カケルのツイてる日常
久城翔の目覚めはホラーから始まった。
何故なら、顔面血だらけの女が覗き込んでいたからだ。
確かに三日前、この女は駅前の横断歩道に佇んでいた…… はずなのに、今はカケルの枕元に立っている。
立ってる場所が違うだろ、って幽霊にツッ込んでも仕方ないが、こうでもして勢いをつけないと起き上がれない。
「ナンでやねん! 」
覆い被さる女の身体をすり抜け、カケルはベッドに身体を起こすと、女の姿がゆらりと歪んで消えた。
ホッとするのも束の間、次の瞬間に血まみれ女は、カケルの背中にぴったりと張り憑いている。
歯磨きをするカケルに、洗面台の鏡越しから血まみれ女がニヤリと笑いかける。
ゾゾゾゾッ…… と、鳥肌が立って寒気が走る。それを拭うように両腕をさすってから、乱暴に顔を洗った。
そう、カケルは憑かれている。
いわゆる『霊感』とか『憑依体質』に分類される未解明の能力だ。スピリチュアルなんて言われると、商業主義っぽくてマユツバ感が半端ないが、確かに存在する能力なのだ。
ただし、カケルの能力には、根本的な欠陥があるのだ。
『見えるだけ』これほどシンプルにカケルの能力を表現できる言葉は存在しない。
本当に、これ以上でも、これ以下でもなく、純粋に、ただ『見えるだけ』なのだ。
しかし、相手(と言って良いかは疑問だが)からしてみれば、「見える人」=「救ってくれる人」という公式が成り立つらしく、見えてる事を気取られると、必ず憑いて来る。
100%のお持ち帰りだ。
とほほ…… お持ち帰りするのは、ピッチピチの女子(生きてる)が良いに決まってる……
「カケルってさ、モテるくせに合コンの勝率わりーな」
「そうそう、話しだって盛り上がってんのに、なんでだ? 」
同じゼミの悪友どもは、そう言って不思議がる。
身長は高い方だし、テニスをずっとやってるから運動神経だって悪くない。身だしなみにも気をつけてるから、中の上くらいはイケテると思う。おまけに、姉妹にはさまれて育ったから、女性と話したりするのも抵抗ない。
だが、しかし、この能力がカケルの青春、大切な不純異性交遊に大きな影を落としているのは間違いない。昼間は幽霊の力が弱まるのか、まあ、寝不足くらいの怠さで、無事に(?)過ごしている。
しかし、合コンも盛り上がり、二次会に期待を膨らませる夜十時を過ぎる辺りから、カケルの周りには淀んだ空気が漂い始める。
自分の体調も悪化するし、相手にまで伝播するから困る。
(ホントに、マジ困る。)
おまけに憑いてるモノによっては、相手が豹変して、恨み辛みを晴らそうと実力行使したりする(心中的な意味で)。こうなるとお手上げで、カケルは涙を飲んで、その場を撤退するのだ。憑きモノと一緒に……
これこそまさに、勇気ある撤退と賞賛してほしい、慰めてほしい、いろんな意味で。
凄惨な事件に発展しては、寝覚めも悪いどころか人生詰みだ。
本当に、コイツらは人の迷惑なんてお構い無しだ。
「るーにぃ、はよー」
リビングにはパジャマ姿の妹が、ヨーグルトをかけたシリアルを頬張っている。
「”るー”って呼ぶな、千晶」
「えーっ、いいじゃん。カケルの”るー”、かわいいじゃん」
「兄にカワイさを求めるな」
カケルは妹の頭をクシャッとして、パンをトースターにセットした。
「うわぁ、なにこの部屋、さぶっ! 」
ビジネススーツを着こなした姉の姫咲が、リビングに入った途端、ぶるっと身震いした。
「あーやっぱ、るーにぃ、なんか憑いてる? 」
「なに、カケル、また拾ってきたの? あんたは見境い無くていかん」
「ねーちゃん、やめて、その言い方。これ不可抗力でしょ? ボクには選択権ないでしょーよ」
姉の姫咲と妹の千晶も、血筋なのか、カケルの影響なのか、少しは感じるらしい。
「るーにぃ、さっさと、凌晟さんのトコで祓ってもらいなよ」
「ちい、それ大事! だよね、こわいもんねーー 」
「っつーか、言われなくても、今日、約束してるから! 」
つまるところ、カケルの能力に何が『欠けている』のかと言えば、『祓うことは全く出来ない』だ!
カケルの能力『見えるだけ』の最大で致命的な欠陥は、このひと言につきる!
そして今日も重たい体を引きずって、キャンパスに向かうことになる。
…… 血まみれのオネイサンと一緒に。
いい季節だ。
寒さも遠のき、日差しには夏の眩しさも感じる。
水辺に森林にと自然が豊かなキャンパスは、一般には『環境に恵まれた』なんて表現される。
学生たちは夏の予感にソワソワして、溜め込んだエネルギーを発散するチャンスを、ジッと狙い澄ましている。
こんな浮ついた雰囲気とは反対に、カケルはダル重い足取りで教室に向かう。
風に揺れてキラキラ光る新緑も、どんよりと湿気を含んだ暗緑に見える。そこここで覗いている人の影は、向こう側の景色が透けて見える。
そう、透けているんだ。
「これだから水辺はキライなんだよ。知らんふり、知らんふり」
カケルは目を合わせないように、うつむいて歩く。
すれ違いに声をかける友人たちには、軽く手を上げて応える。だけど、視線は自分の足元だけを見つめる。それは細い平均台を注意深く歩く初心者の気分だ。
「ぅわおっ、あぶねっ…… !」
大きな声と一緒に、カケルの前方から、人が前のめりに突っ込んできた。
お笑い芸人でもやらない見事なズッコケは、カケルの身体を突き飛ばした。不意をつかれたカケルは、その勢いのまま、バランスを崩し後ろ向きに倒れる。周りの景色がスローモーションで角度を変えるのを、手を伸ばして止めようとした。
ガツン! と、道路の固さが背中に響く。間髪入れずに、更なる衝撃が腹筋を襲った。
「うげぇっ…… !」
カケルをクッション代わりに下敷きにして、起き上がったのは小柄な学生…… 女? …… 男?
「ったく、トレーな。前見て歩けっつの! 」
うん、『男』だ。
顔の半分を隠している前髪の影から、切れ長の瞳が睨んでいる。彼はカケルの胸に手をついて起き上がった。
「グエッ! 」
思いきり体重をかけられて、息がつまった。
「わっ、変な声だすな! 気持ちわりーヤツだな、けっ! 」
汚いものから身を逸らすかのように、彼はカケルから離れた。パンパンとジーンズのホコリを払い、腕の擦り傷をペロリとひとなめした。
そして、顔にかかる髪を撫で上げると、今度は両方の瞳で凄まれた。
「おい、ここはお前んちの庭じゃねぇ、前見て歩け! 」
散らばった教科書とノートを拾って、最後に念押しの鋭い一瞥をくれて「ふん」と鼻を鳴らして踵を返した。倒れたままのカケルに、手を差し伸べる事もせず、捨て台詞だけ残して去った。
カケルは今、自分の身に何が起きたか理解できずに、ぽかんと彼の後ろ姿を見送った。
「カケル、大丈夫か? 」
「…… お、おう、さんきゅ」
同じゼミの友也が、腕を掴んで立たせてくれた。
「友也、今のヤツ知ってる? 」
「なんだ、オマエ、あんな有名人を知らんのか」
「有名人って」
「女子を差し置いてミスキャンパスに選ばれた、話題のクールビューティ」
「はぁぁぁ? なに言ってんの、頭大丈夫かよ」
あははは…… と、笑いが止まらない友也の首をホールドすると、始業のチャイムが聞こえてきた。
カケルと友也は慌てて教室に向かった。
さっきの出来事が気になって、講義に身が入らない。
隣の席にいる友也に、クールビューティと評した彼について、あれこれと高説をたまわった。
「なになに、カケルはアイツに興味津々? 」
「そんなんじゃないよ」
「合コン連敗記録更新するの嫌になって、宗旨替え? 心配すんな。お前がどんなに変わっても、俺たちはズッ友だかんな」
友也はカケルの肩をヨシヨシと叩いて、ウンウンと深く頷いた。
「友也、おまえうざいよ…… 」
カケルは友也に腕を伸ばして、長椅子の向こうまで追いやった。「マジになるなって、ジョークじゃん」って、話し続ける友也を無視した。
彼は自分たちと同じ二回生だという。しかし、大学なんて学部やサークルが違えば、接点はないのが当たり前だ。
「なに言ってんだ、同じ講義とってるじゃん、ほれ」
友也がペンで指し示した方に視線を向けると、あのクールビューティが窓側の席に座っていた。
差し込む陽光が眩しいのか、目を細めている。「ちっ」と舌打ちが聞こえた気がする。そして、あくびを噛み締めると、頬杖をついて居眠りの体勢に入った。
彼の名前は、真龍寺玲。
カケルが気になるのは、クールビューティだとか、そんな理由じゃない。
あの衝突から、カケルの身体が軽い。清々しいほど、体調も良い。
(おかしい、あんなに不調だったのに…… )
さっきまで憑いていたはずの、血だらけ女の気配が消えてる。無意識に左右の肩に手をやるが、何も感じなかった。
(祓われた? )
最後の講義が終わると、カケルは郊外にある栂森神社に向かった。
最寄りの駅まで一度戻って、巡回バスに乗り5つ目の停留所で降りる。住宅地の外れにある鎮守の森に、栂森神社はあった。
神社の宮司、凌晟は、カケルが子供の頃から世話になっている。親戚筋だとしか聞いていないが、凌晟の穏やかな笑顔は心地よくて安心する。
すでに十数年間、憑依されては、ここで祓ってもらうのが習慣になっている。
「ごめんくださーい、カケルでーす」
玄関からおとないを入れて待つと、しゅっしゅっと衣擦れと共に凌晟が出迎えてくれた。
「カケル、よく来た…… ん? 何も憑いてないね」
「やっぱり? 」
「心当たりがあるんだね」
凌晟のところには、いろいろな相談事が持ち込まれる。殆どは氏子からの頼み事で、家庭内の事、商売の事、健康の事といった、生活に密着したものが多い。
だから、カケルの『霊障』みたいな、オカルチックな相談は特別だと思う。
「なるほど、今朝まで憑いていたと」
「ハイ、ちゃんと見たし、姉も分かったみたいです」
「姫咲ちゃんが? 」
凌晟は「うむ」と、頷いて腕を組むと、瞼を閉じて何か考えを巡らせた。
「あの、凌晟さん。人とぶつかっただけで、離れたりするんですか? 」
「いいや、それはない。祓われるか、成仏するか、それしか無い。ひょっとして、相手に憑いたのかも知れんな」
凌晟は事も無げに、恐ろしいことを言った。カケルは言葉を失って、鯉みたいに口をパクパクした。
「さ、背中向けて。一応、清めておこう」
凌晟はカケルの背中に手を当てると、ボソボソと経を唱えた。そして、フッと息を吐いて、パンっと音を立てて背中を叩いた。
「しばらくは大丈夫だと思うけど、辛くなったら、またおいで」
にっこり笑う凌晟に後光が見える。カケルの救世主は凌晟に他ならない。
「ありがとうございました」と、百八十度に頭を下げて神社を後にした。
カケルの足取りは軽く、長い石段をひとつ飛ばしで駆け下りる。住宅地のバス停までもが、距離が短くなった気がする。
バスの時刻表を確かめると、二分後に到着だ。
栂森神社からの帰路で、バスを待った事がない。それは全て、凌晟のさりげない心配りだと気づいたのは、中学生になった時だった。
(ありがたや、ありがたや)
間もなくバスが到着した。プシューッと扉が開くと、カケルはICカードを出して乗車した。
乗客は三人、カケルは一番後ろの窓際に座った。
(凌晟さんってすげーな、いったい何歳だろう? 初めて会った頃と変わらないんだよな…… )
そんな事を考えながら、窓の外に目をやった。
「あれ? 」
見覚えのある小柄な姿が、道路の向こう側に見えた。
真龍寺怜、クールビューティだ!
バスの進行方向とは、反対に歩いて行く。その姿を追うと、彼はちょっと立ち止まった。首を左右に振って、肩を揉む仕草をした。最後に両腕をクルリと回して、また歩き始めた。
カケルはぎょっとした。
彼の左肩には、見覚えのある女が憑いていた。今朝まで、カケルに憑いていた、あの血だらけ女。
ブルン…… と、エンジンがかかり、バスがゆっくりと進み始めた。
カケルはハッとして、デイバッグを掴むと運転手に「忘れ物をした」と、嘘をついて降ろしてもらった。
走り去るバスを見送って、真龍寺怜を探す。
しかし、向こう側を歩いていた彼の姿はどこにもなかった。
(おかしいな、この先は栂森神社と家が数軒あるだけだ。もしかしたら、よく似た別人かもしれない。いや、それにしては憑き物が同じって…… )
『相手に憑いたのかもね』凌清の言葉を思い出すと、カケルの全身に鳥肌がたった。
(ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ…… )
幽霊に乗り換えられるなんて、今まで一度も無かった。
憑いてるカケルに興味を持って近づく子、特に好意を持っていると、どうしてもカケルに同調しやすくなる。するとカケルを媒介として、憑き物とも同調してしまうのだ。
あくまでも『カケルに憑いている』状態が普通なのだ。こんな普通は欲しくないんだけど、とカケルは自虐気味に笑う。
だから、なんで彼に憑いて行ったのか不思議だった。
カケルは走って栂森神社に戻って、いま見た事を説明した。
すると凌晟は顔を強ばらせて、「出来るだけ早く連れてきなさい」と言った。
翌日からカケルは、キャンパスで真龍寺怜を探した。しかし、怜を探すのは容易ではなかった。
同じ講義に出ていても、怜は時間ギリギリに来て、出席を取ると抜け出してしまう。まれに終了まで受講していたとしても、チャイムと同時に席を立ち、人混みに紛れて消えてしまう。これは単に怜が小柄なだけではない。どういう分けか人混みの中では、怜の存在感が薄れるような気がする。その現象を言葉にするなら『紛れる』が近い。
一人でいる怜は、その颯爽とした軽やかな歩み、サラサラ揺れる茶色の髪、黒目勝ちな瞳は切れ長で、眉間のシワと相まって不機嫌をまとっている。
そのどれもが人を惹き付けて止まない。女子はもちろん男でも、誰もがその姿を無意識に追うのだ。
カケルも遠目でも、怜の姿がわかった。しかし彼は、いつも誰かと一緒だった。その相手はまちまちで、共通するのは、その暗い表情だった。切羽詰った様子で怜に話しかけていて、それを怜は真剣な目で聞き、頷いている。
(なんだ、お悩み相談でもやってんのか? )
そんな場面に割って入るほど、仲が良い訳でもない。いや、むしろ、あの衝突事件からこっち、怜のカケルを見る目が怖い。
なまじっか、整った顔つきの、綺麗な切れ長の瞳で凄まれると、条件反射で謝ってしまいそうになる。
何も悪くないのに…… いや、確かに前を見てなかった。それでも、自分だけに非があるとは思えなかった。
このままでは、いつまでたっても怜を栂森神社に連れて行けない。おまけに怜を追い続ける自分が、ストーカーみが増して辟易してきた。
カケルは仕方なく最後の切り札、友也に頼る事にした。
「なに、カケル。真龍寺に用って? まさかこないだの仕返しとか考えてねーよな」
友也は襟ぐりの大きく開いたカットソーに、テーラードジャケット、ボトムはスキニー。嫌味の無いセンスで纏めてる。そして無邪気な笑顔をカケルによこす。
今日もまた違う女を連れていた。
そう、友也は交友関係が広くて情報通だ。おまけに多方面に顔が利くのも、ヤツが面倒見がいいからだ。性格のチャラさを差し引いても、頼りになる友人だ。
「ま、オマエがオレに頼るんだから、よっぽど困ってんだよな」
そう言うと、友也は「怜の出没現場」と称した、キャンパスのマップをくれた。
「友也、サンキュ、助かる! 」
「今度ランチおごれよー 」
そう捨て台詞を残して、友也はツレの女の腰を抱き寄せ、ヒラヒラと手を振って行ってしまった。
カケルはやれやれと溜息で見送ると、さっそく出没現場マップを確認した。
「ここから一番近いのは…… うわぁ、ここヤバイとこ! 」
カケルの現在位置から一番近い『出没現場』が、講堂の北側にある水辺の遊歩道だった。
憑依体質としては、避けたい場所ベストスリーに入る北側の水辺。どうしたって、水のあるところには『集まる』のだ。
カケルは、ふーっと気を入れてから講堂の裏手に廻った。
すると遊歩道に怜の姿があった。
めずらしく一人だ。黒のリュックに青いパーカー、細めのパンツは裾をロールアップしている。やはり小柄で華奢なので、一瞬、女の子に見える。
しかし、パンツの裾からのぞく骨張った足首や、腕の筋肉のつき方は間違いなく男だ。
ワイヤレスのイヤホンが、周囲に見えない壁を築く。怜は誰にも邪魔されたくないと、宣言しているようだ。カケルは怜の後を追いながら、声をかけるタイミングを見計らった。
すると時おり、怜がよろめくのに気づいた。小石につまずいたようだが、そこには何も無いように見えた。
(なんだか、危なげな足取りだな…… )
カケルに衝突したのも、怜の歩き方に問題があったのでは、と疑い始めた。
そうこうしているうちに、気づくとカケルも水辺の遊歩道にいた。
水分を含んだ地面から、じわりと冷気が漂う。遊歩道に敷きつめられたレンガは、ところどころ欠けていて、雑草が伸びている。放置された林は雑然とし、下生えが鬱蒼と茂っている。
向こう岸も同じ有様だ。水の上だけには空がのぞいている。しかし、今日は生憎の曇天だ。
カケルの足が、鉛を架せられたように重くなり始めた。ジワリと冷たい汗が、背中ににじむ。
(や、ヤバイ、やばい。きてるきてる…… )
両岸の林や草の陰から、カケルを見る視線をいくつも感じた。
(気づいてない、大丈夫、ぜんっぜん、きづいてません…… )
カケルは自分に言い聞かせる。そして、怜の後を…… 、さっきまで前を歩いていたはずの禮の姿が、忽然と消えてしまった!
(…… えっ、どこ行った? )
一本道の遊歩道なのにと、キョロキョロ周囲を見回すと、そこには怜ではなく、学生服の少年の姿があった。その少年が顔を上げると深く開いた襟元に、一文字に赤黒い痣が見えた。
(ぎゃーーーーーーーっ!! )
声にならない叫びが聞こえたのか、少年は顔を上げ、がっちりとカケルの視線をキャッチしてしまった。
「見てしまったーーーっ! 」と、「見えてますね〜〜? 」なんて、お互いの心の声まで届いたようだった。
(うううう、頼む、憑くなーーーっ! )と、念じても、カケルには何の力も無いのであった。
もうダメだ、憑かれたっと感じた瞬間、ドシっと背後から突き飛ばされ、ヘッドスライドする勢いで前のめりに倒れた。
「ってぇ、おい、急に立ち止まんな! 」
腕立て伏せの要領で身体を起こし、肩越しに聞き覚えのある声へ振り向くと…… やっぱり、怜だった。
「んあぁ? ったく、またオマエか! 」
ぺっ…… と、口に入った砂利を吐き出して、手の甲で口元を拭った。そして、カケルの胸元に人差し指を突き指して、睨みつけて言い放った。
「おいキサマ、よく聞け。次にオレの前を横切るときは、充分気をつけろ! いいか、三度目はねぇぞ。」
怜の容姿と、この口の悪さはギャップがありすぎる。
「あ、あの、あれ、きみ…… 」
前を歩いていた禮に、後ろから体当たりされるなんて、いつ追い抜いたんだろう。カケルは状況を飲み込めずにいた。
「おい、聞いてんのか、あぁ? 」
パシッと軽く頬を叩かれ、カケルは怜を見あげた。すると、彼の背後から学生服の少年が、笑いかけていた。
「…… うぅわっ! 」
カケルは条件反射で怜の腕を掴むと、一目散にその場を逃げ出した。
「お、おいっ、てめっ…… は、離せッ! 」
怜が腕を振り払おうとするのを無視して、強引に引っ張り続けた。怜の足がもつれて転びそうになると、カケルは怜の胴体に手を回し、小脇に抱えた。まるでラグビー選手のように。
「ヒィっ、な、ナニしやがる、や、ヤメろって! 」
ジタバタする怜をカケルが抱えて走り去る姿は、キャンパス中の注目を集めた。
通り抜ける二人に、女子はキャーッと黄色い声のシャワーを浴びせた。そして写真を撮っては、面白可笑しいコメントをつけてSNSにアップした。
そして瞬く間に、たくさんの『いいね』を巻き込んで、キャンパスネットを駆け巡った。
これ以上の騒ぎはごめんだと、カケルは人の少ない裏門へ向かった。
講堂と本館を繋ぐ犬走りの通路には友也がいた。片手でスマホをスワイプして、もう片方の腕には女子がしなだれ掛かっている。
友也は息を切らせたカケルに驚いたようだが、すぐにニヤニヤと目を細めて、大げさに手を振って言った。
「カーケールー! オレたち、ずっ友だぞー! 」
「さんきゅーーーーっ! 」
嬌声の余韻を引きずったカケルは、友也の言葉の意味も分からないまま、手を振って応えた。
それを聞いた友也のツレの女子が「きゃあ!」と含みのある歓声をもらした。
裏門を抜けると、休憩中のタクシーが路駐していた。窓を叩いて、仮眠を取ってる運転手を起こして、ドアを開けてもらう。
カケルに抱え走られぐったりとした禮は、もう抵抗する気力も無くシートに身を沈めた。
「…… うぇっぷ」
軽いげっぷをもらした怜は、自分の口を押さえた。心無しか顔色が悪い。血の気の引いた白い指で、前髪をかきあげる。
「…… きもちわりぃ」
脇腹を圧迫されながら横向きに抱えられ、走り回った振動で車酔いの状態になってしまったようだ。
「うわ、うわわ! ごめん、大丈夫? 」
タクシーの運転手が迷惑そうに「車止めましょうか」と言ったが、カケルはそのまま行くようにお願いした。そして凌晟にも「今から行く」と連絡した。
カケルは大役を果たしたと言わんばかりに、ホッ胸を撫で下ろした。さっきまでの混乱が嘘のように、気分が落ち着いてきた。
心の重荷が解かれたせいか、無意識に鼻歌が出てしまった。
「…… オイ、ずいぶん楽しそーだな」
地を這うような低い声には、不機嫌が二重三重になって響いた。怜にとっては、自分の身に起きたことが理解できない、といった状態だろう。
たった二度ぶつかった相手に、抱えられタクシーに詰め込まれ…… カケルは急に恥ずかしくなった。
『信じるか信じないかはあなた次第』のオカルテックな現象を説明しようにも、カケルには何の証拠も持っていない。
怜の視線を受止め切れず、うつむいて黙ってしまった。
「仕返しでも、しよーっての」
「ち、ちがう、あ、ごめん」
「チッ、ゴメンゴメンじゃねーんだよ、うえっぷ」
気持ちわりぃ…… そう言って、怜はまた目を閉じて静かになった。
気まずい密室で、息をするのも辛くなってきた。もうこれ以上、堪えられないと音を上げそうになった時、タクシーが止まった。
「着きましたよ」
運転手は早く降りてくれと、せかせかと釣り銭を寄越して、ドアを閉めると走り去った。
栂森神社の石段を見ると、凌晟が出迎えてくれていた。
「凌晟さん、すみません、待たせちゃった? 」
「カケル、その子かな」
凌晟の視線の先には、怜が立っていた。腕を上げて伸びをし、深い深呼吸を繰り返していた。
その姿をジッと見つめる凌晟は「なるほど」と頷きながら、カケルの肩に手をかけた。
「うん、彼は大丈夫だよ」
「なになに、なんですか? 一人で納得しないで下さいよ、ボクにも説明して下さい! 」
カケルと凌晟のやり取りに気づいた怜が、怒りを身体からみなぎらせて、近づいてくる。その一歩一歩に力が漲っている。拳を手のひらに打ちつけて、隙あらばパンチの一発も繰り出しそうだ。
「…… あ、アブナイ! 」
凌晟が怜に向かって言った。
「ふぇっ? 危ないのはボクですよねー!? 」
身の危険を感じていたカケルが、抗議するように凌晟に意見した。その瞬間、怜は足元を掬われたように、見事にカケルに向かってつんのめった。
三度目ともなると、カケルの受け身も上達したようだ。今度は一緒に倒れる事無く、怜を抱きとめた。
「だっ、大丈夫? 」
怜は信じられないと言った様子で、カケルの顔を見上げた。
「……う、うん」
放心した怜の返事はあまりに素直で、拍子抜けたカケルはそのまま怜を支え起こした。
凌晟は怜の前に立つと、前髪を上げ額の辺りに手をかざした。
「栂森に寄っておいで」と、招待された怜は、凌晟の笑顔に毒気が抜かれたのか、大人しく招待を受けた。
カケルは目の前で起きてる奇跡に、武者震いし、しばし感動もした。怜が別人のようだ。
それから、参道を歩いている間も、しばしば怜はつまづいていた。
凌晟はそれを楽しそうに見ている。
カケルは共倒れになるのは勘弁と、転ばないように怜の腕をとった。
「わりぃ」
怜がカケルに感謝の言葉を発した。
(世界がボクに味方したーー!! )
思わず小さくガッツポーズしたカケルを、凌晟は可笑しそうに見ていた。
それから凌晟は、カケルの能力のこと、先日の憑き物の乗り換えのことを話した。
意外な事に怜はすんなりと事実と受け入れた。
「ウチの爺ちゃんも、よくそんなコト話してくれた」
「君のお爺様って、神職さん…… かな? 」
「うーん、そうじゃないけど、氏子っての? それのエラい人」
「なるほど、氏子総代でいらしたのか、だからなんだね」
凌晟は怜の話しを興味深く聞いては、質問を繰り返しては一人で納得した。そして、ちょっと待っててと二人を残して、奥に行ってしまった。
すっかり落ち着いた怜は、カケルに静かに話しかけた。
「あの、住職の人、ナニモノなんだ? 」
「ああ、凌晟さんは、住職じゃなくて宮司ね。ボクの遠縁なんだ、と思う」
「んあ? 思うってナンだ、ソレ。はっきりしねーな」
「へへ、そう、ハッキリしないけど、それでいいんだよ」
「やっぱ、おまえへんなヤツ」そう言って怜は、それきり黙ってしまった。
「待たせたね」
五分もしたろうか、凌晟が小さなメモを持って戻ってきた。それには電話番号が書いてあるようだった。
「怜くん、一度ここを訪ねてごらん。私の名前を出してくれたら、すぐに分かるようにしたから」
「ここは……! 」
怜にはその場所の意味が分かったらしい。
凌晟への挨拶もそこそこに、今から行ってきますと、そのまま寺を後にした。
カケルは今までの二人のやり取りが、さっぱり見えない。それに、自分の憑き物の事はどうなったのかも、知らされていない。
恨みがましく凌晟を見てると、それに気づいて「なに」と笑った。
「もう、『なに』じゃないですよ。ちゃんと説明して貰わないと、困るんですけど! 」
「ああ……! カケルは神様、見えないんだっけ? 」
「はあぁ? か・み・さ・まー? 」
突然、神様なんて言われても、話しが飛びすぎだとカケルは思った。
「彼の苗字、真龍寺の「真」は「神」の当て字なんだ。つまり「龍神」だね。彼も神職と縁が深いせいで、なかなか生き辛いようにみえたから、アドバイスをね」
凌晟の説明では、怜には守護霊が憑いている、らしい。だから、カケルから移された憑き物なんて、すぐに守護霊が祓ってしまうそうだ。
「ただね、代変わりしたばかりで、慣れていないようだね」
「慣れてないから? 」
「だからね、善し悪しの判断が甘いから、周囲のモノを惹くんだろうね」
「だから、ボクのも? 」
「そういうことだね」
凌晟は好々爺然としてるけど、とんだ曲者だ。カケルは改めて、凌晟の計り知れない本性を、垣間見せられた気がした。
「じゃあ、ボクの状況は全く変わらない、ってコトだね」
「カケル、なんで機嫌悪いの」
ほやんとした表情で、カケルの心を逆なでした。悔しいけど凌晟には、敵わないと白旗を揚げた。
「あの、怜くんの守護霊、可愛くてね。尾っぽがモフモフの子狐! 彼が余所見しないように、尾っぽで目隠してたよ。おまけに、足元にジャレつくもんだから、彼はよく躓くんだろうねぇ。」
そう言った凌晟は満面の笑顔で、モフモフサイコーと嬉々としていた。
カケルはダメな大人感ダダ漏れの凌晟を、目の当たりにして愕然とした。今まで築き上げてきた凌清の清廉なイメージが、音を立てて崩れた。
「住職なんて、ろくなもんじゃねぇーーー 」
それからもカケルの生活には、何の改善も無い。
目が合えばお持ち帰りし、凌晟に祓ってもらい、合コンの連敗記録も新記録を更新中だ。
ただ、時おり、どういった訳か、クールビューティが、凌晟からの伝言をカケルに届けるようになった。
カケルの携帯番号を知ってるんだから、直接言ってくればいいのに…… と、思う。
まったく、凌晟に良からぬ意図があるのか、訝しんでしまう、この頃だ。