誰が為の宿願
察しの良い方は気付かれるでしょう。
乗合馬車が出るまでまだ数時間ある。人混みに流されるまま歩いていき、ふと辺りを見回した。
表通りにいるような人間で顔を隠しているような者は少ない。この格好じゃ不審者丸出しで浮いてしまう。
執事を撒いたとはいえ、僕を探しているのは彼だけではない。メイドや、オリヴィエだっているのだ。
彼女らが、今この場所にいても何ら不思議はない。
何か策はないかと酸欠気味の脳で考えるが、疲労困憊の状態で妙案など思い浮かぶわけなどなく。
だが、思考と閃きは別物だ。
僕は視界の端に、見覚えのある光景を捉えた。
人混みの中でも、そこだけを皆避けて歩いている。まるで、眼に見えている地雷原を避けるかのように、汚物に触れないように、存在そのものがないような扱い。
人を寄せ付けない雰囲気を放っている魔の入り口。
この世界にきた初日、僕を厳しい現実と共に出迎えた禁忌の一角。
「奴隷市場……」
即ち、裏世界の住人が跳梁跋扈する背徳のエリア。
ここだ、と直感する。
脱走した奴隷が行くにしては危険すぎるが、それが良い。相手の裏をかける。そして何より、僕のような身なりをした人間がいても不自然ではない場所だ。
僕は黙して人混みを掻き分け、奴隷市場の入口へと踏み込んだ。
周囲の僕を見る目線が変わったのが理解できた。街中をうろつくヤクザじみた恰好をした人を一瞥するような瞳の数々。少し視線を向けると、すぐに視線が切られる。
まるで、危険人物扱いだ。
事実、その通りなので何とも思わない。僕は視線を押し切る形で奴隷市場を堂々と歩く。
「……この空気、臭い。懐かしさすら覚えるな」
景観はおろか、空気すら一変したのが肌で感じられた。入口付近はまともに見える店が多いものの、少し歩けば、軒を連ねるのは奴隷売買を行う店だらけ。
襤褸を纏った傷だらけの子供。死んだ目をした男を叩く奴隷商。皮と骨しかない女たちの裸。退廃的で、この世の地獄を絵面に起こしたような光景。
初めて来た時とは違い、僕は今の僕は冷静だ。たった9日で、僕の価値観は大幅に変わってしまった。
故に、初日には気が付かなった場所に目が行ってしまう。
裏路地は死臭漂う病原体の温床、野晒しのまま死んだ奴隷とそれに気が付かず売りに出したままの商人、防腐加工と思しきものを施した死体を陳列する店。広い通りから外れた隘路は、地獄やこの世の底辺なんて言葉ですら生ぬるい。
神が常世全ての業を煮詰めたとしか思えない様相を呈している。
「……相変わらず、悪意の掃き溜めのような場所だな」
思わず言葉が漏れるが、胸に迫るものは何もない。
僕は陰惨な情景を冷ややかな目で見つめながら、時に押し売りをしてくる商人を振り払い先を行く。
自身の無感情さに、9日前の自分が思い出される。
異世界に来た初日。僕はこの景観に嫌悪感を覚えていた筈だ。
だが、今は……。
「人として大切なものが欠けるって、こういうことなんだな」
悪徳と理解してはいるものの、嫌悪感は微塵も湧かない。
この世界に慣れたからではない。僕が人として大切な倫理観を欠いているのが理由で。
代償の支払として、それを差し出したから。
嫌悪感が湧かない自分に怒りすら覚える。
僕は人間としてどこまで堕ちれば気が済むのだ、と。
だが。
「もう、決めたことだ……」
自分のエゴを貫けと、彼女に叱咤され決意した。
清濁併せ吞む器量がなければ、この世界では生きていけない。
僕は胸中に渦巻く悪感情を意志の力で飲み下す。
生気のない人間たちの並ぶ店先が競い合うように立ち並ぶ、陰惨で憂鬱な通りをただ黙って進む。
このまま競売所まで行けば多少は安泰と言えるだろう。
ぶつぶつと繰り言を漏らす同年代と思しき少年を、縋るような目線を向けてくる子供を無視して僕は歩みを進める。
道徳心に欠けた行為をしていることは理解している。ただ、僕は誰かを救うほど余裕なんてない。差し伸べられた手を掴めるだけの責任能力がない。
そう、考えていた矢先だった。
「お願いします!」
しゃがれた声がした。もう何度も声を嗄らして叫んでいるのだろう。擦り切れるような声だった。辛うじて声音から幼い少女であることが分かった。
僕は無視しようとして、その声に聞き覚えのあることに気が付く。
止めてはいけない筈の足が止まった。
全身の血が沸騰したかのような、理解のできない感情が胸中からせりあがる。
道中で止まったまま俯く僕を、奴隷たちが格好の的だとばかりに叫びだす。情に訴えてくる言葉が雨あられのように降り注ぐ。
……違う。違うんだ。
同情なんてしていない。可哀そうだなんて思ってはいない。そんな健常な倫理観はとうに捨てられてしまった。
僕の耳は、未だに助けを請う少女の声だけを拾っている。
――助けないと。
抱く筈のない、必要性もない使命感が胸に灯される。
向けてはいけない筈の顔が、声の持ち主へと向いてしまう。
「弟を……!」
銀髪の痩せこけた少女が、衰弱しきった弟を抱えて叫んでいた。
その姿に、眼が釘付けにされる。
「わたしたちを買って下さいっ!」
痛切な願い。
擦り切れた声。声帯は限界を超え、血を吐きながら助けを希う少女。自分のためではなく、他者のために泣く彼女。
その言葉と姿勢に心を打たれたのだろうか。……いや、違う。そうだとしたら、これまでに幾度となく足を止める機会はあった。同じような事情を抱えている奴隷は他にもいる。
ただ、庇うように、守るように弟を抱きしめている姉。その構図に見覚えがあった。
弱者である僕を庇い、取り立て屋の連中に許しを請い泣き叫ぶ母の姿が重なる。
……だが、それも僕を引き留める理由になどならない。なりはしない。
そうだというにも関わらず、僕の意志とは裏腹に足先は彼女らへと向かっていた。
馬鹿だ。愚行だ。現状を弁えろ。理性がそう叫んでいるのに。
理性を超えた何かが、彼女らを……いや、彼女を守れと声高に叫んでいる。
助けろ、救え、守れと第六感を超越した超常的な何かが僕を無理矢理突き動かす。
「……違う、僕の意志じゃない」
震える声音で呟いだ。
本当に僕なのか? これは僕の意志じゃない。いや、僕だ。
何も分からない。混乱で脳内がぐちゃぐちゃなのに。動けと命じていない身体が、鈍いロボットのようにゆっくりと、勝手に歩いている。
「このままじゃルークが死んじゃう……!」
止まれ……止まれよ!
自分が何をしようとしているのか分かっているのか!?
第三者とも言うべき自分が激しく僕をなじる。
無視して、競売所へ行け。それがこの街を脱する最適解なんだ。
だから……。
「お願いです……」
その声を聴くな。それは魔性の声音だ。
これ以上、リスクを背負うのはやめろ。
「誰か……」
少女の声が次第に萎んでいく。
顔つきが明らかになるにつれ、僕の記憶が奴隷として運搬された異世界初日の日に焦点を絞っていく。
馬車の中で、僕は助けられた。柄にもなく、伯爵家の令嬢に彼女も買ってくれと縋りついた。
疫病神と呼ばれた、幼い彼女を――。
「誰か、助けて……」
絞り出すような、泣いているような一言に。
僕は膝をつき、躊躇なく手を差し出した。
「君は僕が救い出す」
口が裂けても言わないであろう台詞が、さも当然であるかのように口をついて出た。
もう、後には戻れない。
少しずつですが、今までにも撒いてきた伏線を回収してきてます。




