エルートの頼み
騎士団が探索した結果、辺りに魔獣はいなかったという知らせが間もなく町中にもたらされた。町から一定の範囲をくまなく探したが、魔獣の気配はしなかった、だから安心だ。これが、町長のルカルデが町民に向けて発したメッセージである。
「でも、魔獣はいるんじゃないの?」
私は釈然としない思いでいた。以前エルートと森へ行ったとき、大樹の中にいたはずの魔獣。その姿が見つかっていないのなら、まだ森の奥深くにあの魔獣はいるはずである。
エルートもひとりで太刀打ちできない、凶暴な魔獣。あのまま放置されて、もし万が一町の付近まで出てきたらどうなってしまうのだろう。
ネックレスに付属した青の石を、手のひらで包む。人の悪意に反応して震える石。実はこの石は、魔獣に反応する。エルートに「魔獣が近くにいると震える石だ」と指摘された通り、猿と鳥の魔獣には反応して震えていた。
石からは、今はひんやりと静かな感触だけが伝わってくる。この石が震えない限り、私自身は安全だ。人間相手でも、魔獣相手でも。
ただ、町の人は? 同じようにはいかない。恐ろしいような焦燥感に近いような気持ちが、ひりりと胸を焼く。
思い詰めても何もできない。思考を逸らすために頭を振る。そして、熱い薬草茶を口に含んだ。立ち上る香りと、喉を焼きそうな熱に集中すれば、余計な思考は紛らわせる。
その時、店の外から花の匂いが流れてきた。家を通り抜けて背後の森まで向かう、この強い匂いの持ち主を私は知っている。
「エルートさん。珍しいですね、こんな時間に」
「やあ」
扉を開けたエルートは、室内に入るとフードを外す。相変わらず美しい、さらりとした金糸の髪。吸い込まれるような焦げ茶の瞳。何度見ても、見とれてしまう。先日のカプンを訪れた騎士にエルートが混ざっていたら、女性たちの視線は彼に釘付けだっただろう。
「店に入る前から俺だってわかるの? ほんと、勘が良いじゃ済まない勘の良さだね」
探りを入れるかのようなエルートの言葉を、肩を竦めて受け流す。
私は鼻が良いので、人の匂いを辿って探し物を見つけられる。店に誰が来るかも、知り合いなら匂いでわかる。それを「勘が良い」と説明するのは、護身の一つだ。
匂いが手掛かりだと知れたら、鼻を潰せば何の役にも立たなくなるとわかる。ささやかなものであれ、人とは違う能力がある以上、身を守る術を身につけなくてはならない。その大切さは、既に身をもって知っている。
エルートは店内に入ると、慣れた動作で丸太に腰掛ける。
「店の鍵は替えた?」
「まだです。お店の場所がわからなかったので、これから聞こうと思って」
「ああ、それなら大丈夫。俺、新しい鍵を持ってきたから」
エルートは、腰に提げた袋から鍵を取り出す。じゃら、と無造作にカウンターに置かれたのは、確かに鍵であった。
「……はあ」
口から出たのは、間延びした相槌だけ。エルートは焦げ茶の瞳で私を見て、「俺が取り替えてもいいか?」と問う。ひとつひとつの仕草がいやに魅了的で、つい目を奪われる自分を、自分で戒める。
「どうして、鍵なんてくださるんですか」
意味がわからなかった。鍵なんて、人に贈るにしては不自然な贈り物だ。
エルートは目を細める。見るものをうっとりさせるような、優しげな眼差し。
「無用心だろう? こんなに若くて綺麗な女性の家を、留守の間、あんなにちゃちな鍵で守っておくなんて」
若くて、綺麗。耳触りの良い褒め言葉が、低く耳をくすぐる声で発される。
これはご機嫌取りだ。彼が求めているものは他にあり、求めを通すために媚びるような態度を取る。これが騎士としての処世術なのだと、わかってきた。
流されてはいけない、と気を引き締める。求めには応じるつもりだから、結果は変わらない。だとしても、気づかないうちに流されているのは不本意だ。
彼は何を求めているのだろう。花の匂いは未だに森の中へ向かっているが、魔獣狩りの他にも要求がありそうな気がした。今まで人の求めに意識を向け続けてきた私の、純粋な勘である。
「……それよりも、要件をお聞きしたいです」
「実は、君に頼みがあるんだ」
くしゃ、と顔を歪めて苦笑いするエルート。彼は金の髪を掻き回した。その手の甲が案外無骨で、少し驚く。鍛錬を重ねて苦労した跡が、そのごつごつとした手の甲から窺い知れた。
「……その前に、腹が減らないか?」
時刻はちょうど昼過ぎ。私もそろそろお昼を食べようと思っていた頃合いだ。体良く話題を逸らされた感があるが、ここは流されることにした。
「この間、薬草を挟んだパンを気にされていましたね」
「そうなんだよ。あれは旨そうだった」
「エルートさんの分も用意してきますね」
ルカルデもそうだが、薬草食を好むなんてこの辺りでは珍しい人だ。ゲテモノだと、いつもエマには嫌がられるのに。
台所でバゲットを薄切りにする。1人4枚、合わせて8枚。いつもの倍の量切ると、それだけで作業台の大半を占めてしまった。
パンに生の薬草を挟み、干し肉も入れる。もう1組には、先日摘んで煮ておいた野苺を。何のひねりもない、いつもの粗食である。
「どうぞ」
「ありがとう」
エルートはパンを片手で掴み、大きく口を開けて食べる。一気に半分ほど齧り取り、静かに咀嚼。
「……旨いなあ」
しみじみと呟く反応は、いささか大げさに見える。
「簡単なものですが」
「草が旨い。肉以外のものの味を、久しぶりに感じたよ」
騎士団の食生活は、よほど肉重視らしい。別に私の料理でなくとも、野菜なら何でも美味しく食べられるのではないか。身も蓋もない感想に苦笑しつつ、私は茶出しを火にかけてパンを食べる。湯が沸いたら薬草茶を淹れ、二人分のカップに注いだ。
パンを食べ終え、温かな薬草茶で胃を落ち着ける。食後のお茶はいつも以上に美味しく感じるから、不思議だ。
「俺、ニーナの料理を騎士団でも食べたいなあ」
「お弁当が欲しいんですか?」
「いや、違う」
エルートは、組んだ両手をカウンターに載せた。上体が、僅かにこちらに傾く。真っ直ぐな焦げ茶の眼差しが、ふわりと笑みの形を作る。見る者を見惚れさせる完璧な微笑。
「俺と一緒に、騎士団に来てよ」
この甘い表情に流されてはいけない。
あざとい言い方と要求の内容の双方に私が思考を停止していると、エルートは言葉を続けた。
「この町に騎士団が来ただろう? 魔獣の討伐に」
「はい、いらっしゃいました。魔獣はいなかったと伺いましたが」
「それなんだよ」
「いましたよね?」
エルートは頷く。魔獣の話になると、彼は真面目な表情になる。本当はこちらが、彼の本来の姿なのだろう。
「見つからないのは仕方がない。俺たちには、ニーナみたいな優れた勘はないからな。……それで俺は一応、助言として言ったんだ。あの森には肉食の魔獣がいるぞ、と。そうしたら、何でわかるんだと聞かれた。ついでに最近休日のたびに魔獣を狩ってくるが、どうやって見つけるんだ、とね。普通はそんな簡単には見つからないんだよ、魔獣は賢いからな」
「そうですか……」
普通は探しても見つからない魔獣を、いきなり毎度の休日に狩ってくるエルート。怪しまれて当然だ。
一緒に騎士団に来てくれ、という彼の要求の背後にある事情に、薄々察しがつく。そして、心臓が変な風に鼓動する。彼の求めることは、私には荷が重いのではないか。
「それで白状した。カプンの魔女が、魔獣を見つけてくれるんだ、って」
「魔女って言ったんですか?」
「ああ。皆にそう呼ばれていただろう。君が違うのはわかっているが、わかりやすいからな」
余計なことを言ってくれた。肩が、がくりと落ちる。そんな呼び方をしたら、買いかぶられてしまう。
私には、伝説の中の魔女が使う魔法じみた力なんて何もない。ただ、鼻が人より利くだけ。全く大したものではない。
「君の力は素晴らしい。魔獣の位置を探せる君がいれば、俺たちの安全も成果も、格段に上がる」
過大な褒め言葉には、いつもの妙な甘い調子はない。彼は本気で言っているのだ。そうわかって、ますます胸が重くなる。
期待しないで欲しい。
人々を、命を懸けて守る騎士団。そんな素晴らしい人たちに求められるほど、私の能力は優れていない。
いっそ鼻のことを暴露してしまおうか。自暴自棄な考えが頭をもたげ、頭を左右に振って振り払った。鼻のことは誰にも話してはいけないのだ。
「俺たちには、君が必要なんだよ」
求められたら、応えなさい。私が守るべき母の教えだ。例え身の丈に合わないとしても、少なくともエルートは、私が騎士団に向かうことを求めている。それなら、答えはひとつ。
「行きますよ、一緒に」
決意が鈍る前に、私は口に出した。
エルートが、ほっとしたように表情を緩める。ご機嫌取りの作った顔ではなく、自然な表情だ。
ああ、もう。
扉の前に屈む黒衣の騎士の、らしからぬ後ろ姿を見ながら、私は心の内で嘆いた。新しい鍵を持ってきてくれた理由は、私が暫く家を空けることになるから、らしい。最初から、今日の目的はそれだった訳だ。
確かにエルートは手際が良くて、あっという間に鍵の取り替えを終えた。こうして、私の出立の準備は整ってしまった。