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第四夜 後編 さらわれたくに

「____だけど、俺、今は腹が空いているんだ。」


桜桃(さくらんぼ)のように麗しい唇が一言言葉を紡ぎ、少しずつ千代の唇に近づいて行った。

千代の心臓が早鐘をうち、制御不能となった。


「_____ッッ」


千代は反射的に音羽を振り払った。


「………あ…。」


千代はたった今無意識のうちにやってしまった自分の行動を深く後悔した。千代は音羽の顔を見ることができず立ち上がると、「ご、ごめんなさい…」と、深くお辞儀をして部屋を出て行った。


後に残された音羽もまた後悔に苛まれていた。何故あんなことをしてしまったのだろう。相手は客だ。襲われることはあっても襲うことは万に一つもあってはならないのだ。ましてや、今彼女は大切な人の行方を探していてそれどころではない。もっと彼女の気持ちを慮ってやっていればあのような事はしなかったはずだ。

だが、音羽には後悔の他に自分の中にもう一つ負の感情があるのを感じていた。それがなんなのか、言葉にしない__いや、したくなかった。

音羽はゆっくりと顔をあげ、部屋に置いてあった鏡を見た。


『私の初恋の人は、光源氏です!』


『確かに光源氏はとても素敵な人だと思いますけど、頭の中将も中々魅力的だと思います。』


彼女が好きなのは男なのだ。

だが、鏡の中に映ったのは、大輪の花のように美しい女性の姿だった。





















(お、驚きました…。音羽さんがまさかあんな事をしてくるなんて…。)


千代は妓楼の出入り口まで来ていたが、まだ心臓がバクバク高鳴っていた。


(音羽さんの顔も見ずに思わずここまで来てしまいましたが、振り払った時に顔にお怪我をさせてしまってはいないでしょうか?それに、遊女の誘いを断るのは、音羽さんの顔に泥を塗ることになったりはしないでしょうか?でも、あのまま、身をまかしていたら私は…)


そこまで考えて千代は顔を真っ赤にしてしまう。正直、音羽に顔を合わせづらい。しかし、千代は再び音羽の所に戻ろうか迷っていた。だが、次の瞬間__


(……あれ?)


千代はなんらかの違和感を感じた。目の前は大きな通りで他の妓楼がずらりと並んでいた。

違和感の正体は、

見世でウキウキしながら手相を見てもらっている遊女達でもなく、

昼間だと言うのに酔い潰れて仲間に呆れられながら担がれている町人男性でもなく、

「ここが吉原遊郭だべか!」と目をキラキラと輝かせている、地方から参勤交代で来た武士達でもなく、




_________大八車(だいはちぐるま)だ。


大きな酒樽を積んだ大八車を大男が運んでいる。それだけなら、なんら問題のない光景だ。だが、千代はその大八車を運んでいる男に何処か見覚えがあった。

しかし、それだけでは千代もすぐにどうでもよくなって頭の中から男の存在を追いやっていた事だろう。世の中似たような顔の人間はいくらでもいる物だ。

しかし、男が引く大八車から落ちたキラリと光る何かが、千代の違和感を維持させた。


(なんでしょう…?)


千代は男が去っていくのを遠目に見ながら、それを拾った。とても小さな鎖に小さな銀色の蝶がついている。何かの飾りの一部分が欠けて落ちてしまったようだ。他の人なら、なんの一部かでさえわかる者はいないかもしれない。だが、千代は反射的に()()()の事を想像した。

咄嗟に千代は先ほど音羽にもらった小袋の中身を確認した。盗まれた物の中で、音羽にあげた物の他にもう一つない物がある。


『これ、返すよ。元々あんたの物なんだろ?()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


千代の髪飾りの中で、唯一返ってきていない(かんざし)。それは、先端に桃色の花が咲き、その蜜を吸いにきたかのように、二匹の銀色の蝶が花と鎖で繋がっている可愛らしいデザインだ。


今、千代は自分の手元にある、鎖についた蝶を見た。間違いない。千代の記憶の中のそれと一致している。


「あの、すみません。」


千代が男に声をかけると共に、男は振り返り____



___そして千代は気がついた。


千代はその大男と会っていた。初めて、音羽と会ったあの日。無賃なのにも関わらず無理矢理妓楼に入ろうとしていた、あの男だ。

男もまた、目を見開いていた。そして千代とその手に持っている物を視野に入れ___


突然、信じられない強さで千代を突き飛ばした。千代の背後で騒いでいた地方武士達に激突した。「なんだべ!」「何事だべ!」と武士達が騒いでいる。千代が顔をあげた時には、男は酒樽を大量に運んでいるにしては軽い足取りで逃げていった。

酒樽は大きい。小柄なくになら中に収めることができるかもしれない。もしそうだとしたら___


千代は背筋がゾッとした。相手の目的が分からない以上、くにが今どのような状態なのかが分からない。少なくとも、大声で叫んで助けを求められるような状態になっていない事は確かだ。猿轡(さるぐつわ)か何かを付けさせられているのか、気絶させられているのか、はたまた脅されているのか。___最悪の場合、死んでいる可能性も…。

千代は急いで立ち上がって後を追おうとした。だが__


「いきなりぶつかって来ておいて謝りもせずどこへいくつもりだべ!着物が汚れたべ!」


と、武士達に腕を掴まれた。


「すみません、事情は後で話しますのでどうか、ここは見逃してください!」


腕を掴んだ武士に、他の武士が千代に聞こえないように「ここで引き下がったら田舎もんと馬鹿にされるべ!」と耳打ちした。


「んだ!おら達が納得できる説明ができるまでこの腕を放さないべ!」


「すみませんっっ!!」


千代は両手を絡ませてしっかりと握った。掴まれた手と同じ側の足を前へ出す。後ろ足はクロスさせた。そして腰の回転させる。__掴んだ腕はあっさりと振り切られた。単純な護身術だが、武士達は何が起きたかよくわかってない様子だった。

千代は一目散にその場から離れ、男を追った。


(大分遅れをとってしまいました…。しかし、あの方向…大門をくぐって吉原の外へ行こうとしているわけではないのでしょうか?このままなんとか見失わずに追いかけられれば…!)


大男は大門へと通ずる大通りを外れ、右の通りに走って行った。

吉原遊郭は『お歯黒どぶ』と言う汚水が流れる大きな溝に囲まれている。またその内側には塀もあり、大門以外からの出入りができないようになっている。あのまま大男が真っ直ぐ行けば非常門があるが、普段ははね橋が上がっておりそこから逃げることはできないだろう。また、大男が入った通りは非常門にあたるまでにいくつか左右に曲がる道があるが、千代の記憶が正しければ、どの道も細い。大八車を引きずりながら細道を通れば、人やおいてある物にぶつかって、走り抜けることが困難になるだろう。

千代はとにかく大男が向かった方向へ走った。


「おい待てゴラだべ!追いかけるべ!」


武士達もしつこく千代を背後から追いかけて来た。千代は振り返ることなく走り続けた。

千代は、大男が入っていった通りへと足を踏み入れた。

そして、千代は目を見張った。


_____非常門が開いていた。

大男は分かっていたかのように、躊躇うことなく非常門に向けて走っている。

千代は心の中を掻き毟られるような激しい焦燥を感じた。計算が狂った。このままでは逃げられてしまう。吉原遊郭内ならば、まだ人が少ないし、綺麗に町が区画されているため追跡しやすい。だが、外に出られてしまえば、人だかりに紛れられてしまうし、千代はあまり道に詳しくない。大男を見失う可能性は格段に高くなるだろう。

このままでは、くにがいなくなってしまう。__お竹のように。


一瞬の動揺が千代にとって、命取りとなった。背後から追って来ていた武士達の一人が千代に飛びかかって来た。千代は彼に足をとられ、その場で転ぶ。

周囲の人々は、何事かと、どよめきながら、千代達を見ていた。


「___お願いです!!誰か!あの酒樽を運んでいる人を止めてください!!お願いします!!」


「こいつは頭がおかしいんだべ!」


他の武士が千代の背中を蹴り付けた。その反動で千代を押さえつけていた男が少し怯んだ。千代は痛みを堪えつつもその隙を見逃さなかった。千代は地についた手で砂を握りしめ、武士達に向けてばらまいた。自分に乗っかかっていた男を蹴り付け、立ち上がろうとする。___が、


「___ッッ!」


他の武士達が今度は千代を押さえつけた。数の前に千代はなす術がなかった。


「お願いです!誰か________」





「うーい、今日もイネちゃんに会いに行くぞー」


千代が再び助けを求めようと声をあげた時、どこからか素っ頓狂な声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。


「天ぷら屋さん!!」


千代は叫んだ。見ると、大男が走っていくまさにその方向に、いつもの天ぷら屋台の店主が歩いていた。店主の方も千代に気づいたらしくぎょっとしている。


「兄ちゃん、これは一体…」


「私のことは良いので、その酒樽の男を止めてください!!」


天ぷら店主は酒樽を乗せた大八車を物凄い勢いで運んでくる大男を目にして再び驚愕した様子だった。店主は「えっ…え??」と訳も分からなそうにしていたが、とりあえず大男の前に立ちはだかった。大男は店主を避けようと急カーブする。だが、大八車の重さが急な曲がりに耐えきらず、横に倒れてしまった。


大男はそれを見て、一瞬戸惑ったが非常門から逃げていった。

千代はサッと顔から血の気が引くのを感じた。

大男を止めることはできた。だが、大八車があんな倒れ方をしてしまったら、中にいるくにが心配だ。

千代は一刻も早く、くにの無事を確認しようとした。だが、上に乗っている武士達がそれを阻んだ。


「放してください!あの中には知り合いが閉じ込められているかもしれないんです!」


「なあに言ってるだべ!ただの酒樽だべ!くだらない事を言ってまたおら達から逃げようとしたって無駄だべ!」


武士は強引に千代の腕を後ろに回した。


「ちょ、ちょっとそいつは知り合いなんですが…」


見兼ねた店主が話しかけてきた、その時だった。



__________カンッ…


奇妙な音が僅かにどこからか聞こえた。最初はその音に気づかない者もいた。


_____カンッ…カンッカン…


だが、再び音が聞こえた。その音は徐々に間隔を狭めてゆき、次第に音も大きくなった。


その音は酒樽の中から聞こえていた。その場に居た誰もが驚き動揺していた。千代は酒樽へ駆け寄った。誰も止める者は居なかった。千代は酒樽を縛っていた縄をほどき、そして、蓋を開けた。


中には、腕を後ろ手に縛られ、猿轡(さるぐつわ)を噛まされた__くにが居た。

くには涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっていて、かなり怯えている様子だった。だが、見た所目立った外傷がなかった。千代はほっとした。

千代はくにの猿轡を外してやった。「もう大丈夫ですよ。」と、優しい声色でそっと言い、くにを抱きしめてやった。


くには、火がついたように大声で泣き叫んだ。























■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪








暗闇の中、大男は一人でいた。

____否。

大男は闇に潜む人々と対峙していた。人々は闇に隠れて顔が見えない。大男は闇に向かって必死に訴えた。


「確かに失敗はしちまったが、相当危険な橋を渡ったんだ!報酬はもらって当然だろ!!」


闇は囁き声は聞こえるものの、大男に対する明確な声を発さない。


「なあ、頼むよ。音羽に会うには金が必要なんだ。あいつは…あいつは、本当は俺の事が好きなんだ。なのに、遊女だから金のある奴の相手しかできねえ。いつも下劣な野郎の相手をしながら枕を濡らしている可哀想な奴だ。俺の腕の中で少しでもあいつの気が休まる時間を作ってやりてえ。…なんなら、もう一度やっても良いぞ!あいつのためならなんだって…」


「…やはり、彼を使うのは得策ではなかったな。」


闇から聞こえた囁き声の中で、大男は辛うじてこの一言だけを聞き取ることができた。そして、同時にその一言が大男がこの世で聞く最後の人の声となった。


大男は胸が焼けるように熱くなるのを感じた。次第にその熱さは痛みである事に気がついた。大男は自身の胸を見下ろした。赤黒い液体が止めどなく流れ出ていた。そして、そこには一つの刃物が突き立っていた。

大男は絶叫した。のたうち回り、救いを求めるように片手を闇に伸ばす。だが、(そこ)には手を差し伸べる者はいなかった。






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