騎士団の食事
騎士団本部の中に戻ると、照明の明かりに目が眩んだ。何度か瞬きを繰り返して目を慣らす。土の香りがするから見ると、私の指先が茶色く染まっていた。爪先に土が入り込んでいる。素手で地面を掘り返したから、当たり前と言えば当たり前だ。
「これを使ってくれ」
隣を歩くエルートが、黒のハンカチを手渡してくれた。騎士は、小物まで黒で統一されているらしい。手触りがスオシーの毛並みのように滑らかで、上質な生地だとわかる。
「これで拭いたら汚れてしまいますよ」
「構うな。その手で団長の部屋に入る方が問題だ」
先頭を歩く団長のガムリは、足早に部屋へと向かっている。エルートが案内してくれたときとは違い、真っ直ぐに。道中何度か騎士とすれ違い、物珍しそうに見られた。
好奇の視線には慣れているが、良い気分ではない。私は騎士たちと目を合わせないように、ガムリの背中だけを見て歩いた。揺れる黒のマントは、名誉ある騎士の証。
ガムリとエルートに挟まれ、先ほど訪ねた騎士団長の部屋に戻ってきた。
テーブルの向こうの椅子に、ガムリが腰掛ける。私たちは、彼に向かい合うようにして立っている。最初と同じ位置どりだ。
手に持った金属片を、ガムリは懐から取り出した黒い布で拭う。あの金属片は、私がさっき腐葉土の下から掘り出したもの。丁寧に土を拭き取り、くるりと裏返す。目を細めた。
「懐かしいな……イスタル」
情感のこもった震える声と、優しげな目つき。初めて会ったときの威厳溢れる姿とは、全く違う様子であった。
「イスタルというと……確か」
「ああ。お前はその名を知っているな、エルート。私の古き良き友人だ」
エルートはその名の持ち主を知っているようだ。ガムリがそれを受け、頷く。その小さな金属片を、指先でくるくると愛しげにもてあそびながら。
「存じております。団長と並ぶ、腕の立つ王宮騎士だったと」
「並ぶ? 奴は私よりも優れていたよ。優れた判断力と反射の速さがあったからこそ、誰よりも早く危険を察知したんだ。……あれは、虎の魔獣だった。不意をつかれて危ないところだったが、イスタルが魔獣の気を引いたおかげで、私たちは虎の魔獣を打ち倒せた。イスタルの貴い犠牲によって」
貴い犠牲。私の胸は、きゅっと締め付けられる。イスタルという人は、既に命を落としたらしい。魔獣によって。
ガムリの穏やかな表情が、かえって、深い悲しみを表している。本当に悲しいとき、人は悲しい顔なんてできない。
「奴の体は、魔獣に弾かれて崖の下に落ちた。後日捜索隊を派遣したが、崖下の川からは、奴の体も、所持品も、何ひとつ見つからなかった。せめて形見を家族に渡してやりたいと、それだけが心残りだったんだ」
深い藍色の瞳が、指先の金属片に注がれる。あれが、唯一の形見になるのか。そう気づくと、背筋に震えが走った。
「一度、イスタルは騎士の胸章を紛失したことがある。まだ私たちが騎士になったばかりの頃だ。森での鍛錬を終えたあと、寮に戻って、奴の胸章がないことに気づいたのは私だ。当時の団長に、手酷く叱られていたよ」
ふ、とガムリの口元が緩む。金属片を、手の内にぎゅっと握りしめる。日焼けした拳の表面に、はっきりと浮き出る血管。感触を確かめるように握りしめたまま、何度か拳を上下に揺する。
「森の中で失くしたのだから、どこかにあると思っていたんだ。だが、簡単に見つかる代物ではない。探し出すのは諦めたが、ずっと頭の片隅にあった。なあ。ニーナと言ったか」
「はいっ」
突然名前を呼ばれ、喉が締め付けられたような返事が出た。深い藍色の瞳が、また私を見つめている。心の内まで見透かすような瞳。その表面が、深い湖の如く、波打つ。
「……感謝する」
ガムリのたったひと言が、心の奥底に、じんわりと広がった。
人の役に立つって、こういうことなんだ。
思い返せば、今まで探してきたのは、どれも他愛のないものばかりだった。
ルカルデの失くした書類。紛失した結婚指輪を、夫に気づかれる前に見つけたい。どこかへ行ってしまったお気に入りのアクセサリー。金庫の鍵。子供のおもちゃ。落とした財布。棚を留めるねじ。
見つかると感謝はされたが、ないならないで何とかなるもの。それでも、お礼の言葉を聞くことには喜びがあった。
ガムリの悲しみをたたえた穏やかな表情と、簡潔な謝辞。それを受けた私の心の温かさは、「喜び」という言葉を超えた、しみじみとしたものだった。
「『カプンの魔女が魔獣を見つけられる』などというのは妄言か、エルートが騙されているのだと思っていた。しかし、考えを改めなければならぬな」
ガムリの声色が切り替わり、騎士団長らしいぴりりとした威厳が取り戻される。吊り上がった眉に、眉間に刻み込まれた険しい皺。藍色の瞳は、既に凪いでいる。
「『カプンの森』にいる、肉食魔獣の討伐。君なら見つけられるだろう。人々の安全を守るため、力を貸して頂きたい」
「わかりました」
間を置かず答えると、ガムリの眉間は、更に寄せられる。眉が吊り上がりすぎて、額にも皺が刻まれる。厳しい顔つきだ。きっと怒っている。でなければ、なぜこんな厳しい顔をするのだろう。答えを求めて、彼の瞳を見つめた。
ガムリの鋭い眼差しは、私の顔から、隣に逸れる。
「私の口から説明するから、詳しくは言うなと言わなかったか?」
咎める調子の言葉の刃が、エルートに向かって飛んだ。
「いえ、俺は何も、言えと言われた以上のことは」
「誤魔化すな。そんな筈はなかろう。ひとつ返事で引き受けるなんてことがあるか」
言い訳がましく答えるエルートを、ガムリが一喝する。様子を横目で確認すると、エルートは直立不動の姿勢を取り、視線をガムリに真っ直ぐ注いでいる。
ガムリの藍色の瞳からは、怖くて目を離せないのだ。私もそうだから、エルートの気持ちには共感する。
ガムリとエルートの間に、張り詰めた視線の糸が結ばれている。双方の顔を、私は見比べた。
力強い目と厳めしい顔で、泣く子も黙るほどの睨みを利かせるガムリ。対して、微動だにせず、その視線を受けるエルート。焦げ茶の目は真っ直ぐ相手を見つめている。表情を変えないエルートのこめかみに、ひと筋の汗が流れた。
「ニーナ。エルートにどう聞かされたか、正直に話してくれ」
エルートを見据えたまま、ガムリが低い声で言う。
説明を求められている。
エルートが疑われているようだが、ありのまま話せば、彼にかけられた誤った疑いは晴れる。弁護の機会を得て、私は躊躇いなく口を開いた。
「先ほど聞かせていただいた以上のことは、聞いていません」
ガムリの視線が、また私を向く。蛇に睨まれた蛙の気分だ。自然と、エルートと同じ、直立不動の姿勢になる。打ち付けた腰は、伸ばすとまだずきんと痛む。その痛みよりも、ガムリの視線の方が痛かった。
「なら、何も知らずに引き受けたのか。魔獣討伐の危険も、報酬のことも」
「はい」
「なるほど。……エルート同様、君も『命知らず』なのだな」
ガムリの額の皺が消える。視線の圧が漸く緩み、私は肩の力が抜ける。腰の痛みが戻ってきて、背中を丸めて痛みを逸らす。
信じてもらえたのは幸いだ。だが、エルートが『命知らず』というのはどういうことだろう。命知らずとは、死を恐れずに行動する無謀な者を指す言葉だ。自分より強い魔獣が現れたらすぐに逃げると豪語するエルートには、ふさわしくない言葉である。
「君には明日、作戦に加わってもらう。食事を取り置かせてあるから、2人で食べると良い。では、下がりなさい」
端的な指示で、ガムリとの時間は終わった。私はエルートを真似し、深く頭を下げる。ぴりっと走る腰の痛みに表情を変えないよう努力しながら、団長の部屋を辞した。
音もなく、その厚い扉が閉まる。どちらともなく、ふう、と息を吐く。エルートを見ると、彼もこちらを見ていた。
「……という訳だ」
「わかりました」
「本当にいいのか? 団長の言うように、何も聞かずに引き受けて」
「構いません。ここまで来て、引き受けないなんて言えませんよ」
そもそも、馬に乗せてもらってわざわざ王都まで来て、今更断るなんてことができるはずがない。それに、私はエルート達の求めに応じるために、この騎士団本部へやって来た。例え場違いでも、自分にできることがあるのなら、力を尽くすべきだ。
求められるなら、応える。母の教えは、そういうことだ。
ガムリの、しみじみとした感謝の言葉を思い出す。人の役に立つことは、深い感傷をもたらすものだった。求めに応えることで誰かの役に立てるなら、本望である。
エルートが前を歩き、私は後に続く。階段を降りた先、1階の中央部に食堂はあった。扉を開けると、四人がけの机が並んでいる。人の姿はないが、空間に食べ物の香りが残っている。煮込んだ肉の香りだ。お腹が小さく、ぐぅと鳴く。
そういえば、お昼を食べてから随分と経っている。しかもその間に馬に乗り、荷物のように運ばれ、騎士団長と森を歩くなど、初めてのことばかり経験した。蓄積していた疲れと空腹を、今になって感じた。
中へ入ると、テーブルが居並ぶ食事場の手前に、くすんだ灰褐色の扉がある。壁と同化したような扉をエルートがノックする。ノックする彼を見て存在に気づいたほどの、薄ぼけた色の扉だ。
「エルート・ザトリアだ。遅くなってすまない。夕食を頂きに来たのだが」
「はいはーい!」
扉の向こうから元気な返事が聞こえ、ばたばたガチャンと音がする。ガチャン? 何かが割れたのではないか。心配になってエルートを見上げるが、彼は涼しい横顔をしていた。
扉が開いて出て来たのは、ふくふくとしたほっぺの可愛らしい女性だった。食べ物の香りと、野苺に似た甘酸っぱい匂いを漂わせている。白い餅肌に、くりんとしたつぶらな瞳。年の頃はどのくらいだろうか、赤ちゃんのような肌はつるんとしていて、年齢はわからない。背の丈は低く、体は鞠のように丸い。頭には白い三角巾を巻き、髪がはみ出さないようきっちりと留めている。
つぶらな瞳はエルートを見て、それから私を見た。にかっと口を大きく開けて、屈託なく笑う。
「ああ、どうぞお入りになって!」
彼女の合図で、私とエルートは食堂の中へ向かう。誰もいないので、並んだテーブルの、一番手前に向かい合って座った。
「彼女は、我らが騎士団の料理番だ。名前は、アテリア……ええと、アテリアだ」
難しい顔をして首をひねるエルートの前に、どん、と勢いよく皿が置かれる。
「アテリア・リースですよ! 初めまして、『カプンの魔女』さん。お疲れでしょう、これを食べて精をつけなさいな」
名乗りながら、アテリアのたくましい手が、私の目の前にも皿をどんと置く。
迫力のある料理だ。皿の真ん中には、何か赤茶がかったソースで煮込んだ肉が盛られている。付け合わせは、拳大の黒パンがひとつ、そのまま。見た目はともかく、ソースから漂う甘い香りに食欲がそそられる。
「ありがとうございます、リースさん」
「アテリアで構わないよ、今日から同室の仲間なんだから」
「同室の?」
「なんだ、もう聞いていたのか」
私が問い返すと、アテリアが答える前にエルートが口を挟む。アテリアは花咲くような明るい笑顔で、大きく頷いた。
「それはもう、とっくの昔に。『命知らず』のエルートさんが、女性を連れて来たって。夕食の話題は、そればっかり」
「耳が早いな。隠れて歩いた意味が全くないじゃないか」
自慢げに胸を張るアテリアと、渋い顔をするエルート。
アテリアもエルートを『命知らず』と呼ぶことに、私は驚いた。この騎士団において、エルートは『命知らず』として定着しているらしい。
命知らずだなんて。彼は自分の命を大事にしているのに、不思議な呼び名だ。
「ああっ! すみませんね、あたしとしたことが。冷める前にどうぞ、せっかくだから」
アテリアに勧められ、私は口元を覆うベールを外して、手にナイフとフォークを持つ。
「いただきます」
肉は柔らかく煮込まれており、ナイフで切らずとも、触れるだけですっとほぐれた。フォークで持ち上げ、口に運ぶ。ほろりとした食感、口に広がる肉の香りと、甘く濃厚な味。噛んでいると肉の繊維が口に残り、それを飲み込む。
「……美味しいです」
溜め息とともに、心の底からの賛辞が出た。
「あら、嬉しい! ありがとう、魔女さん」
丸い頬を桃色に染めているアテリアは、そう言って喜ぶ。
「アテリア、その人はニーナだ。ニーナ……そういえば、姓をまだ聞いていないな」
「ニーナ・エトシールです。よろしくお願いします」
「ニーナね! こちらこそ、どうぞよろしく」
エルートの紹介を受け、アテリアはまた、大きな口を開けて笑った。爽やかな付き合いができそうな、闊達な印象の女性である。
アテリアは片付けがあると言って、先程の扉に引っ込んだ。あの奥には、厨房があるらしい。どんがらがっしゃんと、片付けには似つかわしくない激しい音が微かに聞こえる。
パンをちぎって、ソースを絡める。お肉の香りのするソースは程よくパンに染み込んで、これまた美味しい。
「アテリアの料理は文句なしに旨いんだが、量がな。毎日こればかり食べていると、薄い味が懐かしくなる」
暫く食べ進めていると、エルートが呟いた。彼は黙々と肉を食べていたが、まだ皿の上には半分ほど肉が残っている。私自身も、エルートよりさらに多く、肉が残っている。
美味しいのだ。味は、本当に。ただ、肉の味もソースの味も濃厚で、少量でも胃が満たされた気分になる。そんな肉が、両手いっぱい分くらい、皿に盛られていたのだ。かなりの量である。
「それでエルートさんは、薬草をお食べになりたかったのですね」
「ああ。俺は素朴な味に飢えているんだ」
薬草を好んで食べるなんて珍しいと思ったが、なるほど、それなりの事情があったのか。これだけ濃厚な味付けの肉を毎日たくさん食べているのだとしたら、薬草みたいなさっぱりしたものも欲しくなるのはわかる。
こんなに美味しいのに、もったいないと思った。肉に少し薬草を添えたり、さっぱりした薬草茶やスープと共に提供したりしたら、良い具合に口の中をリセットできて、もっとたくさん食べられるだろうに。
この上なく空腹だった私も、肉の山の半分を取り崩した辺りから、進みが遅くなった。普段からそれほど量を食べる訳ではないし、肉もあまり口にしないので、胃の容量がもたなかった。
「……それ、食べてやろうか」
「え、いいんですか?」
「もう食べ切れないようだから、仕方ないだろう」
何のかんのと文句を言いながらも、エルートは肉をすっかり食べ終えていた。その提案は、渡りに船だ。私の皿の上にはまだ肉が載っており、これを食べ切れる気がしない。
「……あ、でも、もう口をつけてしまったので」
異性間で、相手が口をつけたものを食べるというのは、よろしくないのではなかろうか。そもそも、人が食べたものを食べるというのは、衛生的でもない。さらには騎士様に、自分の食べ残しを押し付ける形になるなんて。
「それが、どうかしたか?」
「いえ……」
口籠る私をよそに、エルートは平然とした顔で皿を引き寄せる。躊躇なく肉をすくい上げ、口に運んだ。私が先ほどまで食べていたものが、彼の口に吸い込まれる。
なんか……本当に良かったんだろうか。
後ろめたさを感じながら食事風景を見守っていると、エルートがちらりと私を見た。皿から顔を上げ、目を細める。
「何か意識してるだろう」
「……っ!」
今度こそ、頬が一気に熱を持った。
良くない。こういう不意打ちは、本当に良くない。彼は騎士だし、別に何も特別な意識はしていないが、その端麗な容姿はそれだけでずるいのだ。
エルートはふっと笑い、追い討ちをかける。
「ニーナは、目に感情が出るんだな」
この人の戯れに、流されてはいけない。私は自分に固く言い聞かせ、残った水をぐっと飲み干した。