エルートの騎士道
枯れ葉の降り積もった地面を踏みしめると、葉の腐ったような香りが立つ。手近な幹に手をかけ、倒れた木を大股で越える。引っかかったスカートの裾を手で引っ張ると、ぶち、と鈍い音がした。
丸太を越えた先には、私の背丈ほどの草が生い茂っている。草むらに腕を差し込んで、進行方向の草を掻き分ける。その向こうにも、同じように草むらが続いていた。
エルートの匂いは、この草むらの先に向かって流れている。葉の間に頭を突っ込むと、草の先端が首筋をくすぐった。強引に進んだら、薄く尖った先端で皮膚が切れてしまいそうである。
「待て」
ぐ、と袖を引かれた。私は草の間から頭を抜く。袖を引いたのはもちろん、エルートだ。
「迂回しよう。草むらの中は視界がない。何が出るかわからない」
被ったフードの陰から、焦げ茶の瞳が訴えてくる。
真剣な表情だ。取り繕った笑顔も、わざとらしく乙女心をくすぐる台詞もなし。
私は、草の向こうに意識を向ける。流れてくる香りから、草むらにあるものを感じ取ろうとした。
「……何もありませんよ。そうですね、だいぶ地面はぬかるんでいそうですが」
私の鼻に届いているのは、濡れた土の香りだ。水の香りが強いから、地面はぬかるんでいるだろうと推測できる。沼みたいなものがあるかもしれないから、足元には気をつけないといけない。ただ、してくる香りはそれだけ。動物や、その他余計なものの香りはしない。
草は邪魔だが、少なくともエルートの言うような、いきなり何かが飛び出てくる危険はないはずである。
「それも勘?」
「はい。私の勘はよく当たるので」
「頼もしいな。なら、俺が前を歩くよ」
そう言うエルートに場所を譲る。草むらに向かって立った彼は、腰に手をかけた。
パシュ。
乾いた音が鳴り、強い草の香りが立つ。目の前に立ちはだかる草の壁が、そこだけぽっかりとえぐれた。剣を振った幅の分、視界が開ける。
エルートが草を斬り分け、私が方向を伝える。斬り捨てた草を足元で踏み固めるから、ぐずぐずに濡れた地面を歩いていても、足元は安定していた。
「……ここで、斜め左です」
振り向くと、草の入り口はもうマッチ箱ほどの大きさになっている。進行方向を斜め左にずらしたので、それすらも見えなくなった。
青い香り。草を斬る音。足音。息遣い。葉の擦れる音。何も話さないと、森の中は本当に静かだ。
前を行くエルートの顔は、フードのせいで何も見えない。握りしめる剣が鮮やかに閃き、草を斬り分けていく。私は花の匂いを追い、方向を彼に伝える。
「あ、漸く、抜けーー」
ひときわ軽い音がすると、斬られた草の向こうに、開けた空間が現れる。私の鼻に、森の香りが届いた。草むらとは違う、土と樹の香り。それに、血と、獣の……?
びび、とネックレスが僅かに震えた。ネックレスに付けた青い石は、魔獣に反応して震える。まだ微かな震えだから距離はあるが、魔獣はこの辺りにいるとわかった。
「いるな」
エルートも同様の青い石を持っているので、同じことに気付いたのだろう。低い声で言うと、立ち止まった。
私は少し身を屈め、草むらと彼の隙間から向こうを見た。奥で大樹が枝を広げている。広げた枝の上に家を建てられそうなくらい、立派な樹だ。大樹の根元には、ぽっかりと暗い穴が開いている。どやらエルートの匂いは、その穴に向かって流れ込んでいる。
「あの大樹の根本に開いた、穴のところにいるようです」
「……なるほど。種族はわかるか?」
「わかりません、そこまでは」
獣臭さにもいろいろある。鳥と兎は、違う臭いがする。同じ兎でも、住むところや食べ物によって臭いも違う。今漂ってくる種類の臭いは嗅いだことがないから、何の動物かははっきりとわからない。
ただ、ひとつ言えることがある。この血の臭いから察するに、魔獣は恐らく。
「……恐らく、他の動物を食べる種類だと思います」
「肉食獣か」
「はい」
血の臭いがするということは、そういうことだ。
私が肯定すると、エルートが摺り足で移動する。後方、つまり私の側に、一歩。
「逃げよう」
「え?」
「いいから。足音を立てずに」
背中を強めに押され、私の体は前に出る。体勢を崩したせいで、がさ、と草を踏み込む音が響いた。
途端、膝裏から、体が持ち上がる。後方に傾いだ背中が支えられ、体が浮かび上がる。
「何を……」
「黙って」
真っ直ぐな静止の声。緊迫した雰囲気に、私は唇を閉じた。
そのままエルートは、私を荷物のように運んだ。先ほど斬り分けた草の道を、足音もなく、飛ぶように進む。草の葉先が頬に触れて、ぱっと熱が走った。かなりの速さで移動している。
私は状況が、今ひとつよくわからなかった。
エルートの匂いは、まださっきの場所に向かって流れている。大樹の根にある穴の中に、彼が強く求める魔獣がいる。
なのになぜか私たちは、大樹から遠ざかっている。やがて獣の臭いは薄れ、草の香りが取って代わる。濡れた枯れ葉の香り。ぐっと体が浮いて、すとんと落ちた。草むらに入る前に越えた丸太を、エルートが乗り越えたらしい。
地面に下ろされて、私の足は久しぶりに自分の上体を支えた。
エルートが草むらを振り返る。真剣な横顔だ。
「……もう安全なところまで離れたな」
私の背丈ほどの草が、穏やかな風になびいている。斬り分けてきた道からは、切り立ての草の青い香りがまだ強く漂っている。獣の臭いは全くしない。石も震えてはいない。だから魔獣は、近くにはいない。
エルートは青い石を握り、魔獣が追ってきていないことを確かめる。石をしまうと、彼は倒木に腰掛けた。
彼の息が全く上がっていないことに、そのとき気づいた。私という重荷を抱え、かなりの距離を走ってきたはずなのに平然としている。やはり、騎士というのは伊達ではない。
「……いいんですか? 魔獣がいたのに」
エルートの匂いは、まだ草むらの向こうへ流れている。魔獣を求める彼の気持ちが消えたわけではないのに、私たちは元いた場所に戻ってきてしまった。
匂いの強さは、思いの強さ。エルートは、見つけた魔獣を倒したくて仕方がないはずだ。それなのに。
不思議に思った私が問うと、エルートは首を左右に振った。
「いいんだ。肉食の魔獣は、俺だけでは無理。自分の実力はよくわかってる」
エルートがさらりと答えるのを聞いて、私は背筋がぞくりとした。
彼には、あの恐ろしい魔獣を一太刀で斬り殺すだけの力がある。魔獣を求める、驚くほど強い気持ちがある。そんな彼でも一人では挑まないほどの、肉食の魔獣。
さっき私たちの傍にいたのは、いったいどれほど恐ろしい生き物なのだろう。想像すると今更、肩が震える。
座ったままのエルートがこちらを見上げる。覗き込むような透明な眼差し。本当に、つくづく、容姿の美しい人だ。
「……怖がっているのか? あんなに大きな足音を立てておいて。俺は肝を冷やしたよ」
エルートに背を押され、草を踏む音が響いたことを指している。私は、少し寒い気がして二の腕をさすりながら、言い訳じみた返答をした。
「それは……実感がなかったので」
「まあ、それもそうか。肉食の魔獣の恐ろしさは、対面するまでわからないかもしれない。俺はずいぶん慣れたが、奴らが放つ威圧は、草食のそれとは格段に違う」
カチャ、と軽い音がしたのは、エルートが剣の柄に触れたからだ。私には剣のことはわからないが、細かな装飾の施されたそれは、きっと高価なものだろうと想像がつく。
「万が一、町まで来たら危険だ。ただ、他の騎士と一緒でないと、俺は手を出せない」
言いながらエルートは柄を指先で軽く叩き、小気味良い金属音を立たせる。彼の視線は、森の奥。きっと、置いてきた魔獣のことを思い出しているのだ。
「騎士の美徳は、自己犠牲なんだ。自分の命を捨ててでも、人々を守るために魔獣に立ち向かう、というな。ただ……俺は違う。無理なものは無理。自分の命が何より大切なんだよ」
物語に登場する騎士たちは、皆揃って我が身を顧みずに危険に飛び込み、功績を上げていたことを思い出す。それが騎士としての理想なら、彼はここに戻ってくるのではなく、樹の穴を探るべきだった。
理解はできたが、彼を責める気にはならなかった。確かに、今日あの魔獣を放置したことで、誰かが危険な目に遭う可能性はある。だからと言って、彼が一人で立ち向かうのが無謀なら、それを強いることはできない。
騎士の仕事は、魔獣を倒し、人々を守ること。だとしても、懸けているものが違うのだ。あの凶暴で恐ろしい魔獣に対して、彼は命を懸けている。
私が仕事に懸けているものは、精々、その日の生活費程度だ。そんな私が、彼に何をどうすべきだと言うのだろう。
「……そうですよね」
だから私は、ただ、相槌を打った。倒木に座ったままのエルートは私の顔を見上げ、ふっと表情を緩める。人差し指を、口の前にそっと立てた。
「君が聞いてくれるから、つい話してしまった。この話は2人だけの秘密にしてくれよ」
急に声色が変わる。乙女のときめきを呼び起こすような甘い仕草と台詞。流されてはいけない、と自分に言い聞かせる。
騎士ひとりの評価が全体の評価に繋がってしまうことは、先日カプンに来た騎士の扱いを見てわかった。立場上、彼はこうして、穏やかに要求を通そうとしているだけだ。
人々のために魔獣を狩るはずの騎士が、自分の命を何よりも大事にしているなんて公になってはいけない。言いふらしてはいけないことくらい、言われなくてもわかっている。
「そんな媚びた言い方しなくても、誰にも言いませんよ」
皮肉めいた響きがあったのは否定しない。言葉と要求のちぐはぐさが、どうにも気持ちが悪かった。そんな回りくどい言い方をしなくても、私はちゃんと求めに応えるのに。
「……そうか。ニーナは俺の良き理解者だよ」
軽い調子で言うエルートに、私は小さく溜息をついた。私は彼のことなんて、何も理解できていない。こうやっておだてて、次は何をさせようというのだろうか。




