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ニーナ、騎士と出会う

 ちょっと冷たくて、ちょっと湿っぽくて、でもどこか温か。それが、花開く季節の朝の香り。朝の香りに目が覚めると、窓を覆う蔦の隙間から光が細く差し込んでくる。目を擦りながら起き上がり、ベッドを整える。


 ベッドから台所まではたったの3歩。昨日買ったバゲットを台所の端から取った。木のまな板に載せ、パン切りナイフで上から切る。薄く薄く、4枚分。

 穀物の香りが漂う切り立てのパンに、干し肉と生の薬草をたっぷりと挟み込む。塩辛い干し肉に合うのは、水分を多く含んだ薬草だ。もう1組のパンには、煮詰めた野苺を塗って挟む。

 朝食を載せた皿を持って居室の扉を開けると、そこはもう店の中だ。ベッドと台所のある居室と、店。私の家は、この2つから成っている。

 カウンターに皿を置き、マッチを探す。


「あれ? 昨日、この辺りに置いたはずなのに……」


 カウンターの上を探しても、ポケットに手を入れてみても見つからない。


 私は鼻が利く。のだけれど、それは他人の探し物限定だ。誰しも、自分の匂いは自分ではわからないという。自分の匂いがわからなければ、当然、自分から流れる匂いの方向も感じ取ることができない。要するに、私は自分の探しているものは見つけられないのだ。


 足元に視線を落とすと、いつ落ちたのか、床にひっそりと小箱が落ち着いていた。小箱から取り出したマッチをすって火をつける。

 透明な水に小さな泡が立ち、やがてぶくぶくと沸き出す様子を頬杖をついて眺めた。火から下ろし、茶出しに湯を注ぐ。くるくると渦巻く湯に踊らされ、薬草は清涼な香りを放つ。


「……いただきます」


 しゃく、という歯応えがあり、薬草から水が弾ける。甘味を帯びた薬草の水気によって、干し肉の塩辛さが和らぐ。顎に力を入れて引っ張ると、ぶち、と干し肉が千切れる。

 薄青い薬草茶を飲み、干し肉の残り香を喉奥に流す。口から鼻へ抜けた清涼感が目の奥を刺激する。

 野苺のジャムは、酸味と甘味とほんの少しの苦味が混ざり合う。食べ終えた私は、残りの薬草茶を飲み干した。


 空っぽの鞄を背負って、家を出る。薬草を摘むには朝が適している。店の鍵を掛けると、私は家の裏手に回った。そこは、道なき道。森の奥へ向かい、黒いブーツで地面を踏みしめながら進む。

 私には、自分の探し物の匂いはわからない。今探している薬草がどこに生えているかは知らない。ただ、いつものルートを歩いていれば、私の鼻は目当ての薬草の香りを捉える。


 草を踏み分けて木々の間を抜けると、目の前に明るい光が広がる。木に囲まれた森の広場。こうした空間は、森の中にいくらでもある。

 広場に群生している薬草の中に、可憐な白い花を咲かせたものがある。この花を茎ごと摘み取って薬草茶にして飲むと、心地良い眠りに誘ってくれるのだ。これからの季節は夜が短くなっていくから、この薬草を補充しておきたかった。

 薬草に手を伸ばすと、耳に掛けた髪がさらりと落ちた。肩ほどに伸びた真っ直ぐな髪は、宵の空に似た藍色。母似の髪色を、私はそれなりに気に入っている。髪を耳に掛け直してから、指先を地面へ移動する。


 ぷちん、ぷちん。


 根を残すように摘めば、大地の恵みによって薬草はまた葉を伸ばす。

 白い花を摘み、束ごとに根本を紐で縛ってまとめる。他にも、減ってきた薬草を何種類か摘んだ。これを天井から干して暫く待つと、乾燥して日持ちがする。薬草を鞄にしまって、私は草の中に腰を下ろした。


 早朝の森は心地良い。

 朝の光に照らされた草が、吹き抜けた風によって頭を揺らす。顔の下半分を覆うベールが、風に揺られてはらりと巻き上がった。

 土の香り。透明な露の香り。芽吹いたばかりの薬草の、若く青い香り。鼻から胸いっぱいに息を吸い込み、ゆっくりと吐く。たくさんの動物や植物を含んだ静かな森の香りが、鼻の奥に残る。


 人の匂いとは違って、自然の香りは純粋だ。方向はなく、そこに「在る」だけ。


 幸福で満たされた空間に、むっとする、濃い花のような匂いが差し込む。私は匂いのしてくる方向に顔を向けた。こうした複雑な匂いは、人間のものだ。だから誰かが来たとすぐわかった。

 それにしても、こんなに朝早く、こんな森の中に誰がいるというのか。

 鞄を背負って腰を浮かすのと、ガサ、と草を踏み分ける音が同時だった。


 マントを纏い、頭にフードを被った背の高い人間。その顔はフードの陰に隠れており、暗くてよく見えない。

 騎士様だ。

 顔が見えないのに直ぐわかるのは、そのマントが漆黒だったから。黒衣の着用は、騎士の地位を持つ者にしか許されていない。魔獣を倒し、命を救う黒衣の騎士は誰もが憧れる存在だ。


 騎士を見たのは初めてだ。漆黒の衣を纏ってすっと立つ姿は、堂々としていて頼もしい。

 私が彼を見ていると、そのフードの向こうから相手の視線も感じた。

 目が合ったのは、一瞬。黒衣の騎士は、その顔を左に向ける。


 花に似た独特な匂い。彼の匂いは、私の背後に向かって流れている。それも、今まで嗅いだことのないほどに強く。

 匂いの強さは、思いの強さだ。あの騎士は、信じられないほど強い思いを持って、何かを探しているらしい。

 騎士は左を向いたまま足を踏み出そうとしている。しかし匂いが示す通り、彼の探し物は私の後ろ方向だ。あのまま進んで行ったら、間違いなく遠回りになる。悪ければ、そもそも見つけることができない。


 どうしよう?


 私は迷った。頼まれてもいないのに、個人的な事情に踏み込むのは気が引ける。

 けれど、あれだけ強い思いを持って探している物のありかを知っているのに、伝えないのはいかがなものか。

 騎士が1歩踏み出し、木の向こうに身体が隠れた。行ってしまう。私は立ち上がり、胸元に提がる石のネックレスを掴んだ。石は震えていない。それが後押しになった。


「あの、騎士様」


 掠れた声が、風に乗って飛んでいく。ああ、本当に私なんかが呼び止めて良かったのか。畏れ多い。図々しい。途端に後悔が渦巻くが、騎士は既に足を止めてこちらを向いている。


「お探しの物は、あちらにありますよ」


 自分の背後に続く森を指す。花に似た彼の匂いが、流れていく先を。


 騎士の顔はずっとこちらを向いている。言うべき言葉を終えた私は、彼の様子をただ見守っていた。顔の向きをゆっくりと左に戻し、騎士はまた歩き始める。

 足音が遠のく。同時に、彼の放つ香りも遠のいていく。匂いだけは、私の後ろに向かって伸ばしながら。


 私は肩の緊張を緩め、息を吐いた。

 やっぱり、求められてもいないのに口を出すべきではなかった。

 母が私によく「求められたら応えなさい」と言っていた。鼻が利くというのは、些細だけど特殊な能力。求められたら応えなさい。そうして、沢山の人の役に立ちなさい。

 求められたら応えるということは、裏を返せば、求められてもいないのに口を出すなということだ。母の教えを守りたいのに、困っている人を見るとつい口を出したくなる。母の教えに背くと自分が傷つくことになるのは、痛いほど知っているのに。私の悪い癖だ。


 薬草摘みを終えて立ち上がる。背中を反らせると、腰がぱき、と軽く軋んだ。ずっと屈んでいたから腰が固まっている。

 私は少し重くなった鞄を背負い直し、歩き始める。


 日が少し昇り、朝の柔らかな光が強さを増してきた。


 看板を『休憩中』から『探し物見つけます』に変え、家に入る。

 カウンターに鞄を置き、摘んできた薬草を引き出す。店内に、青々しい薬草の香りが一気に広がった。

 踏み台の上に乗り、両手を上げる。店の天井には細い金属の線をいくつも張っている。根元を結んだ薬草をその線に引っ掛けた。上と下が逆になり、薬草はゆらゆらと揺れる。

 天井から、摘みたての薬草のみずみずしい香りが降ってくる。暫く吊っておくと水気が抜けて、日持ちするようになるのだ。


 吊らずに残しておいた薬草を、軽く洗って茶出しに入れる。朝飲む薬草茶は、摘みたての生の葉を使った香り高いもの。たっぷり投入した葉に沸かした湯を注ぎ込むと、ぐつぐつと空気の抜ける音がする。

 淡い黄緑色の薬草茶を注いだカップに、そっと唇を近づける。外を歩いて少し冷えた指先が、ぽかぽかと温まり始める。


「いらっしゃいませ、ルカルデさん」


 ベールを顔につけると同時に扉がノックされる。外の香りとともに店に入ってくるのは、丸々としたお腹を抱えた紳士。


「相変わらず勘が良いのう、ニーナは」


 鼻の下の髭を指先でつねり、形を整えるルカルデ。笑うと、その目がなくなりそうなほどに細くなった。

 私の探し物を見つける力は「勘が良い」ということになっている。鼻が良いとわざわざ種明かしすることは、自分の身を危険に晒すのと同じだ。鼻を塞がれたら、何もできないとわかってしまう。だから母に倣って、私も「勘が良い」と自らの力を説明している。


「お飲みになりますよね?」

「もちろん。頂こう」


 丸太の椅子に腰掛けるルカルデに、客人用のカップを差し出す。ゆらゆらと湯気の立つ緑色の薬草茶をなみなみと注いだ。

 ルカルデはたっぷりとした髭の中に、カップの縁を差し込む。熱いのに気にもせず、くくっとカップを傾け、ごくん! 喉を高らかに鳴らした。


「ああ、うまい!」


 薬草茶は熱くて、草っぽくて、鼻を独特な香りが抜けていく。私は好きだけれど、嫌う人も多い。こんなに美味しそうに飲むのはルカルデくらいだ。

 ルカルデは上質なハンカチを胸ポケットから出し、濡れた髭をごしごしと拭き取っている。


「ルカルデさん、今日も探し物ですか?」

「ああ。頼むよ」


 定番のやりとりだ。ルカルデは私の上客である。私は、ルカルデの匂いに集中する。

 紙をまとめて長く置いたような、木に近い匂い。その匂いは、店の外へと流れて行っている。


「行きましょうか」


 匂いを追って立ち上がる私に合わせ、ルカルデはカウンターにカップを置いた。

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