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魔獣の威圧

 町は変わっても、森はどこも大して変わらない。人の営みなんて些細なもので、自然は広く繋がっているのだ。

 エンデの町周辺に広がる森は、カプンのそれとも、騎士団本部周りのそれとも大差なかった。入り込むほどに土と樹の香りが増し、より濃くなる。

 エルートが魔獣の痕跡を見つけたことで、私たちは馬を降りた。そこからは徒歩である。地面を踏みつけると、足の下で小枝がぱきんと鳴る。どの森も、歩いた感触はそっくりだ。

 静かな森に響く不揃いな足音に耳を澄ませると、いろいろなことに思いを巡らせたくなる。エルートの匂いは、特別に意識を割かなくても追えるほどに強いからだ。彼の魔獣にかける想いは、いつでも変わらない。


「……そろそろだな」


 呟くエルート。私の胸元のネックレスが、微かに振動を始めた。このネックレスには、透き通った青の石が付いている。

 騎士たちも同様の石を持っている。これは、魔獣の存在に反応して震える特性がある。

 緊張の糸が走る。進むにつれ、石の震えが大きくなる。明らかに、魔獣に近づいている。震えは徐々に、そして一際大きく、びりっと震えた。がさ、と草を掻き分ける音。


「あっ、やべえ!」


 レガットの声。次の瞬間、ガキン、と硬質な音が響いた。視界の端に、燃えるような赤い瞳が映る。

 低い唸り声を出す、それは魔獣であった。鋭い牙が深々と突き刺さるのは、アイネンが構えた盾である。分厚い、堅固な盾なのに、魔獣の牙は根元まで刺さっている。

 腐ったような臭いに、私は思わず鼻を押さえた。涎がだらだらと垂れる魔獣の口から、すえた肉の臭いがする。歯茎は赤黒く、真っ黒な毛皮はごわごわと汚れている。ぎろりと目を赤く光らせたそれは、見たこともない獣であった。


「離すなよ、アイネン! 跳ねられると厄介だ」

「わかっている!」


 首を激しく振って逃れようとする魔獣を、アイネンが盾ごと、両腕で抑え込もうとする。耳の形や細い目は猫にも似ているが、猫よりはるかに大きい。何より、あんなに長い牙を猫は持たない。

 ぱっと黒い霧が散ったのは、レガットが斬りつけたからだ。次の瞬間、アイネンが宙に浮いた。魔獣はついに、盾ごとアイネンを弾き飛ばした。片方の牙が折れた魔獣が、赤い瞳でぐるりと辺りを見回す。

 目が合った。

 残酷な赤を宿す瞳が、こちらを見据える。

 私は呼吸ができなくなった。

 吸った息は浅すぎて喉まで届かず、吐いた息は弱すぎて喉元で止まった。息苦しさすら感じられない。体が動かない。逃げなきゃと思うのに、脚に力が入らなかった。気付けば私は、地面にへたり込んでいた。

 魔獣が口を開ける。赤黒い口腔に、銀の唾液が糸を引く。私には、凶悪な笑顔に見えた。これから喰われるのだと、諦めた、その時。赤黒い口は、鈍い音とともに地面に落ちた。燃える赤の瞳から、光がふっと消える。恐ろしい魔獣の顔の代わりに、黒い霧が辺りに撒き散らされた。

 もうもうと上がる霧。魔獣の命が消えた証の煙の向こうに、金色が見えた。日の光と同じ、温かな金。それがだんだんと近づいてきて、柔らかな重みが肩にかかる。


「大丈夫か?」


 エルートだった。私を案じる優しい焦げ茶の瞳。彼の纏う花の匂いが、鼻の奥まで染み付いた腐臭を押し流してくれる。

 胸の奥から、ゆったりと吐息が溢れる。それで、ずっと息を詰めていたことに気がついた。呼吸も忘れ、動くのも忘れていた。

 肉食の魔獣が放つ威圧は、草食のそれとは訳が違う。そう話していたのはエルートだったと思う。まさにその通りで、あの魔獣に見据えられた瞬間、何もできなくなった。もしひとりで出会っていたら、眼差しの恐ろしさに身がすくみ、一瞬で食べられていただろう。

 深呼吸を終えると、二の腕に震えが走る。今になって、恐ろしさがしんしんとこみ上げて来た。へたり込んだ地面から、じわじわと水分が染み込んで来ている。服が濡れてしまっているのに、動けない。


「魔女より、まずこちらを心配しろ」


 低く不機嫌そうな声。アイネンの黒い衣服には、泥が付着している。


「ああ、アイネン。あの飛び方なら、受け身を取れるだろう」

「そうだが、左肩を痛めた」


 顔を顰めるアイネン。彼の持つ盾の真ん中に、穴が開いている。ぽかりと開いた、拳大の穴。あれが、猫型魔獣の牙の太さだ。近くで見るとその太さが実感され、また背筋が震える。あんな牙を刺されたら、人体はひとたまりもない。一撃で瀕死だ。


「よくあの牙を、盾で受け止められたな」

「豹種の魔獣は、獲物を前脚で押さえつけ、牙を立てるだろう。前肢をかわした次に、牙が来るのはわかっていた」

「さすがだ」


 エルートの賞賛に、アイネンは顔色ひとつ変えない。彼の語る戦いの顛末は、私にはさっぱりわからなかった。わかったのは、あの猫型の魔獣が豹、という動物の種類らしいことくらいだ。


「あったよ」


 奥から現れたレガットは、手に黒い塊を持っている。夜を煮詰めて濃くしたような漆黒の石こそ、魔獣の心臓だ。魔獣は死ぬと黒い霧となり、心臓だけ残して消え去る。禍々しい魔獣の心臓から美しい宝玉ができるというのだから、不思議な話だ。


「これを見ると、自分で宝玉を作れたら一生遊んで暮らせるのにって思うよ」

「レガット! その発言は、騎士としてあるまじきものだぞ」

「頭が堅いなあ、アイネンは。ここでくらい良いだろ、僕だってさすがに本気じゃないって」


 嘘でも良くないとぶつぶつ言うアイネンに、へらへら笑うレガット。恐ろしい魔獣を打ち倒した直後だというのに、あまりにも日常的な雰囲気だった。

 私には、それが恐ろしい。まだ腰が抜けて立つこともできないほどの恐ろしさだったのに、彼らは怖さを、少しも感じていないのだ。


「ニーナ。この手を取って」


 気にかけてくれるのは、エルートだ。差し出された手を取ると、そのまま引っ張られる。立ち上がった勢いに任せ、ふらりと前方に傾いだ私の額に、布のざらついた感触。


「やはり恥知らずな魔女だな」

「腰が抜けただけだ。そういう言い方をするな」


 エルートの胸元に額を寄せ、抱き留める形で支えられている。アイネンの苦言が耳に入り、離れようとした私の背を、エルートが柔らかく押し付けた。


「落ち着くまで、こうしていると良い。肉食の魔獣は、君には刺激が強かっただろう」


 穏やかな声音に、心が鎮まる。甘やかな花の匂い。人肌の温かさ。震える呼吸は、エルートの胸の中で、だんだんと正常に戻っていった。


「怪我したのが情けないからって、魔女さんに文句言うなよ」

「情けない? 最初に牙を塞いだから、すぐに討伐を終えられたのだろう。今回の功労者は、私だ」

「最初に危機を知らせたのは僕だから、僕だって」


 レガットとアイネンは、まだ言い争いをしている。震えの治まった背中を軽く撫でたエルートの手が、私から離れた。


「魔獣の隙をつき、一太刀で首を落とした俺だな」


 エルートが口を挟むと、レガットとアイネンは揃ってこちらを見る。


「確かに、あの太い首を一撃で落とす太刀筋は見事だった」

「趣味で魔獣狩ってる『命知らず』は伊達じゃないよな」


 魔獣の圧に腰を抜かしていた私には認識できなかったが、エルートの腕は、彼らも認めるものらしい。

 レガットの「趣味で魔獣を狩る『命知らず』」という発言で、エルートが「命知らず」と呼ばれる理由にやっと納得がいく。危険な魔獣を身一つで狩りに出るから、「命知らず」なのだ。

 本当はエルートは「命知らず」どころか、自分の命を何より大切にしている。魔獣を狩るのは、力量を上げるため、そして、命を落とさない瀬戸際を見極める感覚を研ぎ澄ますためだ。そうと知っているからこそ、「命知らず」という呼び方には違和感がある。

 同僚の誰にも本質を理解してもらえないなんて、孤独なのではないか。私がエルートの表情を伺うと、彼は焦げ茶の瞳をこちらにちらりと向けた。その眼差しは一瞬で、すぐに逸らされる。


「さあ、帰るぞ」


 私たちは帰路につく。先頭を歩くエルートの黒いマントの裾が、一歩ごとに翻る。凛々しい騎士の後ろ姿だ。

 私は、「命知らず」と呼ばれる彼が、本当はそうでないことを知っている。重い過去を持ち、今の信念に至ったことを。自分の命を何よりも大切にすると決めるまでに、様々な葛藤があったであろうことを。

 けれど私は彼の心を支えることも、癒すことも、励ますこともできない。いずれも、私には求められていない。私にできることと言ったら、彼の求めに応じて魔獣を探すことだけ。

 そう考えると、急に胸が締め付けられた。胸がちくりと痛む。

 この痛みは、魔獣の衝撃から立ち直っていないだけ。自分にそう言い聞かせた。


 そのまま進むうち、アイネンの体が、僅かに傾いでいることに気づいた。時折微かに呻き、左肩を庇う素振りをする。

 レガットが怪我をした時もそうだったが、騎士は痛みを顔に出さない。涼しい顔をしているアイネンも、本当は肩が痛むのだろう。彼は先ほど、魔獣に高く飛ばされていた。受け身を取ったが肩を痛めたと、そんな会話もあった。

 私は、左右に視線を配る。森はどこも、大して変わらない。見たことのある薬草が、そこかしこに生えている。

 大振りの葉が目に入り、私は脇に逸れた。


「魔女さん?」


 レガットが不審そうに声を上げる。エルート達も立ち止まった。私は摘んだ葉を、彼らに見せる。大振りの、紫色の葉。

 この葉を細かくして絞ると、打ち身によく効く汁が出てくる。打った箇所に塗ると痛みが和らぎ、治りも早くなる。小さい頃転んで打撲すると、母がよく塗ってくれたものだ。


「何、その草」


 レガットは僅かに顔を引きつらせる。私は立ち上がり、葉を持って列に戻った。


「打ち身に効く薬草です。細かくして絞った汁を、打った場所に塗ると痛みが和らぎます」

「まさか、私のためか」


 アイネンが硬い声を出した。その黒い眉が、高く吊り上がっている。


「……寄越せ」


 手を差し出されたので、薬草を渡した。アイネンの手のひらも、ごつごつとしている。騎士の手のひらは、皆硬い。彼らの重ねた鍛錬の痕がそこにある。

 薬草を受け取ったアイネンは、一瞥もくれずに投げ捨てた。紫色の葉は、森の草木の間に消える。


「お前、それはさすがにどうなんだよ。魔女さんの薬草はけっこう効いたぞ?」

「私は頼んでいない。エルート、早く進め」

「……ああ」


 そうだった。求められていないことは、してはいけないのだった。

 求められてもいないのに手を出してしまうのは、私の悪い癖だ。いつも自分を戒めるのに、同じことを繰り返してしまう。


「魔女さん、気にすんなよ」

「大丈夫です」


 背後からかけられるレガットのフォローに、私は小さく頷いた。

 母の教えを破ったら、自分が痛い目を見る。いつもそう。今だって、余計なことをしたからアイネンを不快にさせた。求められてもいないのに、余計なことをしたからだ。

 求められたら、応える。静かな森を歩きながら、母の教えを脳内で反芻した。

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