チェイス・ザ・ヒーロー
文法的にはザではなくジが正しいのだと思いますが、語感がよろしくないので見逃して下さい。
「昨日も今日もツイてないな、ほんと!」
愚痴を吐き捨てながら、裏路地を駆ける。
背後からは付かず離れずの距離で追走してくる執事が迫っている。
加速魔法が途絶えると距離を詰められることから、地力が違うことを認識させられる。
悔しいが、僕の肉体はオールドマギによって得た技術に不相応なもので、現代から基準から見れば体力はあるが、この世界の基準からすれば並程度だ。
つまり、この異世界に於いて真に優れた体力の持ち主には敵わない。
ズルでもしない限りは。
このままじゃジリ貧だ、そう考えた僕は角を曲がった瞬間に再度詠唱を開始する。
『……またアレをやるのか?』
「もうアレしかないだろ! 『疾風』!」
10秒の制限は変わらず、脚力のみを最大限に強化する。
下半身に走る激痛を噛み殺し、僕はその場で跳び壁を蹴った。
全身を包む浮遊感と恐怖。身体を翻し、向かいの壁に到達すると同時に再度跳躍。
宙を駆ける天使のように建物の間を、高度を上げて跳び回る。
「……っ!」
身体が軋むような痛み、それに伴う尋常ではない疲労感。
非現実的な曲芸には相応の代償が伴う。
空を切る音を拾う耳が。口内が涸れて痺れる舌先が。目まぐるしく切り替わる視界についていく眼球が。呼吸すらままならない鼻が。手に汗握る触感が。五感が、間違いなく寿命を縮めていると訴えている。
それらを理性という蓋で押し隠して、僕は中空を舞う。
「流石は英雄と言ったところですか……」
下から何者かの声が聞こえた気がしたが、耳を貸す余裕なんてない。
僕は倒れるようにして屋根に到達する。
前回のときとは打って変わった、傾斜の激しい足場。転げ落ちそうになるところを、右手でとっかかりを掴み阻止する。
眼下に視線をやると、丁度執事が建物へと入っていくところだった。慌てて辺りを見回すと、少し下にベランダのようなものがあるのが見えた。
あそこから、ここまで登ってくる気か。
「くっそ……」
休む間もない。
全身に鞭打ち、落ちないように立ち上がる。
だが、これはチャンスでもある。建物の内側にいる時点では、僕のことを視界に捉えられまい。
とはいえ、眼下を見下ろせるような高い景観が望める位置にいるのは下策だ。多少距離を取ったところで、ここまで来られたら目で追われる。執事の身体能力なら屋根から屋根へと移ることなど造作もない筈だ。その見込みがなければ、同じ土俵に立つ気概なんて見せないだろう。
僕がすべきことはただひとつ。
彼がここに到達するまでに距離を稼ぎ、人混みに紛れることだ。
「あと、もうひと踏ん張りだ……!」
彼の身体能力とメイドが魔法使いであるという情報を鑑みれば、恐らく前衛だ。魔法使いに対する苛烈な攻撃を受けて攻勢に転じることができるほどの手練れ。
ここで撒けなければ、持久力の差で僕の負けは見えている。
「『疾風』ッ!!」
がなるような声で、魔法名を吐き捨てた。
もう止まれ、これ以上動くなと訴える心臓の鼓動を無視して僕は空へと身を投げる。
階下から響く階段を駆け上がる激しい足音を置き去りにして、僕は隣の建物へと移る……。
「――あっ!」
……が、僅かに届かない。
理性で抑えていても、身体は疲労に正直だ。足も限界だったのかもしれない。
跳躍が足りなかった。
この高さで落ちたら間違いなく死ぬ。幾ら魔法で脚力を強化しているとは言え、身体そのものが強くなったわけではない。
なにより、足から着地できるかすら怪しい。
仮に死ななかったとしても、走るどころか動けるかすら怪しい。
落ちたら、一巻の終わり。
脳裏を過る母との思い出の数々。夜逃げした際の母の横顔。僕を庇い暴力の雨に耐えながら笑う顔。僕に親らしいことをできなかったことを悔いて泣く母と……。
――また稼がせてくれよ旦那
また会おうと約束した男の顔。
そして……。
――無事に街から出ようね
僕を信じて、人生をチップにした大博打に打って出た彼女の言葉。
僕はもう、僕だけのものじゃないんだ……!
「ぐ、ぁっ……!」
反射的にオールドマギを前方へと投げ、全力で右手を伸ばす。
指先が、建物の取っ掛かりを掴んだ。瞬間、全身の重さが一極点に集中する。
右指が軋む痛みを堪え、空いた左手を広げて右手の横へと叩きつけた。そのまま押し出すようにして、前傾姿勢で体重を前面に出しつつ、右手の指を前へ前へとずらしながら這い上がる。
疲れのことを考える余裕なんてなかった。いや、考えていたら落ちていただろう。
火事場の馬鹿力とは、まさにこのことだ。自重を両手で支えながら、辛うじて屋根へ倒れこむ。オールドマギを手繰り寄せ、慌てて背後を振り返る。
視界に執事の姿はない。
とても長く感じたが、ほんの一瞬の出来事だったのだろう。
僕は改めて魔法をかけ直し、再度跳躍。同じ愚行を繰り返さずに二軒ほど移動してから、眼下の地上へと降りた。
これで執事の視界から僕の姿は完全に消えた筈だ。
いつの間にかはずれていた外套のフードを被りなおし、息を整える。
全身に嫌な汗が流れている。生命の危機を感じたとき特有の、冷や汗と脂汗が混じったような不快な液体。視界に張り付いた汗を拭い、裏路地から市場の人混みへと紛れる。
乗合馬車が出るまでまだ数時間ある。人ごみに流されるまま歩いていき、ふと辺りを見回した。
表通りにいるような人間で顔を隠しているような者は少ない。この格好じゃ不審者丸出しで浮いてしまう。
執事を撒いたとはいえ、僕を探しているのは彼だけではない。メイドや、オリヴィエだっているのだ。
彼女らが、今この場所にいても何ら不思議はない。
何か策はないかと酸欠気味の脳で考えるが、疲労困憊の状態で妙案など思いつく筈がない。
だが、閃きは別だ。
視界の端に、異世界に来た初日に見た見覚えのある景色が広がっていた。
「奴隷市場……」
裏世界の住人が跳梁跋扈する背徳のエリア。
脱走した奴隷が行くにしては危険すぎるが、それが良い。相手の裏をかける。そして何より、僕のような身なりをした人間がいても不自然ではない場所だ。
僕は黙して人混みを掻き分け、奴隷市場の入口へと踏み込んだ。
9日ぶりの奴隷市場。




