友達って
「大学に進学する気はないのか?」
用紙を取り出すなり、教師は尋ねた。
室内に緊張の糸が張り巡らされる。疲労と睡魔に負けそうになる身体に鞭打ち、居住まいを正した。
時刻は16時を回り、夕刻が近づいてきている。
そろそろバイトのシフトに入らなくてはならないのだが、眼前の男は簡単に逃してくれそうにない。
手渡した用紙……進路調査票を見つめる顔は険しい。不服そうな表情がありありと浮かんでいる。
「以前から伝えています通り、僕は卒業後就職するつもりです」
「……分かっているとは思うが、高卒と大卒じゃあ世間での扱いは違うからな?」
そんなことは百も承知だ。
僕の表情から意をくみ取ったのか、教師はひとつ嘆息をつくと別の書類を取り出した。
「お前は成績も良い。奨学金を貰いながら大学に行くという選択肢だってあるだろう」
「奨学金って、要は借金じゃないですか」
これ以上の借金はご免だ。
「借金じゃない、将来への投資だ。それに、都合の良い奨学金だって探せばあるだろう」
「僕にとって都合の良い奨学金となると返済不要のものになりますが、そんな奨学金は2005年現在、存在しません。それに、大学に行くとなるとバイトに充てられる時間も限られます。奨学金と短時間のバイトでは生活費を賄えるとは到底思えません」
そも、成績も比較的良い部類にあるだけで、飛びぬけているわけではない。
仮に奨学金をもらえたとしても、良くて無利子のものだろう。返済義務はついて回る。
「大学生なんて暇を持て余しているようなものだ。バイトだって今以上に入れられるかもしれないぞ」
「勉強しないのなら大学に行く意味ってあるんでしょうか……?」
真面目に勉強すればバイトできる時間も少なくなるだろう。
うまく両立すれば将来は比較的明るいのかもしれないが、僕は直ぐにでも母の力になりたかった。抱えている借金も返さなくてはならない以上、収入を増やすのは急務といえる。
観念したように、教師は大きく息を吐いた。
「……まあ、そうだわな。じゃあ、せめて良いところに就職できるよう学校側でも取り計らってみよう。希望の職種があったら言ってくれ」
「ありがとうございます。それに関しましては、また後日お伝えします。今日はもう、時間が迫っていますので」
言って、壁時計を見る。急げばまだ間に合うだろう。
男が眉間を揉みながらこちらを見遣る。その手には別の生徒の進路調査票が握られている。
「忙しいな、お前も」
僕は再度礼を伝えて、教室を後にした。
――――
「おっ、宗一! 今帰りか?」
廊下を早足で歩いていると、クラスメイトに声を掛けられた。
振り向くと、無邪気な笑みと目が合った。
「なあ、これからクラスの女子とカラオケ行くんだけど、お前どう?」
一切の邪気がない、気さくな言葉。表も裏もない発言に、少し眩しさを覚える。
損得勘定なんてないのだろう。僕とは真逆だ。
「ごめん、これからバイトなんだ。みんなにはよろしく言っておいて」
「なんだ、またバイトかよ」
「悪いね」
角が立たないように、やんわりと断りを入れる。
学校内にいるときは遊びに付き合ったりするが、基本的に放課後は遊びの予定を入れることはない。
バイトに充てられる時間があるのなら、可能な限り働いていたいからだ。
「そんなに金が必要なのかよ~。世の中金が全てじゃないと思うぜ。学生でいられる時間は限られてるんだから、今できることしようぜ」
それは所謂、共に汗を流し切磋琢磨しあうような部活だったり、ひと夏の思い出になるような恋だったり、共に遊び友情を確かめるといった……総じて、青春と呼ぶものを指しているのだろう。テンプレートというか、レトロな価値観だが間違っていはいない筈だ。
彼の言うことにも一理あるだろう。今、学生であるこの瞬間は何事にも代えがたい黄金のようなひと時であるに違いない。僕はそれを金に換えてしまっているわけだ。
「……いや、世の中金だよ」
言葉が漏れる。幸いにも、眼前のクラスメイトに気取られた様子はない。
現在が金に代え難いというのは、理屈としては理解できる。
だが、それは金に困ったことのない者の台詞だ。
物事を行うには先立つものが必要だ。青春だってそうだろう。先に挙げた部活なら活動費や備品代が必要だし、恋にしても遊びにしたって金がなければ大したことなんてできやしない。
そも、僕の場合はそれ以前に生活費の問題だ。
前提としての意識が違う。
僕にとってバイトとは、単なる小遣い稼ぎではなく日々の糧を得るための仕事なのだ。
「……そうだね。確かにその通りかもしれない。また、機会があったら参加させてもらうよ」
否定はしない。きっと、彼の言うことの方が世間一般では正しいのだ。ズレているのは、僕だ。
「おう、今度こそ参加してくれよ!」
「うん、じゃあまたね」
遠くで彼を呼ぶ声が聞こえた。僕は手を振って別れる。
彼と僕は一応友人と呼べる間柄……の筈だ。
でも、本当にそうなのだろうか。友人なんていないんじゃないだろうか。
親しいのは上辺だけで、本当に親密な関係なんて……。
彼我の距離はそう遠くはないのに、どこか隔絶されたような距離を感じてしまう。
これ以上は何も考えたくなくて、取ってつけたような笑みを浮かべた。
笑って、ヘラヘラと下らない冗談でも考えていれば嫌なことから目を背けられる。心の平安を保っていられる。
不安を置き去るように、その場を立ち去った。
友人たちと談笑する彼の後ろ姿が、やたらと眩しく見えた。
無利子無返済の完全給付型の奨学金が出来たのは2017年かららしいです。
意外と最近……。