エルートの同僚
知らない天井だ。目を開けた私は、暫く天井を見て、状況を思い出した。
ここは、騎士団の本部。私は魔獣を見つける能力を求められて、エルートに連れてこられた。今日から……かはわからないが、今後カプンの森の魔獣を討伐するために騎士団に協力することを、団長直々に依頼された。
依頼は引き受ける。相手に悪意がない限りは。ましてや騎士という、人のためになる仕事をしている人たちの役に立つのなら、断っていいはずがない。
ガタン!
大きな音がして、肩がびくっと跳ねた。上半身を起こし、音がした方を見る。
「あら? おはよう、ニーナ」
薄暗い部屋の中。僅かな朝日で照らされた、白くて丸い女の人。大きな口でにかっと笑い、そう声をかけて来る。
「アテリアさん、おはようございます」
不思議な感じだ。寝起きに、他の人の顔を見るなんて、いつぶりだろう。
「ごめんねえ、起こしちゃった?」
申し訳なさそうに言いながら、アテリアは白い割烹着に腕を通した。昨日、厨房から出てきたのと同じ姿だ。
「いえ。いつもこのくらいの時間に起きるんです。アテリアさんは、お仕事ですか?」
「そう、朝の食事の仕込み。朝は早いんだ」
ばたばたと準備しながら、アテリアは頭にきゅっと三角巾を被り、腕にタオルを掛ける。
「ああ、忙しい、忙しい!」
「……お手伝いしましょうか?」
その様子を見て、つい口を出してしまった。料理は嫌いではない。昨日食べた煮込みは美味しかった。あのソースの作り方も気になる。
アテリアの騒がしく準備する音が、ぴたりと止む。つぶらな瞳が、私を見つめる。
「そりゃあ、あたしはありがたいけど……」
彼女の口ぶりは、感謝よりも、困惑に近い。
ああ。私は心の中で嘆いた。また、求められてもいないのに、口を出してしまった。困っていそうな人を見たときに口を出してしまうのは、私の悪い癖だ。
「でもニーナ、あんたはエルートさんが見つけてきた、特別なお人なんでしょう? いいのかね、そんな料理なんて手伝わせて」
「特別なんて、全然。買いかぶりすぎです」
話がどう巡りめぐってそんなことになっているのか。私はそれを、はっきりと否定した。多少鼻が良いだけで、私自身には価値はない。
「……まあ、あんたがいいなら、あたしは助かるよ。じゃあほら、それを着なさい」
アテリアから割烹着を1枚受け取り、私はそれに腕を通す。背の低いアテリアの割烹着は少々短くて、手元が長めに出てしまう。それ以外は問題なく、身に付けることができた。
早朝の宿舎は、静まり返っている。足音を立てないように気をつけて歩いている私の横を、アテリアはどしどし音を立てて歩く。
厨房に入った瞬間、ほのかな熱気に迎えられた。厨房の中は、意外と広い。中央に大きな台があり、それと見合うほどの大きなかまどが二つ。火種は今はくすぶっており、上にはそれぞれ、大きな鍋が置かれている。
「火は点けられるかい?」
「点けられますが、この大きさは初めてです」
「そう。ならあんたは、こっちを頼むよ」
かまどに載った鍋の中身は、水とソースであった。水の中には、大量の食器が入っている。鍋の汚れを落とすために煮沸した後らしい。
「鍋の中をあの流しにあけて、皿を拭いて、そこに重ねて置いておくれ」
「ああ、はい。わかりました」
鍋に手をかけ、持ち上げようとする。
ずしりとした重みが腕にかかり、びくりともしない。文字通り微動だにしない鍋を、うんうん言いながら引いていると、口にふいごを当てて火を起こしていたアテリアが、作業を止めて立ち上がった。
重い鍋をものもとせずに持ち上げ、流しに中身を開ける。ざあ、という音とともに大量の水が流れ、がらがらがっちゃん!と皿が出てくる。
アテリアは平気な顔で、また鍋をかまどに戻した。
「じゃ、よろしく頼むよ」
「……はい」
すごい力だ。私は自分の手のひらを見下ろし、ぐー、ぱーと握ってみる。アテリアと比べると、あまりにも非力だ。
水に濡れた食器を1枚ずつ布で拭い、台の上に重ねていく。何十枚あったろうか。最後の皿を拭き終えた頃にはかまどの火はすっかり燃え上がり、先程の鍋には新しい水が注がれていた。
だん! だん! と激しく響くのは、アテリアが肉をぶった切る音だ。ぶつ切りになった肉の山を両手で掴み、鍋に入れる。鍋の中では、先程のソースが、もうぐつぐつ煮えたぎっている。
こんな風に煮込んで、あの肉料理ができるわけか。私は鍋を覗き込み、感心した。騎士団が何人いるのか知らないが、皿の量から察するに、数十人はいるだろう。その食事をひとりで作るには、一度に大量に調理する必要がある、ということだ。
「ああニーナ、そっちの沸いてる水の方を、ソースに混ぜてもらえるかい? 水気が完全に飛んじまうと、焦げるんだよ」
「はいっ! わかりました」
だん、だん! の合間に、そう指示を出される。私は柄杓を取り、水の鍋からソースの鍋へ、中身をいくらか移した。
立ち上る湯気が、厨房を一気に暑くする。額にじわりと汗を感じ、それを三角巾が吸うのを感じた。
「ありがとうね。助かったよ」
「いえ……私は何も」
一息ついたのは、アテリアが切った肉を、鍋に全て入れ終えた時。ぐつぐつ煮込まれる肉を、大きな柄杓でアテリアがかき混ぜる。両手を使って、ぐるぐると、力いっぱい。私も試したのだが、腕の力が足りなくて、かき混ぜられなかった。彼女の腕力は、目を見張るほどである。
「いつもだったらこの後に皿を拭いて、煮込んだ肉を盛り付けるんだから。一息つける時間があるなんて、本当にありがたいよ」
闊達に笑うアテリアの肌は、汗と湯気とでつやつやと輝いている。私もきっと、そうなっている。この暑い部屋でたくさん汗をかき、蒸気を浴びているから、彼女の肌は赤ちゃんみたいにつるつるなのだ。餅肌の理由に、私は納得する。
「アテリアさーん、パンをお届けにきました」
「はいよー」
扉の向こうに返事をするアテリアの声があまりにも大きくて、私は肩を跳ねさせた。彼女が扉を開けると、パンがいっぱいに入った大きなかご。かごがゆらりと揺れ、台の上にどんと載る。
「おはようございまーす。これ、置いときますね!」
かごを運んできたのは、威勢の良い男性だった。ふう、と息を吐いて額の汗を拭い、そして私を見た。
「おや? アテリアさん、ついに助手ができたんですね」
「まあね。優秀な助手だよ」
「それはそれは。では、毎度あり~」
男性は忙しげにすぐ厨房を出て行き、残されたのはパンのかごだけ。焼き立てのパンの甘い香りが、厨房にふんわりと充満していく。
肉と、ソースと、湯気と、パン。それにアテリアの野苺に似た匂い。鼻の奥にごちゃごちゃとした香りが入ってきて、私は顔の下半分を覆うベールを、付けてこなかったことを後悔した。鼻を覆わないと、この香りの渦はちょっと苦しい。
「そろそろだよ、ニーナ。皿に肉をよそって、パンを載せるんだ。持っていくのはあたしがやるから、中で盛り付けを頼むよ」
「私は、持っていかなくて大丈夫ですか?」
「あー、止めといた方がいい。エルートさんが連れてきた女の子ってのがどんな人か、皆注目してるからね。絡まれるのがオチさ」
それはエルートの騎士団内での扱いによるものなのか、それとも「外から連れてこられた女」というところに問題があるのか。定かではないが、私は彼女の忠告に従うことにした。昨日廊下ですれ違った騎士たちの物珍しげな視線は、あまり心地良いものではなかったから。
パン屋とのやりとりの間に、肉にはすっかり火が通っていた。煮込まれた肉をすくい、皿に載せる。あまりソースに浸らないよう注意して、皿の端にパンを載せる。
次の皿に肉を盛り付け、パンを載せる。また、次の皿に。単純作業を繰り返していると、アテリアが両手で4皿ほど一気に持って厨房を出て行った。盛った皿を直ぐ持っていかれるので、また慌てて盛り付ける。そうこうしているうちに、用意した皿は全てなくなった。
「お疲れさん。助かったよ、ニーナ。盛りに手がかからなかったおかげで、配膳がすぐ済んだ」
「それなら良かったです」
戻ってきたアテリアにそう言われ、私は達成感を覚えた。鼻以外で人の役に立ったのは、久しぶりのことだ。誰かの役に立つのは、どんなことであれ嬉しい。
言葉を交わしたのはほんの一瞬、次の瞬間には、アテリアはまただん! だん! と包丁で肉を切り始めた。豪快な手捌きで、肉がどんどん分断されていく。
「ニーナ、食器を棚から取って、水でゆすいでから、火にかけてもらえるかい?」
「棚ですか?」
アテリアの立てる物音が大きくて、大きな声を出さないと聞こえない。私が聞くと、アテリアは左手を大きく振った。
「ほら、そこの! 覚えてるかい、昨日あたしが、食器を受け取ったろう!」
「ああ、はい! わかります!」
厨房内から使用済みの食器を取り込める、便利な作りのあの棚のことだ。私は厨房の壁に寄ると、引き戸を開ける。目の前には既に、所狭しと食器が積み上がっていた。皿の隙間から見える騎士が、皿を手に持ったまま置き場に困ったように佇んでいる。
これはまずい。とりあえず手近な食器を重ねて取り、桶に汲み置かれた水でゆすぐ。その後、かまどに掛けられた熱湯に、ぽちゃんと沈める。その繰り返しだ。途中で肉を切り終えたアテリアが合流する。彼女は、私が1度に持っていける量の、およそ3倍の食器を一気に持ってきて桶に突っ込んだ。矢張り彼女の腕力は、私とは比べものにならない。
「これは、お昼ご飯のときにまた使うんですか?」
「いや。あたしが出すのは、朝晩だけさ。昼は他で調達しているらしいよ。これは、昼番の方々の朝食用。ニーナ、あたしが皿を出すから、また拭いてもらえる?」
「もちろんです」
驚いたことにアテリアは、あのぐつぐつと沸騰している鍋を平気で持ち上げ、また中身を流しに開けた。もうもうと蒸気が立ち込める。私はまだ熱い皿を布越しに持ち、拭き始めた。
その後の作業は、先程と同じ。私が皿に肉を盛り、アテリアが運ぶ。一連の動作を終えると、今度は皿を棚から引き上げる。引き戸を開け、食器を取り出す。その奥に、焦げ茶の目が見えた。
「は?」
食器の間から、訝しげな声と、こちらを射抜くような視線。
「おい待てニーナ、何で君はそこにいるんだ!」
厨房の扉がいきなり開けられ、そう声を上げるのは、エルートであった。
「ちょっと、開けるときはノックしなさい!」
「あ、すまん」
アテリアの怒声に、エルートが怯む。彼は、昨晩見かけたラフな格好ではなく、見慣れた騎士団の黒衣を着ていた。
「それよりニーナ、君だよ。朝食を取ったら討伐に行くから、直ぐ来るようにと、昨日……俺、伝えたか?」
叱責する調子のエルートが、徐々に自信なさげになる。
「……お聞きしていません」
「悪い、失念していた。すぐに来てくれ、君には仕事がある」
すぐにと言われ、アテリアを見る。厨房の仕事はまだ途中だ。アテリアは屈託のない笑顔を浮かべ、片手を挙げた。
「こっちは大丈夫よ。ありがとね、いってらっしゃい」
鷹揚に見送るアテリアに頭を下げ、エルートと共に厨房を出る。
「悪かったな。話したものだと思っていた」
「いえ。こちらこそすみません、勝手に厨房を手伝っていて」
「構わない。俺たちは鍛錬場で待っている」
「わかりました。急ぎますね」
鍛錬場は、コの字型の建物の、内側にあった広いスペースのことだ。私はエルートに会釈をして別れ、早足で部屋に急いだ。エルートは「俺たち」と話していたから、今回同行する中には、他の騎士もいるらしい。何人もの騎士様をお待たせするなんて畏れ多いこと、したくはない。
白い割烹着を脱ぎ、クローゼットに入っていた着替えを取る。ありがたいことに、着替えまで準備されていた。深い鼠色のワンピースだ。やや大きめだが、着られないことはない。
汗をかいたせいで肌がべたついているし、全身から湯気とスープの香りがする。だからと言って今から温泉に行く時間はなく、私はそのまま部屋を出た。
廊下を抜け、二つ曲がって外に出る。出てすぐ右手側に鍛錬場がある。そこには馬が3頭と、3人の黒装束がいた。
もう待っている。
私は自然と、小走りになる。騎士様を3人も待たせたなんて。心苦しい気持ちだ。
「急がせて悪いな、ニーナ」
その中のひとりは、エルートであった。隣にはスオシーがいて、駆け寄ると柔らかな鼻を押し付けてくる。昨日よりも念入りに匂いを嗅がれた気がする。食事の香りが染み付いているからだろうか。私はその鼻を撫でてから、他の2人に頭を下げた。
「お待たせして申し訳ありません」
「ううん、大丈夫。君が『カプンの魔女』さんだね。会えて嬉しいよ」
黒いマントを身につけた騎士が、柔和な表情で笑う。くるんと巻いた銀髪が、柔らかな印象だ。笑うと、形の良い歯が唇から覗く。緑の瞳が、柔らかく細められる。騎士というのは、皆こんな風に整った顔をしているものなのだろうか。思わず目を奪われ、それから、意識的に焦点をぼかした。見つめたら失礼だ。
「はい」
「僕はレガット。エルートと同じ、王宮騎士だ。今回は俺と、このアイネンが同行させてもらうよ」
アイネンと紹介された騎士は、黒髪で、太い眉が真面目そうに吊り上がった青年であった。彼も含め、つくづく、騎士という人は容姿も恵まれている。アイネンは軽く頭を下げたが、声は発さない。寡黙な人らしい。
「よろしくお願いいたします」
私は深々と頭を下げた。エルートが王宮騎士なら、彼らもそれに準じた高貴な方々のはずだ。失礼があってはならない。
「そんなのいいから、顔を上げて。……いいね、女の子がひとりいると華があって」
ひんやりした手が、私の頬を撫でる。顔を上向けられ、レガットの緑の瞳としっかり視線が合った。感情の読み取れない、深く抜けるような緑。至近距離での眼差しに、今度こそ見入ってしまう。
「ニーナにその演技は通用しないぞ」
エルートが制してくれたおかげで、視線の糸が途切れた。するりと手が離れ、レガットがふっと鼻で笑う。
「妬いてんのか? 別に僕は演じてないよ、お前と違ってこれが素なんだ」
「素がそんな騎士があるものか」
少しぴりりとした雰囲気の二人に口を挟めず、気まずくなった私は自分の爪先を眺めた。
レガットの言動は、恐らく演技だ。エルートと同じ。騎士は、ひとりひとりの行動が職全体の評価に繋がってしまう。だから素の自分を隠し、取り繕うのだ。一市民である私にも、王宮騎士として無難な対応をしてくれているのだろう。
大変だわ。
何も背負わない私が同情するのもおこがましいけれど、その窮屈さは、少しかわいそうだと思った。
「ニーナ、これを羽織ってくれ」
会話を終えたエルートに渡されたのは、フード付きのマント。エルートたちのものに似ているが、色は濃い灰色である。今着ているワンピースと同じ色。
マントの生地は厚く、丈夫そうな質感で、やや埃っぽかった。その奥に甘酸っぱい匂いを感じて、私は首を傾げる。アテリアの匂いに似ている。彼女もこのマントを、着たことがあるのだろうか。
エルートに押され、スオシーに乗る。昨日に続いての乗馬は、視線が高くて良い気分だった。鼻先をくすぐる風は、草木の香り。スオシーのたてがみを撫でると、さらさらと心地良い手触りである。
「わっ」
「俺たちといるところを見られると、困るのはニーナだからな。顔を隠しておけ」
後ろから手を伸ばしたエルートに、フードを深くかぶせられる。いきなりのことで驚いたが、続く囁きに納得した。
エルートたちといるところを見られると困るのは、私。それは間違いない。何しろ彼らは、人々の憧れる騎士。その中でも誰もが憧れる王宮騎士だ。私のような一般人が一緒にいるなんて、おとぎ話でもありえない。私自身が批判の対象になるのはもちろん、私を連れている騎士の側も批判されるのは目に見えている。
「それならいっそ、昨日みたいに、袋に入れてくだされば良いのに」
気分は最低だが、袋の中なら絶対に人目に触れないという安心感だけはある。半分本気で、半分冗談で口にした。
「いいのか?」
「えっ」
そんな自虐に、エルートは真剣な声で応える。
「あーあ。それはかわいそうだって、僕が止めてあげたのに」
馬上のレガットが、くつくつと笑いながら言った。
「かわいそうかどうか、という問題ではないだろ?」
レガットに、エルートが厳しい声を放つ。アイネンは止めるでもなく、そのやりとりを眺めている。3人の関係は、あまり良くなさそうだ。レガットは続けて、小馬鹿にしたように顎を軽く突き出す。
「かわいそうだって。女の子だよ?」
「だからこそ、だ。……ニーナが嫌でないなら、その方が良い。ニーナのような者が、俺たちと一緒にいたらおかしいだろう」
「そうですよね」
私みたいな一般人が、王宮騎士と行動を共にするなんてありえない。身の程知らずと謗られてしまう。エルートの言う通りだ。
エルートに促されて馬を降りた私は、昨日と同じように袋に入った。スオシーが歩き出すと不規則に揺れ、頭がぐるぐるする。その気持ち悪さを既に経験した分、昨日よりいくらかましだ。
こうして私は、王宮騎士の魔獣討伐へ、ひっそりと同行することになったのである。