レガットの目的
スオシーの黒い毛皮に、一際黒い染みができた。冷たい滴は、私の頭にもぽつんと落ちる。ひとつ、ふたつ。数えられる雨音が、やがて数え切れないほどに激しくなった。
「うわ、雨……」
「ああ。そろそろ緑盛る季節も終わるな」
突然の雨に慌てるのは、私だけだった。濡れてゆく手綱を危うげなく掴み、エルートは呟く。
緑盛る季節の終わりには、雨が暫く降り続ける。雨が降り止むと同時に、肌寒い風が吹き始めるのだ。緑盛る季節から、木枯れる季節へ。枯れた葉が落ち始め、痩せた枝の向こうに抜けた青空が見える季節。
歳を重ねるほどに、時間が過ぎ去るのが早くなった。故郷を出たのも、悪漢に襲われたのも、カプンに辿り着いたのも、随分最近のことのように思えるのに。今では騎士と共に、王都に向かっている。思えば、遠くまで来たものだ。
降りしきる雨は衣服を濡らす。私の被ったフードにも、マントにも、ワンピースにも満遍なく水が染み込む。じっとりとした重みが、肩にかかる。
「スオシーは重くないでしょうか?」
「大丈夫だ。彼女は強い」
「彼女?」
雨音がうるさいから、エルートは私の耳により近づいて話す。雨に冷やされた耳に、彼の吐息は熱すぎる。
「言っていなかったか。スオシーは牝だよ」
何てことない会話なのに、耳が熱くなる。彼の吐息のせいだ、これは。決して、背後から抱きしめられ、耳元で囁かれたからではない。私は荷物同然の扱いを受けているのだから、照れたり恥ずかしがったりしてはいけない。そんな反応、求められてはいない。
アイネンが薬草を捨ててくれたおかげで、私は改めて自分を戒めることができた。薬草に関してはエルートにもレガットにも、アテリアにも褒められたから、調子に乗っていた。求められないことは、すべきではない。
王都に近づくと、濡れた衣服ごと袋に突っ込まれる。私は袋の中で膝を抱え、少しほっとした。
冷たい雨に打たれた体は、エルートの温もりをいつもよりも強く感じていた。背中から伝わる温度があまりにも心地良くて、思い上がってしまいそうだった。
ちなみに、雨に打たれた袋の中に、濡れそぼった衣服と共に突っ込まれる経験は、二度と味わいたくないほど最低の気分だった。特に、小さく丸まって抱え込んだ膝の裏で、じゃりじゃりと纏わり付く砂が最悪だった。袋もろくに洗濯されていないので、濡れると臭いがきつかった。
「……夕飯前に風呂に入るべきだな」
袋から転げ出て、水溜りに両手をついてえづく私を見たエルートが呟く。髪が水溜りについているのが見えたが、引き上げる余裕がないほど、臭いと揺れにやられていた。
「かわいそ」
レガットの哀れみも、今だけは心に響く。
「真っ直ぐ風呂に行くといい。アテリアには、夕食の取り置きを頼んでおく」
「僕たちの分も?」
「それは自分で……まあ良い、ついでだ」
「やっさしー」
ひゅう、と口笛を吹いてレガットがおどけ、アイネンが眉間の皺を深める。レガットはアイネンの厳しい顔を一瞥もせず、懐から黒い石を取り出し、エルートに手渡した。禍々しい黒は、魔獣の心臓だ。
「これもついでによろしく」
「……仕方ないな」
エルートは溜息をつき、腰に下げた袋に心臓をしまった。
雨は降り続き、世界を一面中、冷たく濡らして行く。頭の先から足の先まで濡れた私たちは、言葉を交わすこともなく、騎士団の本部に駆け込んだ。降る雨が漸く遮られ、ひと息つく。冷え切った体が震えていることに、室内に入ってから気がついた。
「行っておいで、ニーナ」
エルートに促され、私は湯浴みに向かう。
彼はこの後、濡れた服装のまま用を済ませるのだろう。その気遣いに感謝と申し訳なさを感じつつ、長い廊下を歩いた。廊下には小さな水溜りがいくつかあり、全体的に湿った空気が漂っている。同じように雨に降られた者が、何人もいるようだ。
脱衣所で濡れた服を脱ぐと、素晴らしい解放感に襲われた。重たい服を置き、浴室の中へ入る。体を流してから温泉に全身を沈めると、どっと疲労感が押し寄せて、自分がとても疲れていたことに気づいた。
冷えた肌に、じわじわと温もりが染み込む。こんな風に長い間雨に打たれたのは、生まれて初めての経験だった。
風邪を引かないようにしなくちゃ。
じっくりと湯に浸かる私の耳に、いきなり、バタン! と戸の閉まる音が入った。肩を跳ねさせ、振り向いたけれど、背後には誰もいない。
「寒すぎ。あいつが報告に行ってくれて助かった」
「君はいつも彼に面倒を押し付ける」
「ならお前が行けばよかったじゃん」
「私は寒さには弱いんだ」
聞き慣れた言い合いが、天井から聞こえて来る。レガットとアイネンの声が、湯気の向こうからぼわんと室内に響いた。
見上げると、壁は天井までは届かず、上部で途切れている。なるほど。男性と女性の浴室は、上で繋がっているらしい。今まで声が聞こえてくることはなかったから、気づかなかった。
「『命知らず』のエルートは、貧乏くじばっかり引く……って、言われてたよなあ、僕たちと組んだとき」
「一緒にするな。庶民出で権力者に取り入ることしかできない君だけだ、貧乏くじは」
「そういうとこだよ」
そして彼らも、声が筒抜けなことには気づいていないらしい。それもそうだ、こちらの浴室を使うのは私とアテリアだけ。アテリアは生活時間が違うから、彼らと使用時間が重なることはない。それに、ひとりで湯に浸かっている時に、話すこともない。
聞かれていないつもりでしている会話を、盗み聞きするのは悪い。私は音を立てず、湯から抜けようとした。
「ただ、あの魔女さんは最強の当たりくじだよな」
思わず動きを止めたのは、レガットが私の話題を出したからだ。
「そうか?」
「そうだよ。あーあ、何とかして僕の物にできないかなあ。魔獣を探せる魔法だけで、騎士団で一生食っていけるのに」
体は温まっているのに、ひやりとした感覚に襲われる。
日中、私はレガットに「恋仲になるならエルートより僕」と言われた。あの時は彼の意図がさっぱりわからなかったが、今の会話でわかった。
「確かに庶民出から成り上がるには、そのくらいの乱暴な策が必要だろうな」
「成り上がるためじゃないの、知ってるだろ? 僕一代でいいから、お金がいるんだよ」
「それは知っているが、やり方が──」
扉の開く音がして、アイネンが言葉を切った。
私の「魔法」があれば、騎士団で一生食っていける。そんなこと、本当にあるのだろうか。
確かに魔獣を見つけられることには価値があると、エルートは言っていた。実際、エルートが求めているのは、私の鼻だけだ。魔獣は見つけにくいものらしいから、多少は、その一面もあるだろう。
だからと言って、「一生食っていける」なんて過分な評価だ。
湯に浸かったまま、膝に顎を乗せる。口からぶくぶくと吹き出したあぶくが、湯面に浮かんで弾けた。
言葉選びが違うだけで、エルートも、レガットと同じだ。エルートのことを考えていると、扉が閉まる音とともに、花の匂いが漂ってくる。
「エルート、遅かったじゃん」
「ニーナの初仕事だからな。首尾をいろいろと聞かれていたんだ。……寒い」
穏やかな声とともに、ざぶん、と水の音。はあ、と長く息を吐く音。
「魔女さんの魔法が認められたら、僕たちの討伐以外にも連れて行かれるだろうね」
「それは暫くやめてくれと頼んだ。今日だけであんなに疲弊していたのに、肉食魔獣の討伐に連日行かせるのは良くない」
「君みたいに、抱き締めて慰めるよう頼めば良いのでは?」
アイネンがエルートに向ける声は、やはり棘がある。レガットとの言い合いとは質の違う、嫌味が込められているようだ。
「恋人を他の男に抱かせたい訳がないだろう」
「まだそんなこと言ってるのかよ。違うのはもうわかってるって」
「お前こそ、まだ疑っているのか。団長の言った通り、ニーナと俺は恋仲だ」
「お前が人を好きになる訳ないだろ。魔獣にしか興味ないんだから」
そうだそうだ、と私は頷いた。レガットの言う通りだ。
エルートが求めるものは、常に魔獣である。魔獣を倒して、より多くの人の命を救うこと。戦いの感覚を磨くために、魔獣を倒すこと。エルートの興味の全ては魔獣に向いている。私への興味は皆無であり、ただ、魔獣を見つける能力を必要としているだけ。
抱えた膝に熱が溜まり、だんだんと頭がぼうっとしてくる。
盗み聞きなんてしてはいけないのに、どうしてもその場から離れられなかった。会話の内容が気になってしまった。
エルートは、私のことをどう思っているのか。そんなことどうでも良いはずなのに、胸が締め付けられるような気持ちで会話に耳を傾けている私がいた。
「……俺は彼女のことが好きだ」
エルートの言葉に、胸が躍り上がる。
「どこが?」
レガットの小馬鹿にした言い方に、心が沈み込む。
本気な訳がないのに、どうして翻弄されてしまうのだろう。レガットがしつこく疑うから、エルートは言い逃れとして、好きだと言っただけだ。
エルートは、私を騎士団に巻き込んだ責任感から、恋仲だという体裁を守ろうとしてくれている。それだけなのだ。
「……面白いんだ、彼女は」
「面白い? 何だよそれ。恋人に向ける台詞としておかしいだろ」
絞り出した「好きなところ」は、当然のことながら漠然としていて、実感が伴っていない。やっぱりエルートは、私のことなんて好きでも何でもない。わかっていたのに、何故かがっくりしている。
どこか好きなところを聞けるのではないかと、期待した自分に呆れてしまう。そもそも彼は、私に好意なんてないの。好きなところなんて、あるはずがなかった。
「はあ……」
緩んだ唇から長い吐息が漏れ、それではっとした。
気づけば私は脱衣所で、濡れた髪を拭いていた。湯気の立つ肌を布で拭い、水気を拭き取っていく。脱衣所には予備の服が置かれていたから、乾いたそれを身に付けた。長いこと湯に浸かっていたせいか、片脚を上げるとゆらりとふらつく。
知らないうちに、思い上がっていたらしい。エルートは、私自身にも少しくらいなら興味があるのではないか、と無意識のうちに期待していた。「面白い」なんて言われて落胆してしまうのは、無根拠な期待のせいだ。
彼が求めるのは、最初からずっと、私の鼻だけ。わかっているのに、落ち込んでいる私が馬鹿だ。
ちくちくと痛む胸に渦巻く感情は、無視できないほどに育っている。それでも私は、この痛みは何でもないと自分に言い聞かせる。
エルートが私の能力を求め、私はそれに応える。私が魔獣を見つけ、エルート達が討伐すれば、多くの人の役に立てる。
私は誰かの役に立つことに、喜びを感じるのだ。だからそれで、いいはずだ。
乾いた衣服に腕を通し、濡れた髪を巻き上げて、私は廊下に出た。雨のせいか廊下は薄暗く、どんよりとした雰囲気だ。天候が淀んでいるから、気持ちが沈むのか。気持ちが沈んでいるから、天候が淀んで見えるのか。私は重い心を抱えながら、ゆっくりと廊下を進んだ。