少年は死と共に
スマイル、という英単語がある。意味としては、笑顔を指し、決して形あるものではない。況してや、飲食物でもない。
当店では、そんな形而上的事物をサービスとして取り扱っている。価格は0円。無料。オールフリー。
これは、『食で笑顔を』という本社が掲げている社訓によるところであり、謂わば企業理念に過ぎない。サービスと銘打っているものの、ただのスタンスの現われであり商品などではない。ただの飾りだ。それ故に、メニュー表にも隅っこの方に掲載されている。
僕が何を言いたいのかというと……。
「あとぉ、スマイルひとつください!」
「は?」
つまり、本来なら滅多に注文されないようなものだということだ。
眼前の、如何にもギャルといった風貌をした女子が携帯をこちらに向けながら馬鹿丸出しで笑っている。してやったりといった表情がこれ以上なくうざったい。
適当に笑ってやればいいのだが……そんなものを頼んでも腹は膨れない、お前の自己満足に過ぎないだろ、そんなものに付き合わせるな、そもそもカメラを向けるな肖像権の侵害だぞと毒づきたくて仕方がない。と、いうのも僕が完全に憔悴しきっているからだ。
女の背後をちらりと見遣る。
フロア内は見渡す限り人で埋め尽くされており、長蛇の列は店外にまで伸びている。
尋常ではない熱気が店内に満ちており、喧騒は都市部の交差点となんら変わりないレベルだ。
夕飯時とはいえ、あまりにも混雑している。これはやはり、一部の学校が夏休みに入り学生の客が増えたからだろう。それはつまり、幼年の客が増えるということでもあり……。
「ほぉらお兄さん、笑って笑って!」
こういうことに帰結するわけだ。
忙しいのにそんなもん頼むなと滔々と諭してやりたい。だが、頼まれた以上、断れないことに変わりない。
胸中に渦巻く黒い感情と、非現実的な言動を飲み込み僕は笑った。
「ちょwww 本当に笑ったんですけどwww」
しばき倒してやろうか。
こいつが頼んだ安いコーヒーを頭にぶちまけたい衝動を抑え、僕はひたすら笑みに徹する。
「ご一緒にポテトはいかがでしょうか?」
「いらなーい!」
死〇というド直球な悪意が脳裏に浮かぶ。売り上げにも貢献せず、悪戯に店員の時間を奪うだけの客とか存在価値あるのか……?
固まっている僕を前に、女学生が口角を上げて下品に笑う。
「顔が硬いんですけど、もっと柔らかく! 笑って笑ってスマイル~」
「すみませんね、オプション付きだと有料になるんすよ」
「なにそれ、ウケる(笑)」
ウケるな。
女と、その背後の学生集団が腹を抱えて笑っている。店員からかうのチョー気持ちいい! などとのたまっている。こういうのが、学生特有の青春だとしたら僕は断じていらない。
「ご注文は以上でしょうか」
「以上じゃないでーす!」
「かしこまりました、お会計100円になります」
「かしこまってなくね?」
「お次のお客様どうぞー」
「え、ちょ、これマジ???」
女学生たちを脇の待機列へと押しやり、次の客を迎える。これといって風采の上がらない男が前に出てきた。女学生のようなふざけた雰囲気はない。
「チーズバーガーとポテトM、ドリンクはコーラ。セットでお願いします」
「はい、かしこましました」
普通のやり取りが、何故かこの上なく心地良い。人間に一番必要なのは良識なのだとはっきり分かる。
「えーと、あと……」
「……?」
メニュー表に目を滑らせる男。目当てのものを見つけたのか、財布を取り出しながら満面の笑みで口を開いた。
「スマイルひとつください!」
……なるほど。
僕は真顔で返す。
「100円になります」
――――
「とんだ災難でしたね、先輩……」
「厄日だよ……」
客もまばらになりつつある時間帯。僕はカウンター業務から解放され、後輩と共に清掃業務に勤しんでいる。
あの女学生の所為で、多忙を極めているのにも関わらずスマイルを注文する輩が後を絶たなかった。挙句の果てには写真撮影の要求までしてくるときた。
有料だと告げても、素直に払おうする始末だ。本来無料なものに金銭が発生すれば困るのはバイトの僕だ。チップ文化のない日本では問題にしかならない。
結果として、僕はただただ笑う大衆の操り人形と化したわけだ。
「全部あのギャルの所為だ……。安い買い物しかしないくせに長居、ついでに汚していきやがって……」
ああいう手合いが飲み物1杯で何時間と粘るのだ。そう相場が決まっている。
偏見に満ちた言動をぶつぶつと呟きながら、清掃を終える。
「まあでも、先輩、今日はこれで上がりですよ」
「あー、そう考えると力が抜けてくるな……」
「先輩ずっと顔色悪かったですし、帰ってゆっくり休んで……」
後輩の声がどこか遠く聞こえる。ゴミを掃くモップが何故か滲んだような色合いを浮かべてきて……。
不意に、膝が折れる。それがまるで呼び水だったかのように、全身を虚脱感が覆い、視界が定まらなくなる。
「あ、あれ……?」
「ちょ、せ、先輩!?」
経験したことのない不調が次々と襲い掛かってくる。客の会話や何かを叫ぶ後輩の声が、どこか別世界の出来事のように遠く感じる。それとは打って変わって、心臓の鼓動がやけにうるさく響いていた。
全身を冷や汗が伝う。いや、汗といっていいのかすら判断がつかない。何故、後輩が必死の形相で口を開いているのか、何故、人々が集まってくるのか、何故、視界の位置が低いのか……。分からない、何も分からない。
言葉が延々と空回り続け、思考の焦点すらぼやけてくる。
視界と意識がゆっくりと黒色に蝕まれていく。
幽体離脱していくような、世界から放逐されるような不思議な感覚。
そんな奇妙な意識の中で、僕は何故か昔のことを思い出していた。
遠く遠く、過去へと思いを馳せていく。
まだ、無力だった自分へ。
100円マ〇クが本当に100円だった時代。