脱走
ここからが本番。
夜半。誰の声も聞こえず、静寂だけが満ちる時間。
僕は干し草の上で横になりながら、己が選択に後悔がないか勘案していた。
答えは初めから決まっていた。ただ、踏み出せずにいた。やらずに済む理由を探していただけだった。
罪悪感と焦燥が僕を苛む。
だが、僕にとってこれ以外の選択はない。
「さようなら、先輩」
傍らで眠るオリヴィエの愛馬を撫でる。起きてはいない筈だが、僕の声に呼応するかのように彼、或いは彼女は鼻を鳴らした。
襤褸からワイシャツとスラックスに着替える。オリヴィエが取り返してくれた服だ。置いていくべきか迷ったが、襤褸よりかはマシだろう。それに、とてもじゃないが置いていく気になれない。
「……よし」
大きく息を吸って、吐く。覚悟と共に、木戸を開いた。
新鮮な空気と共に視界が開く。不明瞭な視界を月明かりが皓々と照らしている。
庭園は手入れが行き届いていた。僅かな光を知らない花々が照らし返すように輝いている。どれもこれも色彩が鮮やかなものばかりだ。オリヴィエの品位を表しているような美しさで満ちている。
僕は輝きがつくる影に溶け込むように、道沿いから離れた地を歩いていく。
木の影から影へと。万が一を考慮して、人目のつかない道を行く。
魔女は裏口を開けると言っていた。
裏口というからには邸宅の正門とは反対にあるのだろう。正門は馬小屋から出てすぐ見つけたので、その真反対の位置へと歩みを進める。
息と共に足音を殺す。見た範囲で人がいないと分かっていても、少しでも声を零せば見つかりそうな気がしてならない。
唯一の光源である月明かりを頼りにして、邸宅の裏側へと回り……。
「……」
あった、と口にしかけて慌てて口を噤む。
裏口と思しき扉を月光が照らしている。ここまで月明かりを避けるようにして進んできたが、身を晒さないと戸を開けられそうにない。
周囲に人がいないことを確認して、足早に駆け寄る。
音が鳴らないように、少しずつ力を入れる。戸はすんなりと開いた。
一瞬、罪悪感と共に背後を振り返る。
競い合うようにして連なる窓の数々。そのひとつに、一瞬人影が映ったような気がした。
僕の迷いが生んだ幻影だろうか。
「……ごめん」
一言だけ告げて。
僕は迷いを振り払うようにして邸宅を後にした。
――――
邸宅を後にしてからどれだけ歩いただろう。
馬車で駆けてきた道を徒歩で戻ろうとするわけだから、時間はかかるだろう。
だが、車に乗っていたわけじゃない。そこまで絶望的な距離ではない筈だ。
オリヴィエ……いや、正確にはマルクスタ家はいずれ追ってくるだろう。
大枚をはたいた上に、貴族としての体面に傷をつけてまで僕を買ったのだ。逃がす道理がない。
僕を有効に活用するか、それとも奴隷を買ったという証拠隠滅を図るか。いずれにしても僕を捕らえることに違いはない。
マルクスタ領にいては彼女らの手中にいるも同然。まずは領土を出ないことには何も始まらない。魔導王について調べるのはその後だ。
舗装された道を、人目を気にしながら歩き続ける。既に息も絶え絶えで、足も重い。
「靴がなかったら死んでたんじゃないかな……これ」
オリヴィエが取り返してくれた服の中には靴と靴下も含まれていた。
襤褸よりかはマシと判断したわけだが、目立つことには変わりない。早々に別の服に着替える必要がある。
これでは群衆に紛れることもままならない。マルクスタ家が追ってきた、いざというときに逃げることはできないだろう。
加えて、先述の通り場所を移動する必要がある。この世界の移動手段は馬車であることは把握している。乗合馬車なるものがある筈なので、それも探さなくてはならない。
「何にしても、先立つものが必要か………」
つまるところ、金がいる。
移動手段が機関車や船、トラックであれば気が付かれないように相乗りできたかもしれないが、馬車はそうはいかない。
正規の手段で乗る必要がある。
「働き口を探さないとな」
この世界に日雇いの概念があれば良いのだが………。
マルクスタ家も体面上公に追手を差し向けることはできない筈だ。僕を捕らえに来るのであればメイドや執事達か、誘拐を引き受けてくれるような業者になる。
いずれにしろ、即座には動けない筈だ。
街に直接来るにしても表向きの理由がいる。なりふり構わず、とはならないと思う。
「着いた………」
空が白み始めた頃。僕は懐かしくも、同時に忌々しくもある街へと辿り着いた。
マルクスタ領の主都とも言える中心地。迷宮を擁し、奴隷売買が横行する退廃の街アールメウム。
既に人々は活動を始めている。この世界だと日の出ている時間は貴重だ。ランプのような道具はあるらしいが、貴族をはじめとした上流階級の人間しか所有していない。
「ここからが勝負だ」
雇用先を探せなければ僕の計画……と呼ぶには杜撰な考えも水泡に帰す。
何でもいい。元いた世界でも業種や業務内容を選ばず働いてきた。その経験を多少は活かせる筈だ……!
僕は意気込み、徐々に喧騒を増しつつある通りへと足を踏み出した。
――――
「どうしよう……」
日が沈んだ頃合い。僕は裏通りで頭を抱えていた。
「まさか、どこも雇ってくれないとは……」
首元の忌々しい輪を撫でながら零す。
奴隷だから、という理由で宿屋を始めとしたありとあらゆる施設、個人から雇用を拒否されたのだ。いや、それだけならまだマシな方で僕を捕まえようとする人もいた。
「ちくしょう……。この首輪さえなければ……!」
戻りたい。この世界に生まれ落ちたあの日に。思い出したくもない記憶だが、思い出せずにはいられない。あの男にさえ会わなければ奴隷にはならずに済んだのだ。
だが、幾ら後悔したところで時間が巻き戻ることはない。一度死んで生き返っているのでそれくらい何とかならないものかと考えてしまうが……。
「……はっ!」
気合を入れて手をかざしてみるが、何も起きない。
まあ、そりゃそうだよなぁ……。
魔女に言われたことが事実であれば、僕には異世界の言語を話すこと以外にも能力があるらしいが、能力の片鱗さえ見えないのが現実だ。
英雄として召喚された、なんて言うものだから常軌を逸した膂力や異能でもあるかと思ったのだが、そんなものは微塵もなかった。
雇用してもらえないので力ずくで金を奪う、なんてことも考えたがこの調子じゃ不可能だ。すぐに捕まるのがオチなのが目に見えている。
それに、犯罪だし。今よりも現状が悪化するのは間違いない。
「ひょっとして、これ終わったのでは?」
オリヴィエの下から脱走して半日少し。一日も経たずして僕の逃走劇は幕を閉じようとしていた。
こんなことならば逃げない方が良かったのでは……。
詮無いことばかりが脳裏を過る。
「は、ははは……。駄目だ! 終わりだ! おしまいだ! はははははははは!!」
もうなんとでもなれ! 僕はここで野垂れ死ぬんだ!
地面に身を投げ出し、大笑する。
「あーこんなことならもっと遊んでおけば良かったかもしれない! いや、それはないか! 麗しき日本よさらば! 僕は異国の地で果てます! 母さんどうか親不孝な息子を許してください! ってこんなこと言ってもどうしようもないんだったわ!」
あーもうどうにでもなーれ!
いっそ骸骨に会った時に死んでおけば良かったか? そうすれば二度も絶望せずに済んだわけで。
せめて僕を売り飛ばした男に一撃くれてやりたかった。
なんて、益体のない思考ばかりが脳内を埋め尽くしていたとき。
「あの、君日本人だよね?」
引き攣った顔が、僕を覗き込んでいた。
その顔は見慣れたものだった。駅に行けば誰かしら同じ顔つきの人間がいそうな、特徴のない顔。
だが、この世界ではこれ以上ないほど特徴的な顔。
「……はい、日本人です」
僕は、同郷の人間に生き恥を晒した。




