マレビト
乾いた草の匂いがした。草原に寝転がっているような感触と、陽光を帯びた温かみのある香りが鼻腔を満たしている。
空腹感と倦怠感に揺り起こされ、目を覚ます。
長い、悪夢を見ていたような目覚めだ。頭は重たく、名状し難い感情が胸中に巣食っている。
「うっ……」
うつ伏せに倒れていた上体を起こす。目に入ったのは干し草。山のように積まれた草のうえで寝かされていたようだった。
次いで、土と肥料、そして脂臭い動物特有のにおいが綯交ぜになって嗅覚を刺激した。
干し草に顔を埋めていた時とは打って変わった激臭。幼い頃、近所にあった農場を想起する。幾分か耐性があるとは言え、不意打ちでこのかおりは堪えるものがある。
「……悪いわね。後で肥料の方は片付けさせるわ。換気も定期的にさせておく」
においに気を取られる余り、傍にいた人物に気が付けなかった。
声の方に目を遣ると、例の貴族の少女が執事とメイドを引き連れて僕を見下ろしていた。
「どこだ……ここ」
「離れにある馬小屋よ。悪いとは思ってるけど、あと数日もしたらお父様が帰ってくるわ。貴方のことは、その際に話す」
呆然と、少女を見上げる。
「その前に貴方がここにいることがバレると面倒なの。だから、馬の世話という名目で貴方に会うために暫くはここにいてもらうわ。
お父様を説得し次第、本館に移ってもらうから、少しの間我慢して頂戴」
一方的な宣言を余所に、僕は今迄の記憶を呼び起こす。
起き抜けの頭では、うまく状況を読み込めないが……気絶する直前のことはよく覚えている。
「夢じゃ……なかったのか」
バイト先で倒れて、目が覚めたら見知らぬ地にいたこと。騙されて、奴隷にされたこと。
そして、眼前の少女に買われ……。
――ここが異世界だと、言われたこと。
「違う……」
自然と、否定の言葉が口から漏れた。
瞬間、胸に蟠っていた感情が膨張し、爆発的な激情へと変貌を遂げる。
不安、絶望、恐怖を覆い隠すように、激烈な怒りで上書きされていき、自制できそうにない。
自身を俯瞰していた冷静な思考さえも塵芥のように消し飛び、ただ眼前の現実を否定すること以外考えられなくなる。
「ここが異世界なわけがない……」
複雑に入り混じった感情は、癇癪を起こす子供のように僕の内で弾けていく。冷静さに欠いていることが分かっていても、感情を堰き止めることはかなわない。
否定以外の言葉が思い浮かばない。一度認めた筈の現実を直視することが、強迫観念じみたレベルで躊躇われる。
二度と帰れないなど……あるわけがない。
だって、僕は喋れている。言語を理解している。
「あんたも日本語を喋っているじゃないか!」
厳然たる現実を否定できる要素を、我が意を得たりとばかりに叫んだ。
快哉を叫ぶような刹那の快感と、僅かな懸念が脳髄に染み込んでいく。
痴態を露にした奴隷に対し、主人が顔を歪ませる。
「口の利き方には気を付けなさい。礼儀は弁えていたと思っていたけれど」
冷徹な視線。少女ではなく、貴族としての……権力者の側面を覗かせた視線が僕を射抜く。だが、それも束の間の事。厳しい相貌が同情を帯びていく。
「貴方は特別、だと言った筈よ」
諭すような口調。激烈な感情の内に、疑念が芽生える。
「普通のマレビトは奴隷になんてならないわ。貴方たちマレビトを集める組織に匿われるというのもあるけれど……。喋れない奴隷なんて不要だもの」
まるで僕が普通ではないと断定するような口振り。しかし、その意図は熱くなりすぎた頭では理解できない。
「貴方たちマレビトの価値は、個々人が有する神の加護と異界の知識。
前者はマレビトでなくとも代替者がいる、けど、後者に替えは利かない。
そして、異界の知識は組合が厳重に管理下においていて、恩恵を受けられるものは限られる。だから、言葉を解するマレビトでなければ意味はない」
呆然自失する僕に、一歩、少女が踏み出す。
粗雑な木窓から射す黄金色の夕日を背に、少女が決然たる面持ちで告げる。
「そして、そういったマレビトは殆ど組織の保護下。貴方はイレギュラーなの」
後光を背に公然と言い放つ少女。
僕が特別だと……? 言葉を喋れることが?
神の加護、という単語が脳裏に引っかかる。
僕が言語を解しているのは、神の恩恵だとでもいうのか……?
「嘘だ、僕を騙そうとしている」
そんな非現実的なことを信じるよりも、僕を騙そうとしていると考える方がまだ信じられる。
僕から先進的な知識を得ようというのは本当なのだろう。現状、それ以外僕に価値はないからだ。
そも、辻褄が合わない点が多い。
「伯爵は奴隷を保有しちゃいけないんだろ……? そもそも、奴隷を保有できない伯爵が都合よく奴隷市にいるのもおかしい。全部、嘘なんだろ!?」
あまりにも都合が良すぎる。偶然領主の一族である貴族が街にいて、奴隷を保有してはいけないのにも関わらず、偶然奴隷市にいて。
蓋然性のない現実だと、信じられるわけがない。
剥き出しの怒気に一瞬怯む少女。しかし、直ぐに柳眉を吊り上げる。
「……口に気を付けろと何度言えば――!」
ワンテンポ遅れての怒号。怒らなくてはいけない場面だから、感情を引き出した――そんな、不自然さをどことなく感じる。
だが、激怒していることは事実だ。怒鳴られること、なんなら、何の正当性のない理不尽な怒りを向けられることにも慣れている。僕は目を逸らすことなく、敢然と少女の視線を受け止め――。
「それに関しては私から説明しましょう」
視線に割って入るように、控えていた執事が一歩前に身を出した。
恭しく、首を垂れる。
「不肖、オリヴィエ様の執事である私、ネイが事情を説明させて頂きます」
面を上げた彼の表情は、能面のように無そのものが張り付いていた。
主人である少女を庇うように、僕を見据えている。
 




