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ニーナの心残り

 私は自宅に戻り、エルートが付けてくれた鍵を開けて中に入る。扉を開けた瞬間、青い薬草の香りに出迎えられる。

 窓に張った蔦から射し込む細い光が、カウンターの一角を照らしている。天井から下がった種々の薬草。私は汲み置きの水を沸かして、薬草茶の準備をした。

 水が沸き、ふつふつと泡が出始めるのをぼんやりと眺める。たった1日ぶりなのに、妙に懐かしい感じがした。

 煮出した薬草茶を注ぐと、爽やかな香りが広がる。私はその淡く穏やかな香りを胸いっぱいに吸い込み、ゆっくり吐いてから、湯面に唇をそっと付けた。


 温かなお茶に心がほぐれ、どっと疲れが押し寄せてくる。慣れないこと、気の張ることの連続で、疲れていたらしい。

 疲れというのは、気が緩んだ時に気付くものだ。今がまさにそうで、目蓋が驚くほど一気に重くなり、もう開けていられなかった。少しだけ、休憩。そう決めて、カウンターに突っ伏す。樹の良い香りが鼻をくすぐり、上体の力が抜けてゆく。


 ──暗い目蓋の裏に、橙色に染まった空が映る。温かな陽射しが、斜めに差し込んでいた。賑わう町中の、飲食店から漂う食事の香り、人々の匂い。出店に並ぶ食品の、酒場の、金物屋の、パン屋の……気持ち悪くなりそうなほどごった返す香りの渦。

 道の真ん中に、自分の姿が見えた。俯き、自信なさげにゆっくりと歩く、小さな自分の背中。なぜ自分の姿が見えるのかわからないが、それは確かに「私」だった。

 歩く「私」は、後ろに2人の男性を引き連れている。


「どこまで行くんだ?」

「わかりませんが……こちらの方向にあるのは、確かです」

「期待してるよ、探し屋さん」


 依頼人であるふたりの男性に、からかうような口調で言われ、歩く速度を上げている。


「俺は、信じてないぜ」

「言ったね? 見つかったら、賭けは僕の勝ちだからな」

「わかってる」


 2人の客の、失礼な物言い。彼らは、私が探し物を見つけられるかどうかを賭けの種にしていたのだ。その目的を知っているのに、私は「私」に危険を伝えられない。早く逃げなければいけないのに、「私」は危険に向かって進んでいってしまう。

 依頼人が放つ、煙草に似た匂い。匂いの流れは大通りから逸れ、脇道に入っていく。夕陽が遮られ、薄暗い通り。人混みのごった返す匂いが薄れ、木々の香りが混ざる。道の向こうが、不意に闇になり。


「森……?」


 ざく、ざく。静かな森には、それ以外の音は聞こえない。心細そうな「私」の呟き。

 夜の森は危険だ。決して入ってはいけない。母の教えを、私はあの時破ったのだ。


「賭けは、僕の勝ちかな?」

「チッ……仕方ねえ。何を探しているのか知らないのに、こんなところまで来られるんだからな。俺の負けだ」


 舌打ちと共に、煙草に似た匂いの流れは、霧散して消える。


「じゃ、僕が先に頂くよ」


 男が「私」の肩を押し、よろめかせる。背中を樹の幹に預ける姿勢で、身動きできないよう押し付ける。


「僕たちが何を探していたのか、教えてあげるよ」

「痛っ……」


 痛みに顔をしかめるのは、肩に提げていた鞄を強引に剥ぎ取られたから。


「探していたのは、『誰にも見られない暗がり』なんだ」

「まさか森の中とは思わなかったぜ。ずいぶん歩かされちまった」

「まあ、いいじゃない。面白かったよ、自分の破滅の場所に、自分で案内するなんて」


 男の手が、「私」の胸元にかかる。痛みと共に、ぶち、と糸のちぎれる音。


「ははっ、暴れてるよ」

「暴れさせてやれよ。どうせ誰にも見られねえんだから」

「だよね。じっくりいたぶってやろうぜ」


 ぶちぶちと絶望の音が響き、私のシャツの前ボタンが、ばちんと弾け飛んだ。


 ──目が覚めた。


 首と肩が重く痛んでいる。何とか顔を上げると、ばきばきと強張った音がした。私はカウンターにいて、目の前には見慣れた店内の景色が広がっている。

 夢だったとわかり、肩の力が抜ける。変な姿勢で眠ったせいか、それとも疲労のせいか、ひどい悪夢を見てしまった。

 妙に現実的な夢だった。現実的というか、あれは実際に、私が体験したことだった。


 私はカプンの町に来る前、別の町で暮らしていた。そこでも私は探し物屋をして、細々とした依頼を受けていた。

 あの日、悪意のある客の策略にはまり、夜の森に入ってしまったのは私だ。「夜の森に行ってはいけない」と、小さい頃から言い含められていたのに。


 私が彼らの悪意を見抜けなかった理由は、ネックレスの青い石だ。

 手のひらに載せるところりと転がり、淡く青い光を放つ綺麗な石。今では肌身離さず着けているこのネックレスを、あの頃の私は、時々着け忘れていた。その日も、うっかりポケットにしまっていたのだ。

 母には、ネックレスを肌身離さず付けるように厳命されていた。破ったのは私だ。母の教えを破ると、自分が傷つく。そう痛感した事件であった。

 何とかして逃げ出すことはできたものの、思い出すと今でも二の腕に震えが走る。私は服の上から腕をさすり、もうすっかり冷めた薬草茶を飲んで心を落ち着けた。


 その時、外から木の匂いが漂ってきた。町長のルカルデが来たようだ。彼のために再度、薬草茶を煮出す。


「こんにちは、ルカルデさん」

「ああ、ニーナ!」


 目をくしゃりと細め、人の良さそうな笑顔を浮かべるルカルデ。彼の柔和な表情を見ると、心底ほっとする。悪夢の残滓が、頭から抜けていった。

 逃げ出した私がたまたま辿り着いたのがカプンで、私を受け入れてくれたのがルカルデだった。彼は、本当に、私の恩人なのだ。


「探していたんだ。どうしたのかね、昨日は」

「昨日、ですか? ええと……所用がありまして」


 騎士団の本部へ行き、騎士団長に依頼されて、魔獣討伐に立ち会っていた。そんな事実は、ルカルデに伝えてはいけない。話したら大騒ぎになる。

 騒ぎになることを避けて、エルート達は私が人目に触れずに済むようにしてくれたのだ。その意を汲んで誤魔化すと、ありがたいことにルカルデは「そうなのか」と納得した。

 彼の木の匂いは、今日も戸外に流れている。またいつもの探し物らしい。


 ルカルデは丸太に座り、丸いお腹をひと撫でしてから、薬草茶に口をつけた。まだ湯気の立つ熱いお茶を、ぐいっと一気に飲み干す。


「実は今日、王宮騎士の方々をお迎えしたのだよ、ニーナ」

「そうなんですか」

「なんだ、反応が薄いのう」


 それは、知っているからだ。私は怪しまれてはいけないと思って、「驚きすぎたんです」と付け足す。


「昨日準備をしていたら、また一張羅のボタンがなくてな。君に探してもらおうと思ったのだが」

「それは……申し訳ありません。ボタンは見つかりましたか?」

「ないんじゃ。エマに随分叱られたよ。探してもらっても良いかね?」

「勿論です」


 私とルカルデは、店の外に出る。歩き慣れた町への道。ルカルデのゆったりした足取りに合わせ、町長邸を目指す。


「こんにちは、ニーナちゃん。いつもごめんなさいね」

「いえ、大丈夫です」


 エマに出迎えられた私は、ルカルデの家に上がり込む。木の匂いを追うと、ルカルデの執務室に辿り着いた。机の上には相変わらず、書類が塔のように積み重なっている。

 ルカルデの匂いは、その書類の山の間へ流れていた。紙の塔を崩さないよう、注意深く隙間へ手を差し込む。指先に触れた硬い物は、金色の高級そうなボタンであった。


「これでしょうか?」


 摘んで見せると、ルカルデは両手を挙げ、にこりと笑顔を作った。ボタンに向かっていた彼の匂いが弾けて消える。正解だ。


「そうじゃ、さすがニーナ。そういえば釦が取れたから、床に落ちぬようそこへ入れておいたんじゃ。昨日はいくら探しても、見つからなくてのう」

「そうでしたか。すみませんでした」

「急用だろう? 仕方ないことじゃ」


 昨日のことを持ち出されると心苦しくて、私は繰り返し謝ってしまう。やむを得ないとは言え、恩人であるルカルデが困っていたのに、手助けできなかったことが居たたまれない。


「ありがとう、ニーナちゃん。この人いつもこうだから、ごめんなさいね」

「いえ……」

「ニーナちゃんもいつかは家庭を持って忙しくなるんだから、片付けた方がいいわよって言ってるんだけどねえ……」


 エマは片頬に手を添え、小さく溜息を吐く。


 家庭を持つ予定はないが、エルートたちの頼みに応える可能性は大いにある。カプンの町を離れている間は、当然、ルカルデの依頼には応えられない。

 ルカルデが私の鼻を必要としていることは、私自身がよく知っている。カプンの町を離れることが多くなるのなら、ルカルデの求めに応じにくくなる。それが、心残りだ。


 執務室を見回すと、棚にはそれぞれ名前がついている。私は、妻であるエマがルカルデの整理整頓を助けるために収納を用意し、分類を決めるといった努力をしてきたことを知っている。ルカルデは、それでも物を失くしてしまうのだ。決められた場所にしまうのすら億劫なルカルデの気持ちも、よくわかる。やはりルカルデの探し物には、私の鼻が必要なのだ。


「ニーナちゃん、ぜひご飯も食べて行って」

「ありがとうございます」


 エマに誘われ、私は今日もルカルデ宅でご飯を頂く。エマお手製の野菜スープは、今日もほっとする味わいだ。


「客が居るときくらい、肉でも良いと思うがのう」

「あなたが食べたいだけでしょ、駄目ですよ。ニーナちゃんはしょっちゅう来るんだから、誰かさんのおかげで」


 ちょっと嫌味なエマの言い方に、ルカルデは意に介さぬ笑顔で応える。息の合ったふたりだ。彼らの軽快なやりとりを見ていると、楽しい気持ちになってくる。


「そういえば、ニーナちゃんはどう思った?」


 スープとパンを交互に楽しんでいると、エマがテーブルの上に軽く身を乗り出し、そう話しかけてきた。目がきらきらと輝いている。噂話や恋の話をするときの、お決まりのエマの顔だ。


「どうって……何がですか?」

「何がって、王宮騎士様に決まってるじゃない!」


 エマは両手を組み、顔の脇に寄せて言う。頬を薄く染め、幸せそうな表情だ。


「残念ながら、いらっしゃることを知らなくって」

「ええっ、そうなの? 勿体ないわ、人生で一度あるかどうかもわからないのに!」


 驚愕に染まるエマの表情。彼女は気持ちが素直に顔に出る。そんなに素直に反応されると、嘘をついているのが申し訳ない気分だ。


「エマさんも、初めてお会いしたんですか?」

「ええ、そうよ、素敵だったわあ。あの方々に守って頂けていると思うと、安心して過ごせるわよね!」


 私は曖昧に微笑み、頷く。

 騎士たちの評価は、そのまま市民の安心感や、王家への信頼に繋がる。王宮騎士ともなれば、尚更だ。レガットの異様なほどの人当たりの良さも、エルートの作られた態度にも、アイネンの余計なことを言わない態度にも納得が行く。

 エマの言葉に素直に同意できないのは、騎士たちの窮屈さが想像できるからだ。ひとつひとつの言動にいちいち気を遣うのは、さぞ疲れることだろう。

 せめてエルートが気を遣わないで話せる存在であれたら。そんな考えが頭をよぎり、すぐに打ち消した。これこそ、身の程知らずな願いである。


「初めて町長夫人になって良かったと思ったわ!」

「それは言い過ぎじゃよ」

「あら失礼。そのくらい素敵だった、ってことよ!」


 エマのあけすけな物言いにも、ルカルデは気を悪くした様子はない。苦笑いして、その丸いお腹を撫でるくらいだ。

 ルカルデもエマも、どこの馬の骨とも知れない私を温かく受け入れてくれた。彼らの笑顔を見ていると、こちらまで温かな気持ちになる。

 求めに応じて、いつまでも彼らの役に立っていたい。これからはそうはいかないと思うと、心残りに胸がちくりと痛んだ。

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