戴冠式
ユニスはゆっくりと身体を起こし、自分のいる部屋を見渡した。
奥に見えるのは巨大な絵画と、小鳥をモチーフにした意匠を凝らした暖炉。ユニスの寝室の2倍はあろうかという、広々とした部屋である。
大きな窓からは光が燦々と降り注ぐ。
ベッドの上で途方に暮れていると、ノック音がした。
「殿下、お目覚めでしょうか?」
オルガの声ではない。ユニスは困惑しつつも「ええ」と扉に向かって口を開いた。
ガチャリと扉の開く音とともに部屋に入ってきたのは、3人の女官達。いずれも妙齢の美女である。
朝の挨拶を口にした後、揃ってユニスの前で腰を折る。
「殿下付きの侍女を務めさせていただきます。どうぞお見知りおきくださいませ」
そう言われ、ユニスの困惑は深まった。
「……オルガは?」
「ああ、ユニス殿下の乳母ですね。後ほどお会いになれますよ」
まずはお召し物を、と言われユニスは恐る恐るベッドを降りる。
3人はあっという間にユニスの周りを取り囲むと、手早く仕事に取りかかった。流れるような動作で、ユニスの着替えを進めていく。ふと彼女達の手元を見れば、普段のユニスからは考えられないような豪奢なドレスや宝飾品を持っていた。
「こんなに美しい御髪は見たことがありませんわ」
ひとりがユニスの白金の髪にブラシを入れながら言えば、別のひとりも口を開く。
「肌もまるで絹のよう。さぞやこのドレスに映えましょう」
その唇の動きはなめらかだ。するすると流れるように称賛の言葉が紡がれる。
彼女達の賛辞を、ユニスは黙って聞いていた。どう反応すればいいのか、分からなかったからだ。
それが彼女達の本心なのか、それとも何か別の狙いがある故の言葉なのか分からない。
全ての身支度を整えると、ユニスは隣接する小部屋で朝食を供された。混乱のただ中ではあったが、いざ食事を前にすれば身体は空腹を訴えていた。
昨日からほとんど何も食べていないのだ。
おずおずと食事を口に運んでいると、壁際に控えていた侍女が口を開いた。
「迎えの者が既に扉の前で待機しておりますので、食事が終わりましたらすぐに出発致します」
「……迎え?」
そして出発とはなんだろう。
内心の混乱は増すばかり。
ユニスの不安げな表情を前にしながら、しかし侍女はそれ以上の説明をしなかった。彼女達は一様に貼りつけたような笑顔のまま、ぴくりとも表情を変えない。何を質問しても無駄だと、ありありとわかる態度であった。
そして食事が終わる頃。ノック音に続いて部屋に入ってきた人物を見て、ユニスは小さく声を上げた。
「あなたは、昨日の……」
立っていたのは、昨日会った軍人だった。彼は扉の前で膝を折ると、頭を垂れ、礼をとる。
「ルディウス・ランバルトと申します。昨日は名乗りもせず、申し訳ありません」
かしこまった調子で言われ、ユニスは縮こまる。ルディウスは片膝を床についたまま、ユニスの方へ顔を上げた。
「時間がありませんので、早速出発いたしましょう」
「……どこへ?」
ルディウスの答えは簡潔だった。
「戴冠式です」
ますます意味の分からぬ言葉に、ユニスは当惑を深めて固まった。
そうしてルディウスがユニスを連れて行った場所は、リーベル大聖堂と呼ばれる国教の総本山だった。
王城の奥に閉じ込められる前、何度かここを訪れた記憶が残っていた。王族の生誕、結婚、国葬の儀式は、全てこの聖堂内の大ドームで執り行われるのだ。年に一度の収穫祭の折などは、王族は皆この聖堂を訪れ、神々へ1年間の感謝と翌年の豊穣を願う祈りを捧げる。
国家的式典の全ては、この大聖堂を中心に行われると言っても過言ではない。
聖堂前に馬車は止まり、扉から顔を出したユニスを出迎えたのは、入口を守るようにずらりと並んだ軍服の男達だった。
数は100を超えるであろう。
全員が甲冑を身にまとい、佩刀している。武装した男達の一団は、ユニスを萎縮させるには十分な威力を持っていた。
先に馬車から出ていたルディウスは、ユニスに手を差しのべながら、その表情が強張っていることに気づいたようだった。ルディウスはユニスにだけ聞こえるよう口を開く。
「警備の兵達です。ご案じなさいませんよう」
危害を加える者はおりません、とそう言ってルディウスは硬い表情を解いた。それは昨夜と同じくユニスを安心させるためだと分かる、優しげな顔だった。
何か意外なものを見たような気がして、ユニスは目を瞬かせる。
だがルディウスのその表情を見られたのは、ほんの一瞬のことだった。
ルディウスはさっと踵を返すと、「こちらへ」とユニスを先導するように歩き出す。その広い背中を追うように、ユニスも後をついて行った。
正面の扉を開けると、天井の高い回廊がドームの周囲をぐるりと囲むように続いている。
薄暗い回廊をしばらく歩いていくと、扉の前に出た。ここがドーム側壁に位置する入口だという。ルディウスに続いて中に入ると、その場の視線が一斉にユニス達に注がれた。刺すような視線を感じて、ユニスはそちらへ顔を向ける。
聖堂内の席は、半分程が埋まっていた。全員が礼服に身を包んだ成人男性で、女性の姿は見えない。
既に待機していた男達は、遅れて入ってきた少女の姿に釘付けになっていた。
自分達より後に入ることを許された、見慣れない少女。相当な身分でなければ許されまい。
あれは一体誰なのだと囁き合う声が、堂内のあちこちから漏れ聞こえる。
そして、その正体が知れ渡るのに時間はかからなかった。
この場に立ち会う事を許された者は限られていたからだ。ものの数十秒で、彼らはユニスの正体を察したようだった。
その表情に驚きが広がってゆくのが、ユニスのいる場所からでも分かる。
何と言ってもその姿を見なくなって久しい王女が、実に7年ぶりに人前に現れたのだ。
人々の瞳に浮かぶ好奇の色。ユニスはその視線に耐えきれず、俯いた。ルディウスの足元だけを見ながら、なんとか歩を進める。
そうして最前列の席までたどり着いた所で、ルディウスはユニスの方を振り返った。
「こちらでお待ち下さい。すぐに式典がはじまります」
そう言うと、ルディウス自身もユニスの隣に並ぶ。
間もなくルディウスの言葉通り、祭壇に一人の神官が現れた。赤い法衣をまとい、白く長いあごひげを生やした老神官である。
彼は何かを待つようにじっと祭壇から扉の方を見つめている。
やがて荘厳な鐘の音がドーム内に鳴り響いたかと思うと、内堂の大扉がゆっくりと開かれた。
現れたのは、儀礼用の長衣をまとった兄アレスだった。王家の紋章が刺繍された真紅のローブを着ている。
アレスは前を見据え、一歩一歩踏みしめるように祭壇の方へと近づいてくる。ユニスの目の前を横切り、祭壇の前まで来た所でアレスは立ち止まった。
その時になってようやく、ユニスは己が連れてこられた場所の意味合いを理解した。
これはアレスの、――新王の戴冠式だ。
――でも、なぜこんな。
父の訃報から丸一日。
まだ国葬も執り行われてはいないはず。
喪に服す前に戴冠式を行うなど、通常であればありえない暴挙である。世情に疎いユニスでさえ、そのことは分かるというのに。何故アレスは戴冠式を強行するのだろう。
そんなことを考えている間にも、即位の儀式がはじまった。神官がこの地に住まう神々へ、国の守護と繁栄を願って祈りを捧げる。
古より伝わる祈りの言葉が堂内に響き、神聖な空気が場を満たす。
長い祈祷が終わると、アレスが即位の宣誓を口にした。
「――慈悲と寛容によって民を導き、正義と秩序をもってこの地を統治する事を、ここに誓約する」
そう宣言すると、戴冠式のために誂えられた椅子に腰を下ろす。神官から宝剣、王笏が授けられ、最後に王冠を戴いた瞬間、参列者から次々に声があがった。
「国王陛下万歳!」
「アレス陛下万歳!」
男達の野太い声が堂内にこだまする。新王の戴冠を言祝ぐ、地鳴りのような歓声だった。
一通りの儀式が終わると、参列者達が祝いを述べるため王の前に列をつくった。
真っ先にアレスの前に膝を折ったのは、元老院の議員達である。
その様子をぼんやりと見ていたユニスだが、間もなくルディウスに促され、アレスの前へと進み出る。両膝をついてその顔を見上げると、アレスは重い表情でユニスを見つめていた。その顔に笑みはない。
「お兄様……」
何を言うべきか分からず、続く言葉が出てこない。――祝福だろうか? それとも別の言葉を?
アレスは困惑しているユニスをじっと見つめながら、奇妙な問いを口にした。
「ユニスは、私を信じるか?」
ひどく真剣な声に、ユニスはまじまじとアレスを見つめ返した。質問の真意は分からない。しかし、ユニスの答えは決まっていた。
「――はい」
今のユニスが頼れる者は、この兄以外にいない。ユニスの生殺与奪権を握っているのは、アレスなのだ。
その後戴冠式はつつがなく終わり、ユニスは胸に広がる不安を払拭できぬまま、再び王城へと戻った。
アレスの言葉の意味が判明したのは、その翌日のことである。
翌朝、新王の即位とともにユニスの臣籍降嫁が大々的に発表された。