魔法と非現実的な現実
「現在、領主であるオリヴィエ様の父君が不在の為、オリヴィエ様が領主代行を務めております。市井にその姿勢をアピールするため、自ら市中警邏に打って出たというわけです。そこで、偶然奴隷市の方にマレビトが出品されていると聞いたので、慌てて駆け付けた次第……ということになります」
無感情、といった割には随分とお嬢様……オリヴィエとやらに肩入れしているような気がする。ただの事実の陳列……かどうかは、僕には判断のしようがない。
事実を語られても、それを理解できるだけの情報が根底から不足しているし、何より信頼がない。
滔々と、淀みなく語る彼を尻目に、傍らのメイドが茶化すように小さく呟く。
「まあ、本当はお館様の目が離れた隙に遊びたかっただけなんだけどね~」
「メイ!!」
お供の一言に、狼狽するオリヴィエ。顔が赤いのは夕日の所為ではないだろう。どこか気まずそうに抗議の声を上げるが、メイドはそれを意に介した様子はない。
執事は主が醜態を晒す場面には一瞥もくれずに、ただ僕だけを双眸に映している。
「オリヴィエ様が先も申しました通り、我々は貴方の持つ知識を欲しています。オリヴィエ様は現領地の窮状を憂いており……」
「そこからは私が話すわ」
改まった咳払い。少女特有の高い声が漏れる。
切れ長の瞼を閉じたのは数瞬。再び瞳を開いた彼女に動揺はない。芯のある声で告げる。
「確かに、伯爵が奴隷を持つのはご法度とされているわ。奴隷は金銭的余裕のない……或いは、貴族としての自意識の欠けた、爵位の低い貴族足りえない貴族が持つものとさえ言われるわ。一般的な貴族なら他家の四男や五男、三女四女なんかを執事やメイドとして雇い、関係を作り、力関係を示すものよ。でも、法的拘束力はないの。ただの慣習、習わし、見栄なのよ」
所謂、暗黙の了解というものだろうか。
形骸化した伝統、というのならば日本にも枚挙に遑がないほど存在した。意味もなく、ただ積み重ねた年数をありがたがる人は、確かに存在する。
混濁とした脳髄の隅で、冷静な思考が空回る。
少女が陶磁のような白い腕を思案気に組む。白魚の如き指先を口元に宛てた。
「奴隷市に私がいるのがおかしいと言ったわね。ネイやメイが言っていたことは事実よ。けれど、もうひとつ。現マルクスタ家と奴隷商は切っても切り離せない関係にあるの。だから、彼らは私の言うことを聞くし、危害も加えない。けれど、けして善人ではない。だから、監視の目が必要なのよ。それで、時々睨みを利かせるため直に見に行くわけ」
物怖じしない視線が僕の網膜に注がれる。典雅な挙措、落ち着いた物腰に、僕は思わず怒りを忘れてしまう。
それまでの少女然とした立ち居振る舞いとは打って変わり、女傑といった威厳がにじみ出ていた。恐らく、これがオリヴィエという少女の本質なのだろう。
感情を御しきれない子供かと思いきや、大人びた素振りを見せる。貴族らしくないと思いきや、少女とはかけ離れた貴族の貫禄を見せつけてくる。
非常に不安定なようで、芯がある。子供らしさと大人の要素が同居した、アンバランスな人格。
僕は知っている。毎朝、鏡で顔を突き合わせるほどに親密な間柄だ。それは、世間が、時勢が、環境が、子供であることを許してくれなかった人間。
一体、何が眼前の少女を突き動かしているのか。
伊達や酔狂ではない、もっと深刻な理由が――。
ふと、少女が前進し、膝を折る。奴隷と目線が等しくなるその行為に、背後の従者が瞠目する。
顔先が近い。真摯な瞳が、まっすぐに僕へと向けられていた。
「貴方には現状を知ってもらう必要があるの。そのうえで、適切な助言が必要なのよ。望むものなら与えるわ。お父様の許しが出たら執事として雇ってもいい。それくらい、マルクスタ家は行き詰っているのよ。だから、現実を受け容れなさい。そうでないと、適切な助言なんて望むべくもない」
……本気、なのだろう。他人より先んじたい、とか。地位や権威が欲しい、とか。そういう凡俗で低俗な次元ではなく。本気で窮状を脱したいと考える、それに足る理由と動機があるのだ。
大衆文芸に出てくるような一般的な貴族ならば、誇りと自尊心を損なわぬよう、こんな行為には及ばないだろう。ならば、これは自分の誇りを擲ってでも成し遂げたいという心情の現われ。
それを、僕は知っている筈だ。
「……」
そんな人間の言葉を嘘だと断じて良いのか。それは、自分に対する裏切りにならないのか。
嘘の可能性が潰えたわけではない。僕の信頼を得るためのポーズということもあり得る。
だが、それでも。信じてしまいそうになる。
――ここが、異世界であると認めてしまいそうになる。
「――ッ」
目を、逸らしてしまう。彼女の熱意を直視できない。
それでも、彼女が僕を見ているのが分かってしまう。
現実から目を背けるなと、言外に語っていることを理解できてしまう。
束の間の静寂。耐えきれない一瞬。痛いほどの静けさが場を満たす。
沈黙を破ったのは、控えの執事だった。
「……失礼、お名前をお伺いしても?」
「……宗一」
吐き捨てるように呟いた。
「宗一様は今いる世界が異世界だと信じられないと仰いましたね」
「……ああ」
あまりにも現実味がなさすぎる。非常識極まりない。
逆に、何故彼女らは僕が異世界から来たと断ずることができるのだろうか。
顔つきだろうか。僕が目にした人々は、所謂洋画に出てくるような欧風な顔貌だったのに対し僕の見た目は東洋人と、相貌はかなりかけ離れている。奴隷商も黒髪黒目、幼い、などと外見的特徴を上げていた。
だが、それだけで信じるのか。善人ではないと断じた奴隷商のつけたタグを素直に信じるとは思い難い。
漂流組合なるものの実例があるからか。
それとも、他に根拠となるものがあるのか――。
「私、聞き及んだことがあります。異世界に来たばかりのマレビトの皆さんは、魔法というものを存じ上げないのだとか。察するに、宗一様のいらした世界では魔法が存在しないのでは?」
「そんなものあってたまるか」
まるで魔法が存在するかのような口振り。反射的に切り捨てる。
執事は僕の反応に満足気に頷くと、背後を振り返った。
「では、それを以てここが宗一様にとって異世界であるという証左に致しましょう。メイ」
「はい、お兄様」
呼びかけに応じて、メイドが一歩前に出る。主人を茶化したときのような雰囲気はなく、いたって真面目そのもの。傍らに分厚い冊子を抱えている。
彼女は希薄な表情で僕を見据えると、おもむろに冊子を開いた。白い指先が本をなぞり、ページを捲る。その手つきはどこかこなれている。
「これは魔導書……或いは魔本と呼ばれるものです。これから起きることを、目を離さずによく見ておいてください」
ページに目を落としたまま、淡々と言葉が紡がれる。
揶揄されているのかと疑いたくなるが、そのような雰囲気は微塵も感じさせない。
本気なのか……?
猜疑心に満ちた視界の中で、メイドが手を前方へ翳す。
「『水滴よ、貫け』」
口上と同時に、空間に違和感を覚える。第六感とも言うべきものが警鐘を鳴らし始める。
「なっ……」
翳された手の先で、見えない何かが蠢いている。
それら形而上的存在は、徐々に輪郭を露にしていき、中空に、無に。淡く光る輝きを密集させ流動物を象る。無が有を生む瞬間。物理法則を捻じ曲げる超常の力。僕は、まごうことなき奇跡を目の当たりにしている。
――現出する。
光は先端の鋭利な水滴へと身を転じ――。
「『水針』」
無機質な瞳と目が合う。視線を認知するのも束の間。中空に漂う水滴が霞み、耳元で真空を裂いたような音が鳴る。次いで、何かが地面に突き刺さる。
硬直する身体。辛うじて動かした視線が、先端を地中に埋めた針を捉え……。僕は遅れながら攻撃されたことを悟った。
瞠目を禁じ得ない。
これは、神秘そのもの。普遍的に認知される魔法はまさにこういったものだろう。数多の人間が夢想し、掌中に収めようとした未知。
まさか、そんなものが……。
 




