騎士を見る目
その日、薬草を摘んで家に帰ると、木に似た匂いが漂ってきた。ルカルデが来るとわかり、お茶の準備をする。マッチをすって、湯を多めに沸かす。ルカルデはいつも、薬草茶を飲んでから探し物に出かけるのだ。
「いらっしゃいませ、ルカルデさん」
「ああ、ニーナ」
丸い体が転がり込んでくる。この町の町長であり、私の恩人のルカルデだ。
私は、茶出しからカップへ熱々の茶を注ぐ。香りたつ清涼さ。この香りの良さが、朝採った新鮮な薬草茶の醍醐味だ。
「どうぞ」
「いや、わしは急いでおるのだ。薬草茶は、飲みたいが……」
ちら。ルカルデの丸い目が、湯気の立つカップを見た。さっと手を伸ばした。くいっと傾け、くーっと喉に送る。空になったカップをカウンターにとんと置き、ぷはーっと息を吐く。一瞬の出来事。
熱くないのだろうか。ルカルデは平気な顔で、滴のついた髭をハンカチで丁寧に拭っている。
「さあ行こう、ニーナ。頼むぞ」
口早に言い、ルカルデはお腹を揺らしながら店外に出る。そうなると私も、付いて行かなくてはならない。
まだひと口も飲んでないのに。
湯気の立つカップを名残惜しく見てから、扉に向かった。
ああ、鍵を替えなくちゃ。
鍵をかけながら私は思い出した。エルートはこの鍵は外からでも開けられると言って、開けて勝手に入ってきた。今までも何もなかったし、こんな森の中に好んで来る人もそういないが、無用心なのを知っていてそのままにしておくのは怖い。
頭の片隅に鍵のことを置きながら、ルカルデを追う。
ルカルデの匂いは木に似ている。
もう嗅ぎ慣れた匂いを辿り、彼の屋敷を目指す。大体の場合、ルカルデの失くしたものは屋敷の中にある。その道のりも、もう覚えた。
「ああ、ああ、疲れたのう」
ルカルデの息が上がっている。丸いお腹の重たい彼にしては珍しく、かなりの早歩きだ。私が普通に歩かないと追い付かないくらい。
「ゆっくり行きますか?」
「いや。わしは急がねばならん。もうすぐ騎士の方々が来るのでな」
「騎士の方々が?」
「ああ。……後で話そう、ニーナ」
騎士と聞いて頭に浮かぶのはエルートの顔だ。森の中にいたあの魔獣を、倒しにきてくれるのだろうか。
ルカルデは苦しげに荒い呼吸を続ける。これ以上質問はできないと、私は喋るのを止めた。とにかく、騎士団を迎えるのに必要な何かを、ルカルデは失くしたのだ。話を聞くのは、見つけてからで十分である。
「こんにちは、ニーナちゃん。ごめんなさいね、急がせて。疲れたでしょう」
町長邸に着くと、いつものようにエマが笑顔で出迎えてくれる。
どちらかというと疲れたのは、私ではなくてルカルデだ。顔を真っ赤にし、汗をかいている。ひい、ひいと苦しげな呼吸を心配に思いつつ、私は彼の匂いを追った。匂いの流れは上階に向かっている。
「……上に行っても?」
「どうぞ上がって頂戴。今日探しているのは、一張羅のボタンなのよ。どの部屋でも、ニーナちゃんなら入って構わないわ」
エマが許可をくれたので、私は階段を上る。後ろから「水を飲みなさいよ」「ほら、座って」と世話を焼くエマの声が聞こえる。辛そうだったルカルデも、もう大丈夫そうだ。
階段を上がると、左手にある部屋に向かって匂いが流れている。夫婦の居住空間に入るのは初めてだ。私は躊躇い、エマの許可を得たのだからと言い聞かせ、扉をノックしてから開けた。
「お邪魔します……あら」
ルカルデの執務室とは大違いで、綺麗に整頓された部屋だった。衣服を保管するための空間らしい。細長い部屋の両側に渡された棒に、服がたくさん掛かっている。
立ち込めるのは、ずっとしまい込んでいた厚着を物入れから出した時の香りだ。私は埃っぽい香りの中から、ルカルデの匂いを見つけた。
匂いの先には、質の良さそうな上着があった。そのポケットに、金色のボタン。私はそれを摘み、部屋を出る。
「ルカルデさん、これでしょうか?」
「そう! それじゃ!」
「良かったわ、ニーナちゃん。ありがとう」
ルカルデによるとこれは、一張羅のボタンらしい。騎士が来るので良い上着を取り出したら、ボタンがなかったとのこと。
「そういえばボタンが取れたとき、失くさないようにと思って、当時よく着ていた服の上着に入れたんじゃよ」
ルカルデは、眉尻をしょんぼりと下げて嘆く。大切なものを、大切だからと特別な場所にしまった結果、どこにしまったかわからなくなる。私にも経験があるから、落ち込む彼を責める気にはなれない。
「もう、本当にだらしがないんだから。ボタンを付けましたよ、ほら、着ていらして」
容赦なくルカルデを叱るのはエマである。その手には、濃紺の上着が提げられている。ルカルデは上着を受け取り、執務室に入った。
ルカルデが居なくなると、エマと二人きりになった。
「町へ来た商人が、近くで魔獣を見かけたんですって。ニーナちゃんに見つけてもらった書類があるでしょう? あれを出したら、すぐ討伐に来てくれることになったのよ」
ルカルデのために見つけた書類が多すぎて何を指しているのかはわからなかったが、エマの話の内容はわかった。
商人が見かけた魔獣とは、小さな鼠型の魔獣らしい。小さなと言っても足は速いし、牙は鋭い。子供がうっかり手を出したら、指を失ってもおかしくないとのこと。魔獣の目撃情報を騎士団に上げると、見回りに来てくれるそうだ。
肉食の魔獣は関係なさそうだ。私は内心、少しがっかりした。……がっかりした? なぜがっかりしたのかわからなくて、小さく首を傾げる。
「素敵だわあ……人生で二回も騎士様を見られるなんて」
エマは緩む頬を両手で押さえ、幸せそうに微笑む。
騎士はやはり、老若男女問わず誰もが憧れる存在だ。物語に登場する彼らは、いつだって英雄である。時にはその素晴らしい武で魔獣を倒し、人々を守る。時には囚われた姫を助け出し、歓声を浴びる。誰もが憧れ、ときめく存在。
私は、エルートが「騎士」らしくないことを知っている。けれど、本当はもっと人間味がありますよ、なんて口が裂けても言えない。
「どうかね、エマ。少し腹がきついような気もするが」
「気のせいよ、普段通り。大体、これから新しい服を仕立てるなんてできませんよ」
執務室から出てきたルカルデは、すっかり着替えを終えていた。こうしてぴしっとした上質な品を着ると雰囲気が引き締まり、途端に町長らしい威厳が出るから不思議だ。
ルカルデの言う通り、腹の部分が張り詰め、ボタン周りの布がやや引き攣れている。お腹がきつそうなのが事実なら、普段通りなのも事実である。
「そうか? 普段よりきつい気がするが……どうかね、ニーナ」
「いつも通りだと思います」
エマがこちらに視線を向けてきたので、私は頷いた。求められた通りの答えを返すと、ルカルデは満足げに腹を撫でる。
騎士たちを迎えに行くと話すルカルデ夫妻とは、町長邸の前で別れた。魔獣討伐に来る騎士の中にエルートはいるのか、いるなら仕事中はどんな態度でいるのかが気にはなったが、町長夫妻と並んで出迎えるのは身の程知らずだ。私は二人と挨拶を交わし、町中に買い物に出た。
鍵の買い替えと、食料の調達。やるべきことがふたつもある。依頼の報酬は1回1000クルタ。鍵を替えるのにいくら掛かるかわからないので、お金は家から多めに持ってきた。
まずは鍵を替えてもらおう。私はそう決め、町の露店街に向かう。
町長邸とパン屋、干し肉屋くらいにしか通わない私は、この町をまだよく知らない。依頼を受けてあちこちの家に行くから、地理はなんとなく頭に入っている程度だ。例えば、鍵を替えたいなら誰の店に行けば良いのか。店はどこにあるのか。そうしたことは一切わからない。
パン屋なら香りで探せるが、鍵屋は香りではわからない。金属の香りがする店なんて、いくらでもある。それも盲点だった。
ルカルデたちに聞けばよかった、と後悔する。道ゆく見知らぬ人に尋ねようかとも思ったが、求められてもいないのにこちらから話しかけるなんて、なんだか気が引けた。
我ながら息苦しい考え方だ。
昔の私は、こんなではなかった。昔といっても、つい2年前の話だ。
故郷を出たばかりの頃は、見知らぬ人に話しかけるのも、助けを求めるのも平気だった。求められる以上のことだって、進んで取り組んだ。感謝されるのが嬉しかった。
母の教えから逸れるのが怖くなったのは、あの、騙された日からだ。
ネックレスを常に身につけるように厳命されていたのに、その日に限って、つけ忘れた。その日に限って悪意ある客に騙され、私は有り金全てを奪い取られた。襲われそうになったのを、運良く逃げ出せたのだ。そして着の身着のまま、この町へ迷い込むことになった。
母の教えから外れると痛い目に遭う。あの忌まわしき経験を経て、今の私は、母に言われたことに固執してしまっている。わかっているけれど、やめられないのだ。
仕方がない。
鍵屋の場所は、今度ルカルデに会うときに、ついでに聞こう。
町中をうろついていた私は、踵を返し、パン屋に向かうことにした。
パン屋の場所なら、多少離れていてもすぐにわかる。焼き立ての甘いパンの香り。空から降り注ぐ日の光のようで、温かい。その香りを辿ることくらいなら、容易くできる。
パンの香りを追っていた私のそばでふわりと風が生まれ、華やかな匂いが弾けた。
「黒衣の騎士様がいらっしゃるんですって!」
「わたし、初めて見るわ」
「見染められちゃったらどうしましょう」
小鳥がさえずるように言葉を交わしながら、3人の女性が軽やかに駆けてゆく。楽しげな笑顔と、薄桃の頬。
魔獣を倒し人々を守る騎士には、誰しも憧れる。
王家に仕える高貴な人々は、私たち庶民にとって雲の上の存在だ。文官、武官などという言葉だけは知っているが、名家に生まれない限り、何の関係もない。
騎士もその高貴な人々に連なる存在だ。ただし、彼らには試験があり、武を認められて身分を得る。試験は庶民でも受けることができるという。つまり、唯一庶民に開かれた、名誉への道筋なのだ。武に秀でた男性の、最も誉れ高き仕事が騎士である。
この町からも何年か前に、騎士となった青年がいるらしい。ルカルデが、それを自慢げにしていた。
高貴であるが、庶民でも手の届く希望のある身近な存在。少女たちがこぞって騎士を見に行くのは、そんなことが理由なのだ。
私が彼女たちの後を追うように進行方向を変えたのは、ほんの好奇心であった。
いるかどうかわからないが、エルートがいるのなら、ちょっと見てみたかった。「仕事と休日は別」と割り切っている彼が、どんな顔で仕事をしているのか気になる。遠くから見る分には、許されるだろう。
町へやってきた騎士の出迎えは、ちょっとした人だかりになっていた。その半数以上が若い女性。さらに幼い少年少女も、期待の眼差しを向けている。
「ようこそお越しくださいました」
ルカルデとエマが前に歩み出て頭を下げる。対面する騎士は、3人。漆黒の服が、存在感を放っている。
「あの右の方、素敵じゃない?」
「私は左の方が……でも、皆素敵だわ」
ひそひそと。騎士には聞こえないほどの声量で、少女たちの甘い囁きが交わされる。
騎士たちはフードを外しているので、その顔がよく見えた。髪の色も目の色も様々な青年たち。皆背が高く、肩幅が広くて、強そうだ。その中にエルートはいない。
ルカルデが何か説明するのを、真摯な表情で聞く騎士たち。彼らの精悍な顔立ちに、少女たちが憧れるのも無理はない。
「では、さっそく探索に行かせていただきますね」
騎士のひとりが喋ると、はあ、と桃色の吐息が宙に浮く。
騎士たちは黒のマントを翻し、町の外へ向かう。踵を返した瞬間、右端の騎士がぱちりと片目を瞑った。
きゃあ、と今度こそはっきりと、黄色い歓声が上がる。
「ねえ、ねえっ、さっきの騎士様! わたしに合図を送ってくださったわ!」
「あれは、あたしを見たのよ。あたし、最初からずっと、あの方を見ていたもの」
頬を上気させた彼女らが、口々に話す。あの合図は誰に対するものか、で話題は持ちきりだ。
「もっと長く居てくださったら良かったのに」
「真ん中の方は、硬そうで、なんかちょっと違ったわね」
頬を膨らませ、ぶつぶつと言う女性たちも。どの騎士が良かった、誰がどうだった、と口さがない品評が繰り広げられている。
「騎士様って、やっぱり生真面目なのねえ」
「そうでないと、偉くはなれないんだわ」
挙げ句の果てに、それは「騎士はこうだ」というひとくくりの話に移り変わる。
私は、楽しげに話す女性たちの集団から、そっと距離を取る。
なるほど。
愛想を良くすれば気に入られ、無愛想にすると、直ぐに悪い印象を持たれる。庶民は騎士と接することが少ないからこそ、自分の粗相がすぐ「騎士ってこうだ」という評価に繋がる。
エルートの妙なご機嫌取りに、私は勝手に納得した。私も庶民のひとり。魔獣は案内してほしいが、「騎士は自分勝手」みたいな噂は流されたくないのだろう。
謎が解けたようですっきりし、パンの香りに気持ちを切り替えた。
「今日もこのバゲットかい、魔女さん。はい、1本」
「あ……2本いただいていいですか」
パン屋の奥さんに1000クルタ支払い、バゲットを2本受け取る。いつもの倍の温もり、いつもの倍のふくふくとした香り。左手には、途中で購入した干し肉をかけている。こちらもいつもの倍。
「珍しいね、2本も買っていくなんて。なんだい、巣篭もりかい?」
「まあ、はい……」
私が食材を多めに買ったのは、エルートが食べたいと言ったからだ。彼にパンを振る舞うことになるなら、多少余裕がなくてはならない。いつ来るかわからないのに準備をしておくなんて。「求められたら応える」と言っても、我ながら親切がすぎる。
まさか騎士が来るなんて言えるはずもない。私は曖昧に微笑み、誤魔化した。パン屋の奥さんは、人の良さそうな笑顔を浮かべて私に顔を寄せる。
「それとも、良い人でもできたのかい?」
にんまり。新たな噂を期待する、好奇心を含んだ笑み。ルカルデの妻であるエマといい、町の女性は浮ついた話が好きだ。
「いませんよ」
正直に答えると、奥さんは「なあんだ」と拍子抜けした顔をして見せた。
「ありがとうございました」
パン屋を離れ、家に向かう道を歩く。整えられた道が土くれだった地面に変わる。鼻が甘酸っぱい香りを捉えたので、道の端に目をやった。
「……あ、野苺」
草むらの奥まったところに、濃い赤が見え隠れする。たっぷりと水分の詰まった野苺であった。バゲットが嵩張って邪魔にはなるが、野苺を摘んで持ち帰ることにした。
野苺を甘く煮詰めてパンに塗ると、美味しいデザートが出来上がる。エルートが来たときには、これを塗って出せば良い。
お腹を空かせる良い香りに包まれながら、自分の家に入った。