エルートの行きつけ
「……何これ」
食堂の手伝いを終え、温泉で汗を流してから部屋に戻ると、扉の前に包みが置かれていた。茶色の紙包みには、「ニーナ」と書かれている。宛名があるから、私が開けていいのだろうか。迷いながら手に取ると、包みの大きさの割に軽く、柔らかかった。恐らく、布が入っている。
部屋に入って、据え置きの小さなテーブルに包みを置く。カサカサと音を立てる紙を開けると、白い布が目に入った。はらりと落ちる、小さな紙。手に取ると、薄い紙に字が刻まれていた。
──良かったら今日、これを着てくれ。
丸みを帯びた、清潔感のある整った字体。送り主の名はないが、内容から考えて、可能性はたったひとり。
エルートの字は、初めて見た。彼の優しさがよく現れた、柔らかな字。簡潔なメッセージを眺めていると、胸がひどく締め付けられた。
名目が「デート」だから? 恋人の体裁を整えるためになら、ここまで紳士的な振る舞いをして見せるのだ、彼は。
今まで恋人なんていたことはないし、作る予定もない。ただ、普通の女性が恋人にされたら、飛び上がって喜ぶ行為であることはわかる。
いや、取り繕っても仕方がない。私は嬉しいのだ。エルートに気持ちがないとわかっていても、体裁を取り繕うためだとわかっていても、本物の恋人として扱われているようで、舞い上がっているのだ。
事実は、全くの正反対なのに。なんて虚しい、喜びだろう。
茶色い包紙に、ぽたりと濃く染みができる。慌てて私は目を拭った。着る前から、貰った服を汚したら失礼だ。
泣く意味がわからない。私は一般人で、彼は騎士。何も見合うものなんてないのだから、悲しむ資格もない。
自分で自分を叱責しても、涙は止まらなかった。
恋とは何と身の程知らずで、難儀なものなのだろう。ちくちくと突き刺す胸の痛みを、私はもう、無視できなくなっていた。
贈られた白い生地は驚くほどに滑らかで、身に纏うと肌に吸いついた。ぴったりと包まれる感触は、どきりとするほど心地良い。
上半身はぴたりとし、きゅっと腰回りを結んだリボンの下からふわりと広がるデザイン。スカート部分にはひだがたっぷりあり、重みのあるワンピースだ。幼い子供みたいにくるりと回ると、裾がふわっと持ち上がり、花咲くように広がった。
まるで、お姫様みたい。
身の程知らずの内言に、苦笑するほかない。
本物のお姫様だったら、王宮騎士とのエルートとも見合っただろう。即席ではりぼての私は、こんなに素敵な服を着ていても、彼とは見合わない庶民なのだった。
同封されていた白いレースの紐で髪を結う。馬の尻尾みたいに揺れる髪先の動きを背中で感じながら、廊下を歩く。
両側の窓には、縦糸のように降りしきる雨が見える。木々の葉は、潤いを得て青々と光っている。この雨が終わると、葉先から枯れ、やがて散っていくのだ。
廊下の先にある食堂前で、エルートと落ち合う約束になっている。近づくにつれ、私の胸は明らかに鼓動を乱し始めた。贈られたから白い服を着てきたが、こんなに明るい色は着たことがない。いつも暗い服しか着ないのは、華やかな性格ではない私に、ちょうど似合う色だからだ。おかしくはないだろうか。笑われないだろうか。身の程に合わないと、言われてしまわないだろうか。
花の匂いが強くなる。道の先に、黒いマントが揺れる。
「ニーナ……」
焦げ茶の瞳が、丸く見開かれる。形の良い唇が、緩く弧を描く。差し出された手が、私の指先を捉えた。
「よく似合っている」
そのひと言で全てが報われたように、胸が喜びで染まった。
馬車は本部から出てすぐのところに付けられていたので、私たちは濡れずに乗り込むことができた。窓はぴっちりと閉められており、雨が吹き込むことはない。代わりに、外も見えなかった。
「王都の光景を見せてやりたいが、俺と共に馬車に乗っていると、走行どころではないだろうから。悪いな」
「大丈夫です」
私とエルートは、馬車で向かい合って座っていた。カタカタと規則正しく揺れながら、馬車は進む。その揺れが気にならないくらいふかふかとしたクッションが、私の下に敷かれている。
エルートは、いつもの騎士団服だった。騎士は、出かけるときはどんな場合でもこの格好をしなければならない。休日でも騎士の装いをしているのは、出会った時と同じだ。
外の様子は見えないが、馬車の前後左右から、道行く人の匂いは飛んでくる。それと同時に、種々の香りが。食べ物、煙、嫌な臭いに、良い香り。この香りの渦の中にいると、エルートの放つ花の匂いも、いつもより薄れて感じる。
雨の日で良かった。全ての香りは、濃い水の香りの奥からやってくる。そうでなければ、混ざり合った香りのせいで、今頃は頭がくらくらしていただろう。
「その、ベール」
匂いを辿っていた私は、エルートに話しかけられてそちらを向いた。焦げ茶の瞳が、優しく細められている。指先で軽く手招きされたので、顔を寄せた。常に鼻の下を覆っているベールの裾を、軽く摘んで引っ張られる。
「何のために着けているものだったかな」
これは、本当は匂いから自分を守るためのもの。ベールを染めた薬草は、大地の香りがするのが特徴だ。匂いが渦巻く外に出る時、大地の香りに意識を向けることで、自分を守っている。そうしないと、頭が痛くなるのだ。
しかし、事実をありのままに述べることはできない。私の能力が鼻に由来するものであるとは、誰にも話してはいけないからだ。母に言い含められた、大切な教えのひとつ。私は、母の教えをもう破ってはいけない。
「……素顔に、自信がないので」
使い古した言い訳をすると、エルートが眉尻を下げた。悲痛な表情にも見え、私は戸惑う。その顔の意味がわからない。
エルートの悲しげな表情は、すぐに引っ込んだ。代わりに彼は「食事に行くから、外してくれないか」と告げた。
彼がそれを求めるのなら、構わない。ベールを外し、小さく畳んで傍に置く。水の香りが、いっそう濃く感じられる。
「簡単に外すんだな」
自分から言ったのに、エルートは驚いている。私は、肩を竦めた。
「求められたら、応えることにしているんです」
「そうだったな。君は随分、自己犠牲的だ」
自己犠牲的とまではいかないが、自らの命を最優先するエルートの発想とは、正反対と言えるかもしれない。
会話の内容は他愛ないものであるのに、馬車にふたり、近い距離で向かい合っているだけで胸がずっとドキドキしている。恋とは難儀なものだ。抑えようにも、どうにも、収まらないのである。
馬車がどのくらい進んだだろうか。いつ止まったのかわからないほどゆったりと速度を落とし、気づくと揺れなくなっていた。外からは、ほのかに甘い香りがする。
「到着致しました」
制服を着た御者が、静かに扉を開けた。雨に打たれているのに、顔色ひとつ変えない。訓練された御者である。降り注ぐ雨のすぐ向こうに、小さな扉が見えた。
「さあ、ニーナ」
先に降りたエルートの手を借り、馬車の扉から外に出る。御者によって開けられた戸をくぐり、すぐに室内へ入った。途端、甘い香りで世界が満たされる。エルートの匂いではない。もっと別種の、甘い、パンよりも甘い香り。
「ようこそおいでくださいました」
近くから声がして、驚いて肩が跳ねた。扉のそばに控えていた男性が、挨拶と同時に深々と頭を下げる。髪はぴったりと撫でつけられ、清潔感のあるロマンスグレー。背筋のしゃんとした男性は、顔を上げると、音もなく歩き始めた。
「狭い場所で申し訳ありませんが」
「いつも助かっている。人目につかぬ場所でないと、おちおち食事もできないからな」
小部屋の真ん中には、こじんまりとした丸テーブルが据えられている。上品な仕草で案内され、引いてもらった椅子に腰掛けた。
私の店を思い出させる、木の小部屋だ。無論、私の家とは違い、全体的にこざっぱりとしていて、綺麗だ。天井からは、何も下がっていない。丸テーブルの上にも、クロスはかかっていない。剥き出しの木目が懐かしかった。
「今日はいかがいたしましょうか」
「ニーナは何が食べたい?」
「エルートさんの、食べたいもので」
何が食べたいと聞かれても、何屋かもわからない。私の返事を受け、エルートは耳慣れない単語をいくつか放った。メニューの名前なのだろう。注文を受けた男性は、深々と礼をして去る。小部屋の片隅に小さな扉がある。彼は、僅かに開けた隙間から、滑るように出て行った。
「この店は裏手から入ると、誰の目にもつかずに食事ができるので、気に入っている」
「普通にお店に入ったら、食事どころではありませんものね」
「ああ。この辺りの店に入ったら、何を食べたか、どんな食べ方をしたか、逐一観察される。一度だけ普通に入店したことがあるが、食べた気がしなかった」
休日でも黒衣を纏う騎士は、どう抗っても人目につく。カプンでの騎士に対する熱狂を見ていた私は、エルートの心労に多少の察しがつく。注目を集めて喜ぶタイプなら寧ろ満足するだろうが、エルートはそんな目立ちたいタイプでもなさそうだ。
小部屋の扉がノックされ、エルートが「どうぞ」と応える。そっと開いた隙間から、先ほどと同じ男性が滑り込んできた。両手に木製の盆を構えている。その上に、皿が何枚か載っていた。
「可愛い……!」
目の前に置かれた小皿に、感嘆の声を上げる。甘く強烈な香り。それは、ケーキであった。半円球の生地の上に、たっぷりのクリームが塗られ、果物が飾られている。意匠の凝らされた砂糖菓子が、果物の上にそっと載っている。吹けば壊れそうなほど、繊細だった。
隣の小皿には、金縁のカップが置かれる。高い位置から注がれたお茶が、ふわりと香ばしい香りを撒き散らした。琥珀色の液体は、薬草茶とはまた違う透明感だ。
「甘いものは好きか?」
今聞くのか、という質問をするエルートに、私は笑顔で応えた。もし嫌いだったらどうするのだろう。彼はいつも、言葉が足りない。
「あまり食べたことはありませんが、好きです」
母が偶に焼いてくれた、甘いベリーのケーキ。私はそれが、大好きだった。生地にベリーを練り込んで焼き、煮詰めたベリーを上からもかけるのだ。甘くて、酸っぱくて、美味しかった。
目の前のケーキからは、煮詰めた果実の比ではないくらい、強く甘い香りがしてくる。
添えられたフォークで生地をすくうと、まるで何もないかのように抵抗なく一部が持ち上がった。そっと唇に運び、そのままフォークを咥える。途端、口の中で、今まで味わったことのない甘みが広がった。生地は噛まずとも溶けてなくなり、じわりと甘みが広がる。飲み込んだ後も、強い甘みは舌に残った。お茶を飲むと甘みが消え、代わりにさっぱりした香りが立ち上る。
「うまそうに食べるな」
気づくと、エルートは私の食べる姿をまじまじと見つめていた。今、どんな顔をしていただろうか? あまりの美味しさに衝撃を受け、表情にまで意識が向いていなかった。
きっと、ひどい顔をしていただろう。恥ずかしくて顔が赤くなるが、片頬を押さえる手は外せなかった。この手を離したら、ほっぺたが溶けて落ちそうだ。そのくらい、美味しい食べ物だった。




