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第五夜 後編 業火の中

凄まじい唸りを立てて部屋全体が燃えていた。

音羽は信じられない光景を目の当たりにして、眠気が吹っ飛んだ。


「な、何が…どうなっているのやら…」


「とにかく、ここを出るぞ!」


音羽はすぐに起き上がると、現状に思考が追いついていない千代の腕を引っ張って部屋を出た。廊下に出ると、いよいよ建物全体に火が回っているのがわかった。ここで、千代も音羽も強烈な違和感を感じた。


__誰一人として、騒ぎ立てている人間がいない。


外の様子はわからないが、少なくともこの妓楼内で逃げ惑う人々の姿がなかった。

ひょっとしたら自分達が寝ている間に皆避難してしまったのだろうか?そんな疑問を胸に千代は、他の部屋の手近な戸を開けて確認した。


そこは千代達が居た部屋と同様に個室になっていて、遊女と男性が布団で横たわっていた。これだけ火が回っているのに、二人とも静かで動かない。__千代は嫌な予感がして目を背けた。

音羽も別の部屋の戸を開けた。そこでも遊女と一人の男性がいる。


「_____ヒッ…」


千代は思わず小さな悲鳴をあげる。二人は裸で抱き合った状態で、さっきの人達と同じように目を閉じて動かない。

明らかに尋常じゃなかった。千代は胃の中の物が出そうになる感覚を覚えた。


「…な、こんな…し、死んで…」


千代は身体中の力が抜けてその場に崩れ落ちそうになった。音羽はすぐに千代の身体を支えた。


「…いや、違う。寝ているだけみたいだ。」


音羽にそう言われて、千代はようやくまともに人々を観察した。千代の見た限り、彼らの胴が規則的に上下していた。正常な呼吸をしている事がわかる。千代は少しだけ肩の力が抜けた。


「ほ、本当ですね…。でも、何故誰も起きていないのでしょう…。」


混乱していた思考回路がようやくまともに動き出すと、出てくるのは疑問だ。悶々とする千代に、音羽は一声を出した。


「うだうだ考えるのは後回しだ!!手分けして皆を叩き起こすぞ!」


「は、はい!!」


千代と音羽は手分けして人々を起こした。千代は声をかけるだけなのに対して、音羽は体を揺さぶったり怒鳴ったり、たまにどついたりと、文字通り叩き起こしている。千代はやりすぎでは?と思ったが、音羽のやり方が正解だった。音羽ぐらい強引に起こさないと皆なかなか目がさめなかった。

人々は目を覚ますと最初こそ眠気で何が起きているのかよくわかっていないようだったが、すぐに自分達が窮地に立たされている事に気づき、火の音が喧騒で掻き消える程の大騒ぎに発展した。皆、押し合いへし合いいち早く建物の中から脱しようと騒いでいる。


「音羽さん!!」


千代はこの騒ぎの中からやっとの思いで音羽を見つけた。千代はこの様子ならもう二階の人間はとりあえず大丈夫だろうと判断した。


「一階も!」


「…ああ!」


千代と音羽は人々の流れに乗じて一階へと階段を下った。そこでも、やはり、人々は寝静まっていた。千代は天井を見た。若干歪んでいるようにも見える。また、火の手によって所々天井の部位が落下していた。早くここを出なければ、建物に押し潰されてしまうだろう。だが、一階にはまだ、音羽の大切な『家族』がいる。まだ逃げるわけには行かない。

一階には、下級遊女や禿達の雑魚寝部屋や奉公人の雑魚寝部屋、楼主の家族の生活スペースなどがあった。

千代は禿達の雑魚寝部屋に入る。ざっと十数人は居た。部屋の外から、二階から逃げてきた人たちの騒ぎ声が聞こえるが、誰一人として起きていない。


(もうなりふり構っていられません!!)


割れんばかりの大声で叫びながら少女達を蹴っ飛ばしたりゆさいだりした。少女達は一人、また一人と目を覚まし現状を理解して震え上がる。腰が抜けて動けなくなってる子も居て、千代はその子の腕を掴んで無理やり立ち上がらせた。大体起きてきたのを確認すると、千代は一旦音羽に合流した。


「あの部屋に居た子達は起こしました!」


「……そ…か…あり、がとう…」


音羽は酷く騒いだせいなのか、かなり消耗しているようだった。はあはあ、と呼吸が乱れているのが見て取れる。


「…あんたは…そろそろ…逃げろ…後は…俺が…やるから…」


「い、嫌ですよ!私だけ逃げるなんてできません!」



___千代が反論する、その時だった。


音羽の身体がぐらりと揺れ、その場で倒れた。



「__音羽さん!?」


千代はすぐに音羽を抱き起こす。音羽の顔は汗でびっしょりで真っ青になっていた。明らかに様子がおかしかった。


(__そうだッ…!!音羽さんは、肺が弱い!)


千代は、音羽が煙管を普段から吸っていないのを思い出す。それは、音羽の肺が元より弱いためだと聞いた。火事の中、煙を吸って、さらに走り回ったりほとんど暴れるように人を起こしていたものだから、相当身体に響いたのだろう。


「な、なんでこんなになるまで言ってくれなかったんですか!!」


千代は唇を噛み締めた。音羽は苦し気な表情を浮かべるばかりで意識を取り戻す様子はない。こうしている間にも、火の手はどんどん広がっていく。もういつ建物が潰れてもおかしくない状態だった。


__もう頃合いだ。ここを脱出しよう。千代はそう考えた。


まだ、行っていない部屋は幾つかある。だが、これ以上は音羽を背負って出ていくので精一杯だ。他の人たちは、この騒ぎに気づいて逃げてくれることを祈ろう。

千代は音羽の片腕を自らの肩に乗せて運ぼうとする。___しかし、


ギシッ…ギ…ギ…ッ…


「_______ッッ!!」


千代の真上から嫌な音が鳴り響いた。千代はほとんど反射的に音羽を前へ投げた。ものの数秒もしないうちに千代目掛けて、天井の一部が落下してきた。

千代は死を覚悟して、一瞬気が遠のいた。

千代は左足に大きな衝撃を感じ、その場で倒れた。運よく、落ちてきた木は千代の頭や胴に当たることなく、ギリギリ横に落ちた。だが、今の天井落下で左足が木片の隙間に引っかかって抜けない。千代は左足がズキリと痛むのを感じた。多分、骨が折れたか、ひびが入った。


(___ッこのままでは…!)


千代の目の前では音羽は相変わらず意識を失ったままだ。千代は左足にのっかかっている木をなんとかどかそうとする。だが、びくともしない。


「誰か!!助けてください!…誰かっ…!」


千代は叫んだ。人気も大分少なくなり、ほとんどの人間はもう既に外へと逃げていた。もはや、助けは望めないか、と諦めかけた。__が、その時、タタッ…と人の足音が聞こえた。


「すみません!!助けてください!!」


千代は声が枯れる程大きな声で助けを求めた。客だろうか、逃げ遅れた一人の男が千代達から少し離れた所を走っていた。__男は千代達に気が付いた。男は千代達に近く。


「助けてください!!足が…瓦礫の中に埋もれて…」


千代は慌てて短く説明をする。男は音羽を見、そして千代を見た。男は千代の左足に乗っかかっている木に目をやる。

男は少し迷った後、


「…ごめん。」


そう言って逃げて行ってしまった。

千代は愕然とした。


「__ま、待ってください!!せめて…せめて音羽さんだけでも…!!」


男は姿が見えなくなる。それでもなお、千代は諦めず叫び続けた。


「お願いします!!私はどうなっても構いません!!音羽さんだけでも助けてください!!音羽さんを…!!」


見ると、音羽の着物に火が燃え移っていた。いよいよ千代の顔から血の気がひく。


(お願い…誰か……あの人を救って…)


千代は目を瞑った。








______________その時、


「…音羽音羽って…うる…せえ…な…」


すぐ近くから聞こえるはずがない声が聞こえて千代はぎょっとした。音羽が意識を取り戻したのだ。


「…音羽さん!意識が戻ったのですね…!」


意識を取り戻したと言っても、大分音羽が弱っている事には変わりなかった。だが、それでも千代は嬉しくて涙が出そうになった。


「ああ…。こんだけ近くで何度も名前呼ばれちゃ…起きたくなくても起きるよ…」


「音羽さん、もう建物が限界です!早くここから脱出してください!!」


音羽は床に手をついてゆっくりと立ち上がった。燃えていた打掛(うちか)けを脱ぎ捨てた。そして重い足取りで歩を進める。だが、その進行先は出口でなく、千代だった。


「__な、何をしているんですか!」


「…木、どかすんだよ…」


「私の事は放って、早く逃げて下さい!今にも建物が崩れそうなのがわからないんですか!?」


「…つべこべ、言わずに…あんたも手伝え…よ…」


音羽は千代が止めようとしても聞かず、木をどかそうと腕に力を込める。音羽はゲホッ…ゲホッ…とたんが混じったような咳をする。だが、木をどかそうとする手は緩めない。千代は泣きそうになる。


「音羽さん、もうやめてください!!今なら間に合います!!早く逃げて…!!」


「…うるせえよ…俺を外に出したかったら、あんたも一緒に来る事だ…。いいから…これ…持ち上げるぞ…」


いつまでも逃げようとしない音羽を見かねて、千代も音羽がどかそうとしている木に両手を添え、力をいれる。それでも、木はびくともしない。


「…ずっと、…俺……あんたの事………」


音羽は譫言(うわごと)のように何事か呟いている。

千代は人生でこれまでにない程力を振り絞った。火事場の馬鹿力というやつだろうか、ぐんぐん力が、これでもかという程強くなっていく。

少しずつ、少しずつ木は持ち上がって行った。千代は体中の血管が千切れるんじゃないかと思うほど一番の力を両手と左足に込める。木片は更に少しずつ、少しずつと上がって行き、


__左足が抜けた。


千代は奇跡だと感じた。音羽はそれを見届けると、今度こそ安心したように意識を失った。


(音羽さん…本当に、ありがとうございます。ここからは私が責任を持って連れて行きます。)


千代は再度音羽の片腕を自分の肩に回すとなるべく足早に出入り口へと向かった。足場はかなり悪く、千代は何度もつまずきそうになったり、落ちてくるものに頭をぶつけそうになったりした。千代は無我夢中で音羽をひっぱって出口へと向かう。左足どころか、身体中が傷だらけだった。多分、どこか燃えている。だが、痛みの感覚はもうない。身体がなくなったようにすら思える。千代は出口へと足を踏み入れた。そして___


間一髪、ほとんど身を投げ出すように出口を抜け出た。次の瞬間、建物が崩れた。まるで、地震があったかのように周辺が大きく揺れ、雷のような騒音が響いた。

どうやら、火元は千代達のいた妓楼だったらしく、周りの建物にも火が回っていた。周囲には既に火消(ひけし)がおり、火がこれ以上燃え広がないように周辺の建物を壊そうとしている。人々は酷く混乱しており、人に知らせるために走り回っている者、泣き崩れている者、大荷物を抱えて逃げる者など様々だった。

千代はとりあえず、火事場から音羽を連れて離れる。少し歩いた先では、見覚えのある遊女たちがただ呆然と立ち尽くして火事を見ていた。千代は直感的に音羽の妓楼の人たちだと気づいた。千代が音羽を連れて彼女らに近くと、何人かがこちらに気がついて近づいてきた。


「…音羽…!無事だったのね…!」


「…よかっ…よあっ…たよ…」


遊女達は音羽の無事を知って、泣いたり喜んだり、千代に感謝したりした。

千代はひとまず音羽を彼女達に任せると、身体中の力が一気になくなってその場でへたり込んだ。

死を覚悟した場面がいくつもあった。今でも、自分が無事でいる事が信じられない。


「_____だから、皆寝ていたのよッ!あれだけ火の手が回っていたのに誰一人気づかずにぐっすりと!」


「__そんな事あるもんかねえ。この妓楼だけじゃなくて、周辺の建物の奴ら全員がここまで大事になるまで気づかず寝ていたなんて。」


男女が会話しているのを千代は偶然耳にした。


(…この妓楼だけじゃなくて周辺建物に居た人達も火事に気づかずに寝ていた?)


千代は気になる言葉を反芻した。

確かに、千代が火事に気がついた時点で外が騒いでいた様子がなかった、気がする。誰か一人でも周辺の人々が気がついていれば、千代達が起きる前に誰かしら外から観察したり中に入ったりして異変を察知していただろう。


「___御神体の呪いだわ…。」


別の女が呟いた。さっきまで会話していた男女が振り返る。


「いやいくらなんでもそれは…」


「だってそうとしか考えられないでしょ!臼田教は吉原を睨んでいるって噂だし、誰も目を覚まさず火事に気がつかなかったなんて偶然、ある訳ないじゃない!きっとこれは呪いよ…。火事で死んじゃった人達は御神体の罰を受けたんだわ…。」


「こらよさないか…こんな所で…」


男は周囲を気にした。幸い、千代以外はまともに聞いていそうな人間はいなかった。


…また、臼田教。最近妙にこの宗教の名前ばかりを耳にする。この火事もまた、彼らが絡んできているのだろうか。

確かに、寝る時、いつも以上に強い眠気に襲われたのを覚えている。これが、御神体の呪いなのだろうか?それともなんらかのからくりがあったのだろうか?

千代は考えにふけた。


____もし、後者だとして。

やろうと思えばできない事でもない。内部に協力者がいれば、食事にこっそり眠り薬を仕込んで集団で眠らせる事ができる。もし、本当に今回の事が臼田教の仕業だとしたら、彼ら程の規模の団体なら金で雇うなり、信者を潜り込ませるなりすれば不可能ではない。

だが、そう考えると、客共々全員眠っていた事の説明がつかない。客の中には食事をせずにすぐに寝床に向かう者もいるのだ。

思い当たる手掛かりがあるとすれば、それは…


(____何故、私だけが火事に気がつき目を覚ます事ができたのか、…ですか。)


千代が目を覚ましたのは、異様な暑さと息苦しさを感じ、そしてけたたましい炎の音が聞こえたからだ。だが、それがあるにも関わらず、千代以外の誰もが無理矢理起こさない限り起きなかった。


(着目すべきは、私と他の人達の違い、ですね。)


千代は更に考えを進めた。まず、最初に思いつくのは、他の客が男であるのに対して、千代が女である事だ。加えて言うなら、音羽は男であるので客と遊女の性別が逆転している事になる。だが、今回の件では男女問わず被害にあっているので、性別はあまり関係ないように思えた。


次に思いつくのは、


『____布団は離した方が良いですよね。…い、いえ!別に音羽さんのような素晴らしい遊女を襲おうとなんて微塵も思っていませんが、やはりこう言うのはしっかりした方が良いと思うのです!』


遊女と距離をとっていた事だ。ここ、吉原に来るからにはほとんどの客が、遊女と触れ合ったり密着したりしているはずだ。だが、千代は音羽に気を使って距離を置いていた。__関係があるだろうか?


(…あと、思いつくのは…)


『______ほら、この部屋他と違って角部屋だから二つ窓がついてますよね。しかも対角線上に。このように窓が対角線上についていると空気の出入りが多いと聞いた事があります。お客さんが煙草吸ってたり、音羽さんが吸わされたりしても多少はましになるように、音羽さんがお客さんをひくときはよくこの部屋を使っているのではありませんか?…すみません、勝手な推測ですけど…。』


(音羽さんの部屋は角部屋で窓が二つ対角線上…。)



『_____大丈夫かい?お客さん…ってどうした?顔が赤いぞ。』


いつの間にか、千代の目の前には、記憶の中の音羽がいた。音羽は心配そうに千代の顔を覗き込んでいる。

千代は少し口籠(くちご)もりながらこう言った。


『…あ、え…っと…」


『…?』


『…そ、その、音羽さん、花の良い香りがします…。』





……



…………















……………………あ。



以前に音羽がとてもいい香りがする、と言う話を千代は天ぷら屋の店主と話した事があった。店主が言うには、遊女の部屋には「香箱」と言うものがあり、着物や腹巻に香りを薫きしめたり、お風呂に香料を入れて入浴し体に香りを染み込ませているらしい。遊女達は香りによって客に催淫作用を促していると言うのだ。もし、その香箱に、今日この日だけ、睡眠効果のある香を忍ばせる事ができれば、客共々深い眠りにつかせることができないだろうか?客は基本的に遊女に接触したり密着したりする。その時に客にも遊女の香を吸わせる事ができる。

もし、この推測が正しければ、千代だけが起きる事ができた事に説明がつく。睡眠を促す香を纏った音羽から距離を置き、更に、換気の良い角部屋にいたのだ。千代だけが、その香をまともに吸わなかった、と言う事になる。


千代は首を横に降った。

今のは全てあくまで推測だ。証拠がない。と言うか、そもそも本当に臼田教の仕業かどうかも分からないのだ。


(ひとまず、この事について深く考えるのはやめましょう。今大切なのは、何が起きたかではなくこれからどうするかです。何か音羽さん達の手伝いになる事はできないでしょうか?)


千代はまだ力が回復していない体に鞭打って立ち上げる。音羽達の方を見ると、まだ音羽は目を覚ましていないようだ。遊女達が出来る限りの処置をしている。次期、医者も来るだろう。千代は彼女達の所へ戻ろうとする。


(_______っ)


その時、千代は視界の端で、()()()に目を奪われた。


ポツ…ポツ…と冷たい何かが頭にあたり始める。


「あ、雨だ!!雨が降って来たぞ!…ありがたや…!ありがたや…!!」


「や、やった!おい、これなら俺の妓楼を潰さなくていいだろ!?」


「ああ…!なんまいだ、なんまいだ。」


周囲の人間は皆星一つない真っ暗な空を見上げて、歓喜の声をあげたり合掌したりしている。

そんな周囲の歓声すら耳に入らず、千代はある一点を見つめていた。視線の先にあるのは、火事の様子を見つめている一人の男。千代はその男の、ある身体の一部から目をそらす事ができなかった。それは、妓楼を容赦無く焼き尽くそうとする炎に照らされて、はっきりと千代の目に映った。


____男の手首にはうっすらと傷があった。


『ま、これを機に、あんたも臼田教には気をつける事だな。この間は言いそびれちまったけどよ。連中を見分けたければ、手首の傷を探すんだ。それは臼田教である事の証らしい。もし手首に傷があれば、そいつは奴らの仲間かもな______』


千代は天ぷら屋の常連客の言葉を思い出す。千代は思わず息をのんだ。

手首に傷がある人なんて世の中幾らでもいる。臼田教と決めつけるのは早計だ。だが、なんとなく、千代には、その男が周りと違う空気を(まと)っているように思えた。理屈じゃなく、ほとんど勘に近い。

男は無表情で感情が読めない。雨を直で浴びている事を少しも気にしている様子はない。男はしばらく火事の様子を確認すると、足早にここを立ち去った。千代はほぼ反射的に立ち上がる。左足がズキリと痛んだ。千代は顔を歪め痛みに耐えた。千代は男の去った方へ、なるべく気配を隠しながらついて行った。


男は千代が走るのと同じなんじゃないかと言うくらいの速さで歩いていく。あっという間に正門を抜け、吉原を出ていった。千代はこれ以上尾行しようか迷った。あの男と臼田教の関連性に期待して思わずついて来てしまったが、そうでない可能性の方が高い。左足が負傷した状態でどこまで気づかれずに尾行し続けられるか分からないし、吉原をでてしまえば見失う確率が格段に上がる。

尾行が失敗する可能性は高いし、もし失敗した時相手によっては危険な目にあうかもしれない。

だが、千代はどうしても男を追いかける足を止められなかった。

もし、男が臼田教と関わっている人間だとして、そして、もし、本当に臼田教が今回の火事の黒幕だとしたら、赦せない。

それに、もしかしたら、竹の手掛かりも掴めるかもしれない。気がつくと、千代は男の後を追って駆け出していた。


雨の中、男の後を付け出してそれなりに時間がすぎた。全く知らない場所まで来ていて、更に月明かりのない暗い夜道の中で尾行するのは骨が折れた。千代はなんとか夜目をきかせて、目印になるような建物を把握しながら進む。

さっきまで点々としていた雨が、絶え間なく江戸を包むように降っていた。冷たく凍るような雨は、怪我だらけの千代の身体にしみた。だが、同時にこの雨が千代の足音をかき消してくれ、ここまで気付かれずに尾行する事が出来た。

千代は尾行しながらも、妙に胸がざわつくのを感じた。


(手首の傷…他にもどこかで…)


千代は思考を巡らせる。男の手首の傷を見た時、千代は確実に既視感を感じた。だが、それをどこで見たものかどうしても思い出せない。


『その傷は?』


あの時、千代はふと誰かの手首の傷が気になって聞いた。


(つい最近…いや、今日です…!今日、傷に気づいた私はそう質問したのです…!そしてその相手は…)


『これは…前に家具の角にぶつけてできた物です。』


恥ずかしそうに傷を隠す、くにの姿が頭の中に浮かんだ。

千代は何か恐ろしい物が身体中を走り抜けるのを感じた。


千代が起こしに行った、禿達の雑魚寝部屋。__くには居ただろうか?


千代はあの時無我夢中だったから、はっきりとは覚えていない。それに他にも部屋はいくつかあった。くには別の部屋で寝ていたかもしれない。だが、千代は嫌な予感がした。

__くには臼田教の関係者なのだろうか?

自分の中のもう一人の自分が囁くように言った。千代はすぐに首を振った。


(…まさか…くにが…そんな訳がありません!!)


でも、くにがそうでないとなると、彼女の安否が心配だ。音羽を預けた遊女たちの集団の中にはいなかったはずだ。音羽にばかり気を取られていて、くにの事を確認できなかった。


「____誰だ!!」


「________っ!」


突然、男が道を振り返り、叫んだ。はっとして千代は口を抑えて物陰に身を潜める。千代は心臓がはち切れそうになった。

男は千代のいる方へゆっくり近づいて来た。


「……おい。」


(______ッッ)


心臓が喉から飛び出るかと思えた。だが、数秒後、男が声をかけた相手が千代でない事がわかる。千代がいる所の少し奥の物陰からフラッと別の人間の影がでてきた。


「上手くいったか?」


「…誰かが途中で目を覚ましたようで、予定より多くの人間が助かっている。だが、計画に支障はないだろ。」


男達はそれだけ言葉を交わすと、ある建物に入っていった。

そこは_______




















■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪





雨は、気づけば更に勢いを増し、滝のように千代の身体を打っていた。

元がなんだったのか分からない程焼け焦げて形を失った妓楼の前に、女性達は泣いていた。華やかで美しい彼女達だが、今この時だけは急に老けてしまったようだった。千代はその中の一人の元へ歩み寄って行った。


「音羽さん、お身体は…」


「……………………くにがいねえ。」


音羽は一言口にした。

音羽は雨の事など気に留めず、泥がきらびやかな着物につく事もいとわず、地面で静かに正座をして焼け落ちた妓楼を見つめていた。音羽の表情が千代の目線からは見えなかった。


「千早もいねえあきもいねえ四郎もいねえ寅吉もいねえ、__ていかもいねえ」


千代は反射的に音羽を抱きしめた。音羽の頬を伝うのは雨なのか、涙なのか、千代には分からなかった。






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