受け容れられないもの
車輪の回る音がする。
窓を見遣ると、市場の喧騒が軽やかに流れていった。窓に映る市民の目は、どれも猜疑的な印象を受ける。こちらと目が合うと、三々五々と散るように目を伏せていく。
漆喰のような艶やかな黒と、真紅の赤。格調高い彫金の施された優美な馬車に、乗せられていた。外観だけの張りぼてではなく、内装もまた落ち着きのあるもので座り心地も良い。
きっと、珍しい体験をしているのだろう。惜しむべくは、僕が客員ではなく奴隷として積載されているということだ。
車内は四人。僕の主人である貴族の少女、その御付の執事、メイド、そして奴隷である僕だ。
皆一様に、普遍的なイメージ通りの恰好をしている。少女は依然紅色のドレスを纏い、齢20歳程度に見える執事は片眼鏡に燕尾服、メイドは貴族の少女同様16前後に見え、裾の長い給仕服を着用していた。そして僕はというと、襤褸が全身を覆っている。元々着ていた服は奴隷になった時に取り上げられている。文明の遅れたこの国に於いては、良い金策になったかもしれないだけに惜しい。
「……」
沈黙が車内を支配している。
少女はちらちらとこちらを見てくるが、声をかける様子はない。
執事は柳眉を伏せたままで、メイドは興味なさげに流れる景色を眺めている。
馬の蹄が道を踏み鳴らす音と、僅かな車体の揺れが空間を満たしていく。
メイドと同様、外に目を遣り、同時に自身の内心に目を向ける。
……銀髪の少女のことが思い返される。
――切り捨てるべきだった。
少女に懇願したときのことを脳裏に思い浮かべる。
我ながら、図々しい願いだ。他者に救済を強要するなど、厚顔無恥にも程がある。
今後の自分のことを考えれば、好感を損なう発言でもあった。今は無難にやり過ごすのがベストだと理解できている筈なのに、衝動を抑えきれなかった。
何故、僕はあの少女に固執していたのだろうか。
精神的に助けられたのは事実だ。だが、それだけとも言える。僕の窮地を変えるような、根本的な救いにはなっていないのも厳然たる現実だ。
冷徹無比とも思える思考だが、僕の人生に於いて救ったものや救われた経験はあまりにも少ない。自分の身を考えることで精一杯で、いつだって他者を慮れる余裕なんてなかった。だから、苦境にあっても思いやりの心を持った少女に惹かれたのかもしれないが……それだけが理由とは思えない。
何故、こんなにも強烈に胸に焼け跡を残していくのか。
まあ、結局のところは、また、救えなかっただけなのだ。いつだって、僕は無力だった。
今僕にできるのは、彼女たちに良い買い手が見つかることを祈るだけだろう。
何かをしてやりたい気持ちはあるが、何かをしてやれるだけの力はない。
自身の無力さに歯痒くなってくる。益体のない思考は打ち切ろう。
今は我が身のことだ。幸いにして、貴族に買われた。これは不幸中の幸いだ。
時間をおいたことで、少し冷静になれた。
改めて、現状を整理しよう。
僕はバイト中に意識を失って、気が付いたら遺跡? の中で倒れていた。怪物に襲われて、それを探索者を名乗る男に救われて……売られた。服を剥がれ、奴隷になり……何故か高級奴隷として扱われ、貴族に買われた。豪商に買われるよりはマシ、らしい。そして、僕に価値があるのは僕がマレビトという存在であるから、とのことだった。
目下の疑問はそれだ。
マレビトについて知る必要がある。自身の価値を把握しておくことは、今後の立ち居振る舞いを決定づけるうえで重要だ。
憔悴した頭では判然としなかったが、今なら多少の推測がつく。
額面通りに受け取るのであれば、稀な人ということだろう。現地特有の言葉である可能性は否定できないが、後述の理由によりこれは正しいものと思われる。
『――さて、本日の大目玉! 艶やかな黒髪に黒目! 幼く見えますが成人済み! 皆さんお気づきでしょう! こちら、天然モノのマレビトでございます!』
司会者の言葉が脳裏を過る。
黒髪黒目、年齢に反して幼く見える……という言葉。これらはアジア人に共通する特徴だ。
推測に過ぎないが、マレビトとはアジア人のことなのかもしれない。
そして度々耳にした漂流組合という単語。保護、という言葉が合わせて使われていたため、察するにアジア人を保護下におく組織ではないだろうか。
奴隷商がマレビト……アジア人を欲しがる理由、漂流組合が保護する理由。それは、進んだ技術や知識を得る、或いは管理下におくためではないだろうか。
周知の事実であるように、日本でも、同様の理由で他国によりかどわかされた人もいる。
だが、あまりにも突飛な推測だ。根拠といえるものはあの司会者の言葉のみ。
しかし、確かめる術はある。
眼前に居座る、少女を見遣る。
マレビトについて理解している人間ならば、目の前にいる。
僕を購入した貴族。僕を商人の魔の手から救ってくれた天使とも言えるし、奴隷として使役する悪魔とも言えよう。
「何よ、その眼は」
矯めつ眇めつ眺めていると、それが気に障ったのか、少女は不機嫌な声を上げた。
慌てて視線を切り、委縮した様相を見せる。
このお嬢様の言動から察するに、彼女は我儘且つ傲岸不遜、天上天下唯我独尊とでも思っていそうなタイプの人間だ。貴族特有の高慢さ、なのだろうか。
ここは下手に出るのが得策だろう。
「すみません、こちらに連れてこられてまだ一日も経ってなくて……。何もかも、よく分からないんです」
正直な胸の内を明かす。嘘を交えるのも良くはない。虚実入り混じる言動は信用されないし、嘘というものはここぞというときに使うものだろう。
僕はそれをされた側なので、身に染みて理解している。
お嬢様は思案顔で俯いた。
「ふーん、そう。それは私にとっても不都合ね。いいわ、聞きたいことがあれば答えてあげる」
大儀そうに告げて、気だるげに足組みをする。赤色の中に肌色が混じる。ドレスのスリットから健康的な足がこちらを覗いていた。
……節々に現れる粗野な物言いに、この所作といい、貴族らしいのは恰好だけだな。
だが、こちらとしては望ましい展開だ。物語で見るような、高慢ちきな貴族らしさはなく、意外と対応は真摯だ。僕の要求に対しては理由を添えたうえで断ったし、疑問があればそれに答えるというスタンスを取っている。高級であろうが、僕が奴隷であることに変わりはないのだし、態々律義な対応などしなくても良いはずだ。
そうとなると、僕の信頼を得たいのか……それとも、彼女が言動に反して人格者なのか。
どちらかなのだろう。
僕の窺うような視線に対して、彼女は泰然自若と構えている。
「でも、貴方の疑問を答える前に私から質問。貴方の名前を教えなさい」
相変わらずの高圧的な物言い。しかし、口調は平坦で恫喝するようなものではない。
「姓を如月、名を宗一と申します」
「ミドルネームはないけど、平民の癖に姓があるの。
やっぱり、マレビトなのね」
ふふん、と口元を緩め、満足気に首肯。
一転して上機嫌だ。疑問を尋ねるのなら今が良いだろう。僕は窺う態度を崩さずに、核心をつく。
「その……マレビトっていうのが良く分からないのですが
察するに、遠方の希少な人間、ということでよろしいでしょうか?」
僕の疑問に対して、彼女は一層笑みを深める。
「マレビトって、やっぱりみんなそこそこ知恵が回るのね」
このくらいなら誰にでも分かるだろう、と思ったが……。
もしかすると、貴族以外は教育を受けていないのかもしれない。文明が遅れているようだし、それもあり得るだろう。
僕の思惟を余所に、彼女が二の句を継ぐ。
「まあ、殆ど正解よ。正確には、異界の人間を指すわ」
異界……?
不可思議な言葉が漏れる。額面通りに捉えるのならば、それは……。
「異世界ってこと……ですか?」
「貴方たちマレビトからしたら、そうなるわね。世界を隔てた彼方より訪れし稀な人々。遠い昔、神々の争いにより生まれた世界の綻びより迷い込みし者。1000年前の、特別な才を持った100年戦争の6英雄たちのうち4人はマレビトだったそうよ。貴方は特別なの。思い当たる節はない?」
広場の時とは打って変わって、親切な口調。
1000年前とか100年戦争とか、意味が分からなくて興味が惹かれる単語があったが……。
それ以上に、ショックが大きい。異世界、という単語に愕然とする。
いや、気づいていたのかもしれない。怪物の遺骸が消失したにも関わらず、その原理を説明できるような文明がないと知ったとき。中世的な街並みを見たとき、獣人を見たとき……。気付くだけの材料は幾らでもあった。ただ、僕が目を逸らしていただけだ。
「嘘、だろ……?」
ここが異世界だと受け容れるということは、実質的に母の下に帰ることは不可能だと認めるようなもので……。
意識の波が、引いていくのが感じ取れる。
飲まず食わずの強行軍が祟ったのか、と思うのも一瞬。意識が混濁とし始める。
思考が空回りし、視野も狭い。心の芯が冷えていく。だが、何故か冷静さは脳裏の片隅に残っている。恐怖もない。
――ただ、心は軋むような音を立てている。
母と共に在ることが僕の全てで……。それがもう、二度と為されないのは僕自身を否定されるも同然で……。
「受け容れなさい」
僕の表情を見て取ったのか、無表情で少女が言う。
走馬灯のように母との辛い日々が脳裏に蘇る。貧しくも明るかった家庭。母の温もり。いつか楽をさせたいと、そう思っていたのに。苦労をかけてばかりで、まだ何も返せてなんかいない。
マザコンと呼ばれるような醜い固執かもしれないが、それでも、たった一人の肉親なのだ。
もう、帰れないのか?
恩義に報いないまま、異界で朽ち果てるのか……?
物語の主人公のように、自身に不都合な現実を受け容れられるだけの度量は僕にはない。
ここに来るまで、絶望して、恐怖して……。それでも、なんとか踏ん張ってこれた。必ず帰るという目標があったからだ。だが、それが不可能だと知った今、僕を支える者はもう何もない。
プツリ、と何かが切れるような音がした気がした。幻聴だったのかもしれない。だが、もう限界だった。
無理、疲れたという言葉が脳髄を満たしていき……。
気付けば、僕は意識を手放していた。




