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第五夜 前編 音羽の過去

千代は刻々と色濃くしていく夕焼けを眺めながら、吉原遊郭を歩いていた。

今日も昼間はずっと竹探しをしていた。相変わらずこれといった収穫はない。だが、一つ気になる話を聞いた。千代はその時の事を振り返った。





「___おい、聞いたよ。昨日は大変だったんだってな。」


声をかけてきたのはこの間の天ぷら屋の客だった。ここは天ぷら屋の屋台で、いつものように天ぷら屋台の店主とお爺さんもいた。どうやら、この客は天ぷら屋の常連らしい。彼は今日もまた、天ぷらの串刺しを買って店主と喋りながら食べていた。


「え、ええ、まあ…。その節はどうもありがとうございました。」


千代は天ぷら屋の店主に頭を下げた。


「いや、礼には及ばんよ。ていうか、実際俺なんもしてないし。」


店主はそう言って恥ずかしそうに頭をかくが、あの時間と場所に偶然にも彼がいなかったら、本当にくには連れさらわれてしまった事だろう。千代はあの奇跡に深く感謝した。

店主はすぐに表情を正すと、少し緊張_というより、怯えた様子で、まじまじと千代を見た。彼は少し言いづらそうにおずおずと口を開いた。


「昨日について色々聞きたい事はあるが、…俺はそれよりも一昨日の方が気になるよ。兄ちゃんも、その…例の騒動のあった集会に出てたんだろ?」


店主の問いに、千代は「ああ…」と一昨日の事件を思い出す。正直、昨日の事の方が衝撃が大き過ぎてその前の事件の事をすっかり忘れてしまっていた。


「やはり噂は広まっているのですね。」


「ああ。女に睨まれただけで、岡っ引が()()()()()なんて(えれ)え話、知らない奴の方がいねえよ。」



「…………………………は?」



___岡っ引が()()()



千代は思わず耳を疑った。兄_平蔵の見解が正しければ、岡っ引は首謀者である女性と手を組んでいて、苦しげにもがく演技をしていたはずだ。


「岡っ引が、亡くなった…のですか?」


千代が表情を固くすると、それを見た店主は驚いた様子だった。


「兄ちゃんは知らなかったのかい?女に睨まれた岡っ引が突然胸を押さえながら倒れて血を吐き出して…」


「そ、その場面は見ました…。」


「…その後、仲間が医者に連れていく途中でそのまま絶命したんだとよ…。」


「____ッッ」


千代は息をのんだ。

兄の推測が間違っていたのだろうか?岡っ引は演技ではなく、本当に『何か』をされて苦しんでいたのか?

千代はあの場面をよく覚えている。女性だけでなく、他の誰もがその岡っ引に近づいたり何かしている素振りは見られなかった。


「実は忍者がいて毒の吹き矢で殺したんだなんて言っている奴もいるが、調べた所そう言った形跡もないらしい。…医者が言うには心の蔵が止まる病気だと。だが、仏さんの家族が言うには、本人は生まれてこのかた持病なく健康な奴だったらしい…。」


店主は震えていた。千代もまた、寒気を感じずにはいられなかった。


______御神体の力。それは本当に存在するのだろうか?


一方、天ぷらを食べていた男の方は呑気にケラケラ笑っていた。あまり本気にはしていないらしい。どこかのゴシップ話ぐらいにしか思っていないのだろう。


「ま、これを機に、あんたも臼田教には気をつける事だな。この間は言いそびれちまったけどよ。連中を見分けたければ、手首の傷を探すんだ。それは臼田教である事の証らしい。もし手首に傷があれば、そいつは()()の仲間かもな______」









そこで千代の回想は止まった。見世にいる音羽の顔が視界に入ったからだ。すぐに向こうもこちらに気がつき目があう。


__気まずい。


千代は一瞬、すぐに目をそらして真っ直ぐ家に引き返したいと言う衝動にかられた。だが、千代は頭を振る。ここで音羽を避けてしまったら、今度こそ音羽を傷つけてしまうだろう。千代は重い足取りで見世に近づいて行った。


「音羽さん…昨日は…」


「昨日は、あんたがくにを助けてくれたんだってな。ありがと。」


千代が謝ろうとする前に、思いがけず音羽の口から礼の言葉が出てきた。


「お礼と言っちゃなんだが、今日はドンと遊んでいきな。値引(サービス)とかはできないけど…。」


音羽があまりにもいつも通りの調子なので、千代は何も言えずにポカンとしていた。

音羽は「それから…」と言葉を続けた。


「…昨日はすまんかったな。」


「…!」


「俺、客を強引に誘惑する事で有名なんだ。お客さん、妓楼(ここ)に慣れていないからびっくりしたろ。相手を見て行動に移すべきだったな、うん。」


音羽はいつものように__菩薩のように、微笑んだ。

千代はようやく心の中で合点がいった。

あれは、音羽にとって仕事で、どの客にもやっている事なのだ。千代は、あの行為が音羽にとって特別なのだと勘違いしていたので、あんな形で拒否をしてしまって罪悪感を感じていた。だが、今、そうでない事がわかった。

千代は少し安心した。胸につっかえていたものがとれた気分だった。


「い、いえ、私の方こそ、ごめんなさい。その…振り払った時、お怪我をなされてはいませんか?」


「全然!なんもなってないよ。」


千代はほっと胸を撫で下ろした。

千代はいつものように中へ通された。いつもの個室へいく途中、くにに出会った。どうやらくには千代が来るのを待っていたようだった。


「あの!お客様!…この間はどうもありがとうございました!」


くには深々と頭を下げた。千代が見たところ、くにに変わりはなさそうだった。だが、ほっとしたのも束の間で、千代は櫛を持つくにの腕に目を止めた。手首にうっすらと赤い跡が残っていた。


「縛られた跡…まだ残っていたのですね…。」


千代は痛々しげにくにの手首を見つめる。


(…?)


千代は手首の赤くなった跡以外に、もう一つ切り傷のような物があるのが見えた。大男に拘束された折に傷つけられたのかとも思ったが、それにしては傷が古傷のように思えた。


「その傷は?」


「これは…前に家具の角にぶつけてできた物です。」


千代が聞くと、くには恥ずかしそうにパッと袖で隠した。とりあえず、手首の傷は大男の件とは関係なさそうだったので、千代は深く追求しなかった。


「何か、お礼ができれば良いのですが…。」


くには困った様子だった。千代は微笑んだ。


「いえいえ、くにが無事なら私はそれで良いのですよ。」


千代は優しく笑うが、くにの表情は暗いままだった。


「あの、これ…」


そう言ってくには両手に乗せた何かを千代に差し出した。

(かんざし)だ。元は桃色の花と二匹の銀色の蝶の可愛らしいデザインの物だったが、今は蝶は一匹おらず、花弁が所々折れていた。


「これ、元はお客様のだって聞いて…。でも、壊れちゃって…。」


くにの声は震えていて今にも泣き出しそうだった。

千代は吹き出しそうになった。千代にとってはくにの無事が一番だったので、簪の事などとうに頭の中から抜けていた。


「良いですよ、そんなの気にしないでください。…そうだ!」


千代は懐から昨日の、髪飾りが入った小袋を取り出した。その中から、ある一つの(くし)を取り出した。


「代わりにこれを受け取ってくれませんか?とても可愛らしくてくににぴったりです。」


千代が渡した鼈甲の櫛は牡丹の花が掘られていて可憐なデザインだ。傍らで見ていた音羽も確かにくにによく似合う、と感じた。


「そ、そんな!命を助けていただいた上に、こんな高価な物まで受け取る事などできません!」


「えーでも、くにによく似合うと思ったのですが。」


千代が尚も食い下がるが、くにも負けじと受け取ろうとしない。

音羽は二人のやりとりを見ていて、くにの行動に違和感を感じた。


(いつものあいつなら、最初は遠慮するふりをするが、もらうもんはきっちりもらうはずだ。)


やはり、この間さらわれた事がくにの心境に少なからず影響を及ぼしているのでは、と音羽は感じた。

二人は奮闘の末、結局くにが櫛を受け取る事で終結した。それでも、尚もくには申し訳なさそうにしていた。


「あ、ありがとうございます…。その、い、一生大事にします。」


「一生は大袈裟ですよ。形ある物いつか壊れる物です。それに、くにが大人になって美人さんになればもっと大人っぽい物を身につけるべきです。」


千代が笑うと、くには何故かほんのりと頬を赤らめた。音羽は、おや?と感じた。

くには目をキラキラと輝かせていた。


____視線の先はもらった櫛ではなく、その贈り主だった。

くには千代が女である事は知らない。音羽は物凄く不快な気持ちになった。


「…じゃあ、俺たちそろそろ行くぞ。これから二人きりで()()()()を過ごすから。」


「お、音羽さん!!その言い方は…!」


千代が顔を真っ赤にした。すると、くにがとんでもない鬼の形相で(しかし千代には見えないように)、音羽を睨みつけた。対して、音羽はいつもの菩薩の笑顔だ。だが、その笑顔には何かしらの()があった。

音羽とくにの間には何もない。何もないはずなのに、バチバチバチバチッッ!!と言う火花が飛び散るような謎の効果音が千代には聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろうと流した。


個室に入り、豪華な食事が運ばれた。千代はいつものように食事をしながら、音羽と話すのを楽しんだ。

だが、途中で千代は、あれ?と気づく事があった。音羽は普段通りの調子だ。だが、どこか妙な感じがした。その笑顔がまるで貼り付けたような違和感があった。その違和感が確信に変わったのは音羽の琴の音を聴いた時だった。まるで、音そのものが泣いているような、心にしみる音色だった。


「あの、音羽さん…」


「あ、悪い…。」


音羽はようやく自分の音色に気がついたのか、気を取り直して弾き直そうとする。千代はそれをそっと止めた。

音羽は困ったように笑顔を作った。


「…ごめんな。客の前だって言うのにこんな調子で…。」


「何か辛い事があるのなら、言ってください。勿論、無理にとは言いません。ですが…私は、昨日お竹の話を初めて音羽さんに話した時、少しだけ気持ちが軽くなりました。音羽さんも、もし心にわだかまる物があれば、言葉にするだけでも気持ちが和らぐ事があるかもしれません。」


少しの沈黙が続いた。音羽は躊躇っている様子だった。しかし、ようやく心を決めたのか音羽は口を切った。


「…くにをさらった奴、俺の客だったんだってな。」


「…。」


「…あいつがあんな事をしたのは絶対俺が原因だろう。…俺が手荒く追い出したりしたからかなあ。」


千代は沈黙を守った。ひたすら、音羽の言葉に耳を傾けた。


「今回はお客さんのおかげでくには助かったけど、また俺の周りの人間が何かされたらどうしよう。俺…ここの人達が大切なんだ。くにも…普段は憎ったらしいけど…それでも妹みたいに思ってて。俺に家族はいないけど、ここの奴らが俺にとってのそれだと思っているんだ。また…俺のせいで…」


ポツリポツリと紡がれた言葉が段々と零れるように後から出てくる。音羽は俯いていて、千代からは表情が見えない。だが、微かに身体が震えているのがわかった。


「この話をして、音羽さんの気が和らぐかは分かりませんが…、大男がくにをさらったのは、音羽さんに追い返された故の怒りに任せた奇行、と言う訳ではなさそうです。」


「…」


「あの男を追いかける際、非常門が開けられていました。普段は開いていないのに、丁度その時だけ開いていたとなると、くにをさらうために開けておいた可能性が高いです。そしてそれには内部の協力者が必要なはずです。あの男が計画的にくにをさらう理由が思い当たらない。むしろ、誰かに雇われてくにをさらった、と言う方が筋が通る気がするんです。あの男には音羽さんに会うためのお金が必要でしたから。」


千代の最後の一言を聞いて、音羽はピクリと肩を震わせた。


「どちらにしろ、俺が原因なのは変わらないって事だよな…。…俺、昨日の事考えてたら、どうやって客と向き合っていけばいいのかわからなくなったよ。あの男みたいに頭のおかしい客、嫌味ばかり言う不快な客、__とにかくたくさん相手してきた。ああ、そうだ。昨日、この仕事に不満が無いって俺は言ったよ。だけどあれは見栄を張っただけだ。本当は毎晩、毎晩、今日はどんな客が来るんだろう、今日はどんな嫌な事を言われたり、されるんだろうって、心の中で怯えながら見世で座っているんだ。こんな仕事もうやりたくない。__もうやりたくないんだよ。」


千代は音羽の背中を静かにさすった。


「もういっそ…」


音羽は口を閉ざした。それ以降の言葉が震えて出てこなかった。

千代が言葉を紡ぐ。


「いっそ…私と一緒に逃げますか?何処か遠くへ」


千代は冗談で言っているつもりは微塵もなかった。


「それも良いかもな。」


音羽はポツリと呟いた。千代は顔を輝かせた。


「そうと決まれば早速計画を立てなければなりませんね!脱出方法、日取り、後、より確実に実行するために協力者も出来れば欲しいです。」


真剣に脱出計画をたて始めた千代に、音羽はプッと吹き出した。


「ははっ冗談だよ、冗談。あんた、俺なんかよりよっぽど肝が据わってて男らしいよ。」


「私はいつだって本気です!音羽さんが望むのなら幾らでもここから抜け出す手助けをします!」


音羽は口を開けて笑う音羽の反応に、千代は少し不機嫌そうにぷくーと頬を膨らませた。


「それに俺、どの道近いうちにここを出ていくからな。」


「…………え?」


音羽の唐突な話に千代は思わず間の抜けた声が出た。いつの間にか音羽の顔から笑みは消えていた。


「…年季がもうすぐあけるんだ。そうしたら、俺は身請けされる。」


「あの、すみません。私実は身請けとか、遊女の借金だとかそこら辺の仕組みがよく分かっていないのですが…。」


千代は小さく首を傾げた。音羽は頷いて説明をしてくれた。


「一部例外は居るが、多くの遊女達は農村みたいなお金の無い家庭から廓に売られてくる奴がほとんどだったんだ。売られてきた時の身代金はそのまま遊女たちの借金になる。借金の利子はかなり高額だ。どれだけ働いても借金は減らない。だから、どれだけ人気な花魁(おいらん)でも、年季が明ける前に借金を返し終わることはない。身請けって言うのは、客が、年季があけた遊女を指名して仕事をやめさせる事だ。客は遊女の身代金と借金を払う。あんた、昨日見世で話した遊女の事覚えているか?」


「え、ええ。あの方もとても美しい方でしたね。」


「あいつ、ていかって言って俺の唯一の同年代なんだ。あいつもそろそろ身請けの話があがる頃だな。」


千代はそれを聞いて、なるほど、と納得した。ほんの少ししか二人の会話を聞いていなかったが、音羽とていかは友達_と言うよりももっととても強い絆で結ばれているように感じられた。


「音羽さんととても仲が良いように思えました。」


千代が言うと音羽は「ああ…」とほんのり笑顔を浮かべた。


「あいつとは、物心がつくずっと前から一緒にここまでやってきたからな。本当はあいつの他にもたくさん居たんだ。身請けされて出て行った奴もいるけど、…まあ、大体病気とかで死んじまったよ…。…最後まで残ったのが、俺とていかともう一人、夕霧って奴だった。夕霧もかなりの美人でさ。あいつが居た頃は黄金時代とか呼ばれてて、俺たち妓楼(ここ)の三大柱って言われてたんだ。」


昔を語る音羽はどこか誇らしげだった。聞いている千代も自然と顔が(ほころ)んだ。


「夕霧さんは…身請けをされたのですか?」


千代がきくと、音羽は「いや…」と言って首を降った。


「あいつは…2年前、客の子を身篭ったんだ。世の中、腹切って堕胎させる技術もあるみたいだが、そんな危険なことする訳ねえ。あいつは、出産を決意したんだ。だけどある日、お腹の子供ごと逝っちまった。妊娠の身で遊女の激務をこなすんだ。相当身体に負担があったんだろう。」


「…すみません。」


千代が謝ると、音羽は、良いんだ、と微笑んだ。

千代はそんなに妓楼が過酷な環境だとは知らなかった。遊女達は身請けしてもらえなければ、悪環境(吉原)から抜け出ることはかなわない。


「まるで牢獄に閉じ込められいるよう…です。」


「ははっ違いねえ。」


音羽は力なく笑った。


「ガキの頃からこの歳まで俺もよくやったと思うよ。今でももうすぐ自分が身請けされるなんて信じられないよ。_俺みたいに人気のある遊女はそこらの奴には手が出ねえ金額になるだろうなあ。どこのお嬢様か知らねえが、幾らあんたでも額を見れば、びっくりして腰を抜かすだろう。」


千代は一瞬、自分の家ならば音羽を身請けする事が可能では、と思った。だが、遊女を身請けしたいなんて理由で親が金を出してくれるとは到底思えない。母と兄はとにかく猛反対するだろうし、父は、自分が稼いだ金で払えと、突き放して来るだろう。今の千代には遊女を身請けるような、まとまった金はなかった。


(と言うか、何故私が音羽さんを身請けする事を考えているのですか!!…べ、別に私は音羽さんを愛人にしたい訳ではないし、そもそも私達はそのような仲ではありません!)


千代は頭をふった。


「そんなに高い金額なのですね…。…身請けをしてくれる人の目処は立っているのですか?」


千代は、自分が音羽をどうこうする訳ではないが、せめて彼の身請け先を知りたかった。彼が吉原から出た後、ちゃんと幸せにやっていけるのか不安だった。


「ああ、何人か既に楼主に相談している奴がいる。その中に一人だけ、それなりに俺も好感が持てる人がいるんだ。その人は、詳しい事は知らないが稼ぎが良いらしくて、俺の身請けのために数年前からコツコツとためてくれているらしい。多分、その人になるだろうな。」


「そう…ですか…。」


音羽は、窓辺から道ゆく人々を見下ろした。人々は夜が深まる時間帯なのにも関わらず、猿のようにわあわあとお祭り騒ぎをしている。数日前の千代にとってそこは異質な空間だったが、音羽にとってはこれが当たり前の見慣れた景色なのだろう。彼はむしろ、この景色以外を知らないのかも知れない。


「あの…聞いても良いでしょうか?」


「ん」


「音羽さんは何故遊女なのですか?その…」


「男のくせにどうして遊女なのかって?」


「あ、いやそう言う訳では…。」


千代はあわてて取り繕おうとする。千代は、音羽自身を否定するような言い方をしたくなかった。だが、はっきり言ってしまえば、千代の疑問はそれである。あたふたする千代の様子に、音羽は「別に気にしてないよ」と、静かに微笑んだ。


「俺は…まあ、いわゆる()()ってやつなんだ。…俺の母親も、遊女だったんだ。」


「…」


「俺の母親は、『(むらさき)』って名前で、花魁(おいらん)の中でも指折りの美女だったらしい。ある日、母も、夕霧みたいに、客の子を身篭った。産まれた子供は男の子だった。普通、遊女が産んだ子供が男なら里子に出す。遊女の仕事の邪魔になるからな。だが、当時そこの楼主だった奴はこう考えた。_母親がこれだけ美しいのなら、その子もさぞ美しく育つだろう、とな。そこで、その子供は禿として育てられることになったんだ。いくら当時男色が流行ってたって言っても、男の遊女なんてよくやろうと思ったよな。」


「…あの、音羽さんの母様は…」


音羽は首をゆっくりと横にふった。


「母さんのことはほとんど知らない。ここの楼主は母さんのいた妓楼の楼主の親戚で、俺は産まれてすぐ母さんのいた妓楼からここへ移された。…でも、とっくの昔に良い所に身請けされていったって話は聞いた。」


「……。」


ガタッ…と言う音が廊下から響いた。

「音羽さん、そろそろ…」と言う声が聞こえきた。もう千代の時間が終わろうとしているらしい。千代は音羽との時間があっという間に感じた。千代は音羽も同じように感じているのでは、と感じた。


「そっか、もうそんな長く過ごしていたんだな。」


音羽は菩薩の笑みを作っていた。だが、その表情はどこか悲しげだった。


「…音羽さん、今日はあなたの夜を私が買っても良いですか?」


「______ッッ!!」


音羽は驚愕した。

千代本人の方もまた、自分が言った事にそれなりに動揺を感じていた。ほとんど勢いで言ったからだ。だが、千代は前言を撤回する気がなかった。あんな悲しそうな背中を見せる彼を放っておけなかった。


「言われた通り、今日はもうドンと遊んで行こうかな、なんて。」


千代は恥ずかしそうに頬をかいた。音羽は気色満面の笑顔を浮かべた。










____だが、その数分後、音羽の表情は一変することとなる。


「さ、今日はもう早く寝ましょう。」


「…」


「私は幼い頃から、母に何か悩み事があって落ち込んだ時、たくさん寝た方が良いと言われてきました。音羽さんも今日みたいな日はもうすぐに寝ましょう。」


「…」


「布団は離した方が良いですよね。…い、いえ!別に音羽さんのような素晴らしい遊女を襲おうとなんて微塵も思っていませんが、やはりこう言うのはしっかりした方が良いと思うのです!」


「…」


「…音羽さん?」


「…」


「…??」


「…はぁ…。いや、期待した俺が馬鹿だった。」


いつまでも頭の上に疑問符を浮かべ続ける千代に、音羽は大きな溜息をついた。

千代は終始音羽の言動を不思議に思ったが、取り敢えず床に就いた。ここしばらく千代自身も睡眠が浅かったが、今は音羽が隣にいるからか、何となく眠気を強く感じた。千代のまぶたは次第に重くなっていく。

しかし、隣ではまだ音羽が寝付けなさそうにゴソゴソと動いていた。


(これは…いけません。音羽さんが眠りにつくのを…ちゃんと見届けないと…)


千代は眠気眼を擦って音羽の方に身体を向けた。

すると、音羽は千代の方を向いていたらしく、丁度目があった。何故か、直ぐに音羽はくるりと回転して千代に背を向けた。


「な、なんだよ。」


「いえ…音羽さんが眠れないのかと…」


「…そのうち寝るから、あんたはもう寝なよ。」


「駄目…です。音羽さんが…寝るまで…子守唄を歌います。母様が…よく、歌って下さった子守唄です…」


「…」


音羽は黙り込んだ。千代は小さな声で、「ねんねんころりよ…」と、子守唄を歌い出した。誰でも知っている、江戸子守唄だ。


しかし、音羽は知らない。歌ってくれる人がいなかった。

千代の子守唄は最後の方は掠れてゆき、やがて聴こえなくなった。


「…下手くそ。」


音羽は独り言のように呟いた。

その言葉はおそらく音羽よりも先に眠りについたであろう歌い手の耳には届いていなかった。
























…さん










………さん!音羽さん!!












「…ん…もう朝か…?」


「音羽さん!!起きて下さい!」


誰かが叫んでいる。音羽は重たい目を少しずつあけた。目の前には女子(おなご)の癖に男装している…いつもの風変わりな客がいた。だが、今は何か必死で訴えているようだ。


「音羽さん!!!」


まだ半分頭が動かないのを、千代に叩き起こされる。

ここでようやく、音羽は現状の異常さに気がついた。

周囲はきな臭い匂いが漂っている。まだ夜なのに異様な明るさに身を包まれている。


紅蓮の炎が部屋全体を覆っていた。











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