ニーナの選択
立とうとすると、膝ががくがくする。俯き気味の妙な中腰で、私は長く息を吐いた。寄せられたスオシーの鼻を、ぷにぷにと掴む。生温かな吐息と柔らかな感触が、気持ち悪さを和らげてくれる。
「うぅ……」
「酷い有様だね」
「昨日もこうだった。ニーナは我慢強いんだ」
レガットとエルートのやりとりが、どこか遠く、ぼんやりとして聞こえる。私はすがるように、スオシーに頬を寄せた。
今日の移動は、昨日より絶対に長かった。しかも。私はこの、悪夢のような道中を思い返す。
荷物袋に入って、スオシーにぶら下げられた。ゆっくりと歩き出すスオシーの足取り。袋の中だと動きが予測できなくて気分が悪くなるのだが、既に体験済みの私にとっては、耐えられないものではなかった。聞こえる音や漂ってくる匂いからはできるだけ意識を逸らし、自分の体勢と、顔につけたベールの香りに集中していれば気を紛らわせることはできる。
そんな小手先の対策が通用したのは、スオシーが歩いている間だけだった。今はもう王都からかなり離れたところにいるから、あれは、王都を出たところだったのだろう。スオシーが走り出したのだ。当然、荷物の私も、ぐわんぐわんと尋常でなく揺られた。
「走るなら、先に言ってほしかったです……」
わかっていれば、心の準備ができたのに。
「ああ……済まない」
エルートは申し訳なさそうに眉尻を垂れる。
彼に悪気はないのだ。それも重々、わかってはいる。やはりエルートは、言葉が足りない。先回りして聞いておくべきだった。私は項垂れ、息を整える。
「……よし。大丈夫です」
「無理はするなよ」
私は頷いた。
馬上から私を見下ろす、レガットとアイネン。彼らを待たせるわけにはいかない。
体調が万全という訳ではないが、これ以上立ち止まっているのも、それはそれで落ち着かない。
エルートが下から押してくれて、私はまたスオシーに乗る。乗ってしまえば、爽やかな風が顔に当たり、少しさっぱりした気持ちになる。青臭い草の香り。柔らかくて青い風。スオシーに乗って草原を走ると、最高の気分になれる。
人目はないけれど、どこで誰が見ているかわからない。私はフードを目深にかぶり、顔を隠した。それ以外は、昨日と同じ。エルートに腹部を支えられ、重心の移動を合わせつつ、カプンの町へ向かう。
ぱからっ、ぱからっ。駆ける馬の足音は小気味良く、軽やかだ。どの馬も、尾とたてがみをなびかせて、気持ちよさそうに走っている。なんて美しい生き物なんだろう。無駄のない筋肉が、一歩ごとに躍動する様は、美しいとしか言いようがない。
カプンの町が遠くに見えてくるまで、そんなに時間はかからなかった。馬たちに見惚れていたら、時間を経つのを忘れていたのだ。まだ1日しか離れていないのに、カプンの町は妙に懐かしい。
「魔女さんとエルートは、森で待っているんだよな?」
「ああ。ニーナはカプンの者だ。俺たちと一緒にいるのを見られたら、何かと不都合だろう」
レガットとエルートの会話を聞いて、私はなるほど、と頷いた。
普通の騎士がやってきた時ですら、町の女性たちは盛り上がっていた。ましてや今回は、王宮騎士団である。一般人が御目通りすることなど普通なら叶わない、高貴な方々。女性たちだけでなく、今度は町人が沸くことが容易に想像できる。
そんなところに私が紛れていたら、大事件だ。出迎えてくれるルカルデとエマには直ぐ気づかれるだろうし、エマに知れたら一瞬で吹聴される。私は、そんな悪目立ちはしたくない。
「君はそれでいいの? 僕たちの手伝いをするなんて至上の名誉、自慢できるのに」
目を丸くしたレガットの問いに、私は首を振って否定した。
「至上の名誉は嬉しいですが……私の身に余るものです。自慢なんて、おこがましい」
「ふうん」
彼の相槌が、急に熱を失った。その温度差が引っかかる。
今の無関心さが、レガットの「素」なのだろうか? エルートのように、彼もいろいろと取り繕っているはずだ。職や国の評判を背負っているなんて、返す返す、騎士とは窮屈な立場である。
「俺たちは先に予定の場所へ向かっている。町への挨拶は任せた」
「僕に任せれば完璧だよ。お前とは違うんだ」
口角を片側だけ上げる挑発的な笑みを残して、レガットたちはカプンの町の入り口へ向かった。
「行くか」
スオシーと私たちは方向転換をする。目の前には、カプンの森。森の端から、樹々の間を通って奥へ入って行く。
スオシーが落ち葉を踏み締めるガサガサと乾いた音。広がった枝や蜘蛛の巣を、払ったり避けたりしながら、ゆっくりと進む。懐かしい森の香りだ。私は胸いっぱいに、土の香りを吸い込む。
吸い込んだ香りによって、鼻の奥から胸の奥まで、ごちゃごちゃになっていた匂いの残滓が一掃される。長く息を吐いた時、私の背中からも、はあ、と溜息が聞こえた。
「……体調は、大丈夫か?」
「はい、お陰様で」
スオシーに乗っているうちに、吐き気はすっかり和らいだ。耳の近くで聞こえるエルートの声も、周りの静けさに合わせて抑えられている。柔らかな声の響きが森の音と合わさって、穏やかな雰囲気だ。
「もう君には、魔獣のいる場所がわかっているんだよな」
「はい。場所というか……方向が、わかっています」
「そうだった。方向、だな」
エルートの放つ花の匂いは、今日も森の奥へ一直線に向かっている。あの先に、魔獣がいるのだ。彼の望みは、全くぶれない。
「素晴らしい能力だ。探し物を見つける力、だったか……魔獣の居場所を見つけることなど、どんな手練れの騎士にもできないと言うのに」
「……身に余るお言葉です」
「余らないよ、ニーナ。君の力は、騎士団が求めて止まないものなんだ」
いつものお飾りとは違う、真剣な声色。エルートが腹部に添える手に、心なしか力がこもった気がする。
「……だからこそ。辞めるなら今しかないぞ、ニーナ。今なら、魔獣はやはり見つけられなかったと言うことができる。魔獣が見つけられるというのは俺の勘違いで、君にはそんな能力はないということにすれば、今なら辞められる」
スオシーが立ち止まる。足音が止み、森特有の、しっとりした静寂が訪れる。聞こえるのは風の音、鳥の鳴き声だけ。
「そうすれば、君は危険な目に遭わなくて済む」
エルートの声が、その静けさの中に、はっきりと響いた。
「危険な目、ですか」
「そうだ。魔獣は危険だ。今までは俺が相手を見極めて、確実に君を守ることができた。もしこのまま騎士団に手を貸すことになれば、そうはいかない。俺たちと違って、君は魔獣に身を晒す必要のない人間だろ、ニーナ」
心配してくれているのだ。
私はエルートの言葉を受け止めた。彼の優しさが、心にひとつの光を灯す。温かくなった胸に、手のひらを添える。
エルートの言葉の、意図はわかった。
私が本当に魔獣を見つけられると知るのは、今はまだエルートだけだ。団長のガムリでさえ、探し物を見つけたことは知っているけれど、本当に魔獣を見つけられるかどうかは知らない。
彼の助言に従い、何らかの理由で魔獣を見つけられなかったことにすれば、私は何もできない一般人で居られる。エルートが口添えしてくれるなら言い逃れも叶うだろう。
魔獣は危険だ、という、エルートの言葉を脳内で反芻する。魔獣の、あの禍々しく赤い瞳を思い出す。凶暴な爪と牙を。最後に残る、心臓の気味悪さを。魔獣は怖い。肉食の魔獣にはまだ遭遇したことがないが、エルートがこれほど言うのだから、余程危険なのだろう。想像するだけで、怖気が走る。
死ぬかもしれない。死ぬほどでなくても、怪我を負うかもしれない。魔獣に対面するというのはその危険を負うことだと、エルートは言っているのだ。
答えは考えるまでもなかった。胸元のネックレスは震えていない。エルートに、悪意はない。もちろん、他の騎士たちにも。
「……求められるのなら、応えることにしているんです」
求められたら、応えなさい。懐かしい母の声が蘇る。
人の役に立ちたい。そう願ってきた。 私は、母のように人の役に立てる存在になりたいのだ。母は故郷で、たくさんの人の心を救っていた。彼女の助言はいつでも的確だった。母の言いつけを破って上手くいったことは、未だ嘗てない。
騎士団が私の鼻を求めるのであれば、応えるべきだ。彼らは、人々を守る英雄。私の働きによって守られる命があるのなら、それこそまさに「人の役に立った」と言えるだろう。
「私が魔獣の居場所を見つけて、それでカプンの人たちの安全が守られるなら、嬉しいです」
「……そうか」
エルートが呟くように言ったとき、ガサ、と落ち葉を踏む音がした。
「待たせたね」
「ああ、レガット。悪いな、任せて」
「いいんだよ。僕の方がお前よりずっと、人当たりは良いからね」
レガットはいちいち、エルートよりと自分が優れているという言い方をする。まだ彼と少ししか接していない私でも、はっきりとわかるほどに。けれどエルートは、挑発的な物言いにも嫌そうな顔ひとつしない。
「そうだな」
そう肯定だけして、エルートはスオシーから降りた。彼の手を借りて、私も地面に降り立つ。
心の広い人なのだ。嫌味を言う同僚に腹も立てず、私のような一般人の身を案じてくれる。スオシーの瞳に宿る優しい光と同じものを、エルートの焦げ茶の瞳にも感じる。
「案内頼むよ、魔女さん」
「……はい」
エルートの放つ、花の匂い。その先にいる、魔獣に向かって。私は一歩を踏み出した。
彼の匂いは、真っ直ぐ森の奥へ向かう。それを追えば良いから、簡単な話だ。匂いを追いながら、私は不思議な気持ちでいた。
他人の個人的な事情には首を突っ込みたくないのだが、私の鼻は勝手にそれを捉えようとする。エルートの匂いに集中していても、時折レガットや、アイネンの匂いも、感じ取ってしまう。
アイネンの匂いは、森の奥へほんのりと淡く向かっている。レガットに至っては、匂いは私たちの進行方向と逆に向かっていた。思いの強さは、匂いの強さ。騎士なら誰しもが、魔獣の討伐を強く願っているわけではないらしい。エルートが魔獣を求める気持ちの強さは、騎士の中でも特別なのだ。
広場を通り過ぎ、森に分け入り、道なき道を行く。落ち葉を踏む音に、踏んだ小枝の折れる音が加わる。ぱき、ぱき。森に深く入るほど、土と湿った香りが増す。
「本当に、こんな奥にいることがわかるのか……?」
ついにレガットが、疑いの声を上げる。私が何か言う前に、エルートが小さく咳払いをした。隣を歩く彼を見上げると、黒いフードの奥で、焦げ茶の瞳は案じるようにこちらを見ている。
できないと言えば、この役目から逃れられる。危険な目に遭わずに済む。エルートの忠告を思い出した。もし「やっぱり私にはできない」と言うとしたら、それは今なのだ。
私は、立ち止まる。目の前には、以前エルートが切り分けた草むらがあった。緑盛る季節だからか、あの日ふくらはぎ辺りまで切ったはずの草は、もう腰下まで伸びている。
レガットを見上げた。疑うような緑の瞳。私の答えは、決まっている。
「私には、わかります」
答えてからエルートに視線を移す。彼は、その眉尻をぐっと下げた。悲痛とも見える、複雑な表情。
優しい人だ、と改めて思う。
「皆さんがお探しのものは、この奥です」
草木の向こうにいるはずの、魔獣の方向を指差す。私は、私の求められていることを果たすのだ。