……この俺をこけにしたがって。そうだよ、初めからこうすりゃあよかったんだ。俺は神に選ばれた神澤さまだぞ? ほとんど神そのものってことじゃあねえか——!)
しかし天志に再度の逃走の意思はなく。視界を奪い混乱しているであろうところへ、後ろへ回り込んで首を絞めて殺す——
そんな算段を、怒りの熱に浮かされた脳で考える。
それが実行される前に、彼の頸動脈から夥しい血が噴き出した。
「ぁ……あ?」
暗闇の霧は、狩人を惑わせることなく。銀のナイフが易々とその首を刺していた。
「なん、で……」
「暗闇の異能。お前の生と同じで、無為な能力だったな」
血を失うと、立っているだけの力も失った。生気の漏れ出てしまった天志の体は、どさりと路地の地面に倒れ込む。
(どうして……どうしてこんな……おかしいだろ。おい。神様、なんで? ここで終わり?)
どくどくと流れ続ける赤い液。濡れた石畳の、ひんやりとした感触。
死を前に、再度の疑問が脳内を占める。
——なぜ? どうしてこんなことになった? 異世界で転生して、これから好きに生きていくはずの自分が、どうして首から血を流して今にも死にかかっている?
死ぬ? ここで?
「嫌だ……助けて……お願いします、これで終わりなんて…………神様」
懇願は虚しさだけを響かせる。
かすれていく意識。ぼやけた視界の中——
「神は、そのような右腕を与えはしない」
——冷徹な声とともに、大鉈を振り上げる隻眼の姿が最期に映った。
かくして神澤天志は息絶え、がんがんと硬いものを打ち付けてなにかを切断するような音の後、かすかな月光の差し込む路地にはふさわしい静寂のみが残されたのだった。




