クラス替え
【pixiv】にも同じ作品を載せていますが、こちらは細かい部分を手直ししました。
三年二組の教室に入ると、鈴ばあさんがいた。
ミウはげんなりする。これから一年、同じクラスで生活するのだ。
鈴ばあさんは目ざとくミウを見つけ、しわだらけの顔でにやっと笑う。
「来たね。さあ、肩でも揉んでおくれ。少しでも力加減を間違えてごらん、お前の頭を撃ち抜いてやるよ」
ミウは鞄を下ろす暇もなく、鈴ばあさんの肩を揉む。首ぎわをぐいぐいと、でも力を入れすぎずにほぐしていく。鈴ばあさんは定規に輪ゴムをかけ、いつでも撃てるように構えている。今どき一年生でも使わない武器だ。
鈴ばあさんは今年で八十歳になる。それなのに、まだ小学校を卒業できない。食器を割れば隣の子のせいにするし、人の教科書やノートに落書きをするし、機嫌が悪いと大声で当たり散らす。
「ちょっと、手が止まってるよ!」
鈴ばあさんは定規で机をばしばし叩く。そこへアサちゃんがやってきた。二つ結びの髪を弾ませ、バレエのステップを踏みながら教室へ入ってくる。
「ミウちゃんおはよう! 同じクラスだね」
うるさいね、と鈴ばあさんは立ち上がる。アサちゃんは構わずミウに笑いかけた。
「となり座っていい?」
「いいよ」
「鈴ばあにいじめられたら私に言って。追い払ってあげるから」
邪魔するんじゃないよ、と鈴ばあさんがアサちゃんの背中をつかむ。ミウは壁の時間割表をぼんやり見つめた。
この学校は毎年クラスが変わるのだ。
「ねえ、そういえば」
アサちゃんに話しかけようとすると、誰もいなかった。鈴ばあさんもいない。教室は薄暗く、黒板がどっしりと重くたたずんでいる。
「いけない! みんな始業式に行っちゃったんだ」
急いで教室を出ようとすると、ちょうど誰かが入ってくるところだった。暗くてよく見えないが、赤いジャージを着た男のようだ。
こんな先生いたっけ、と思いながら、ミウはぺこりと頭を下げた。
「すみません、遅れちゃって。今行きます」
「行かなくていい」
男はミウの両腕をつかんだ。近くで見ると、ようやく顔がわかった。くっきりした目鼻立ちに、黒々とした髪と眉。先生にしては若すぎる。
「行かなくていいんだ。お前はもうとっくに卒業してる」
頭の中がぐらりと揺れた。大きな水槽が傾いたような感覚だ。
「でも……私は小学生で」
「お前はもう社会人だよ。この学校はお前とは何の関係もない。ウサギ穴に落ちたんだ。ただそれだけだ」
何を言っているのだろう。ミウは去年もその前もこの学校にいた。そう言おうとして、はっと気づく。自分が何をしていたのか思い出せない。おぼろげな輪郭はあるのに、何も説明できない。どうやってここへ来たのか。入学式はどんなだったか。
男はミウの顔を見た。
「何も覚えてない?」
「えっ……」
「俺のことも?」
ぼんやりと、人の形をした影がいくつも頭を通り過ぎる。
まばたきをせずに見つめた。黒板が歪み、大きさが変わる。時計の位置、時間割、週目標のポスター、全てが生き物のように移動する。
こっちこっち、と誰かが呼ぶ。
違うよこっち。
こっちだよ、こっち。
ささやき合う人影の中から、ふっくらと丸い顔が現れる。男の子だ。つやつやした赤い実を差し出し、食えよ、と言う。屈託のない声と笑顔だ。
「俺が育てたんだぜ。絶対おいしいから」
待て、と叫ぶ声がする。しかし、ミウは赤い実を口にしてしまう。ほのかな甘みも、苦手なはずの酸味も、口の中で柔らかく弾けて喉に落ちていった。
トマト。違う、これはじゃがいもの味だ。トマトの顔をしたじゃがいも。頭の中が溶けてひとつになっていく。
丸顔の男の子を、赤いジャージを着た男が揺さぶっている。
何てことをしてくれたんだ。お前のせいでミウは、ミウは……。
それからの記憶はおぼろげだった。気がつくと知らない場所にいたり、初めて会う人を友達のように思っていたりした。
屋根の上、暗くて寒い地下、カスタネットの世界、宝石を積んだ電車。ふと、小学校へ戻ることもあった。どこにも行かず、部屋で寝転がっていることもあった。
「あなたは……誰?」
目の前の男に意識を戻した。緊張感の漂う目つきと、黒い髪、赤いジャージ。何度も会っているような気もするし、初めて見たような気もする。ただ、悪い人でないことはわかった。この男は本当にミウのことを思ってくれている。
帰ろう、と男は言った。
「正しい場所に戻れば、ちゃんと思い出せる」
「ここは正しい場所じゃないんですか」
「大丈夫。俺が思い出させるから」
男はミウの腕を強く掴んだ。その途端、ぼやけていた視界が明るく晴れた。黒板が透き通り、向こうで誰かが手を振っている。
「ミウ! 何やってるんだ、早く戻ってきな!」
「ミウちゃーん!」
ミウは顔を上げた。鈴ばあさんとアサちゃんが、黒板の向こうから体当たりをしている。
「ここに隙間があるよ!」
「どきなアサ、私がやる」
黒板の下のふちから、しわしわの指が現れる。ミウは立ち上がった。男は一瞬だけ腕を強く引いたが、すぐに離した。
「向こうに帰るのか」
ミウはうなずいた。男はミウをじっと見つめた。怒っているのか、失望しているのか、よくわからなかった。
「お前の学校は、毎年クラス替えなんてしなかった」
「知ってます」
「そうか……」
男は目を伏せ、少し笑った。
「また、会いに行く。何度でも思い出させる。お前がどこにいても、必ず」
ミウは振り返らず、黒板のほうへ走っていった。鈴ばあさんの指をつかむと、するりと隙間に吸い込まれた。指が折れてしまうのではないかと思ったが、ほとんど体重がかからないほど速かった。プールに飛び込んで潜り、顔を出して泳ぎ始めるように、あっけなく元の教室へ戻っていた。
「あっ、ミウちゃん!」
「まったく、手こずらせるんじゃないよ」
黒板の下から這い出てきたミウを、鈴ばあさんが乱暴に起こした。ミウが立ち上がるのを確認してから、つかんでいた指を無造作に離す。
「あ、ありがとう」
「礼ならアサに言いな。大騒ぎするから、私も仕方なく手伝ったんだよ」
教室を見回す。ルルやケイタ、ソウスケとはクラスが分かれてしまった。でも、アサちゃんと仲良しの西川くんが座っているのを見て、ふっと笑顔になる。
空いている席は、去年も同じクラスだったリネンくん。相変わらず不登校だ。
キキちゃんは、お菓子作りと犬が好き。ヤマトくんは、地理や歴史にとても詳しい。ユウタロウくんは人気者で、バレンタインにはチョコがどっさりだ。
覚えている。ここにいるみんなのことを、ミウは知っている。去年のことも、その前のことも。
黒板を見る。一瞬だけ、向こう側が透けて見えたような気がした。頭がぐらりと揺れ、また元に戻る。
「ミウちゃんって面白いよね。なんか時々、大人の人みたいに見える」
アサちゃんが言い、ミウは胸の奥が小さく波打つのを感じた。
鈴ばあさんはそっぽを向き、ばかばかしい、と言った。
「あと七十年生きてから言うんだね。ほら、肩もみの続きだよ」
ミウとアサちゃんは笑い、鈴ばあさんの肩をばしばしと叩いた。鈴ばあさんも立ち上がり、叩き返してきた。しばらくそうして、三人で叩き合って笑っていた。
待っててね、とミウは心の中で、誰にともなくつぶやいた。