帝国の版図
それから3日後、ルディウスが四百の兵士とともにハイラントを発つ日がやってきた。
期間は約一ヶ月。
東方に国境を接する3つの所領へ趣き、諸侯の説得にあたるのだ。
「行ってくる」
早朝、城壁近くまで見送りに出たユニスを見つめて、馬上からルディウスはそう言った。その精悍な顔を見上げながら、ユニスは口を開く。
「どうかご無事で」
心配そうに瞳を揺らすユニスに、ルディウスは安心させるように頷いた。
ルディウスは次に目線を上げると、ずらりと並ぶ兵士を見渡す。
「皆、城の守りを頼む」
よく通るその声に呼応するように、兵達が「はっ」と声を揃えた。
出発の号令に合わせて、隊列がゆっくりと動き出す。ルディウスもファスの手綱を引くと、ユニス達に背を向けて隊列の先頭へと駆け出した。
ハイラントの町を下る隊列は、徐々に小さくなっていく。その騎影が完全に見えなくなるまで、ユニスはその姿を見つめ続けたのだった。
ルディウスがいない間も、日々は続いてゆく。
日中は教師について勉学に励んでいるユニスだが、今日はルディウスの師であるレオニダスが来ることになっていた。周辺国の情勢について知りたいというユニスの為に、ルディウスがレオニダスを招いたのだ。
「……では殿下は、バラキア帝国について知りたいと?」
ユニスと同じ机を前に、レオニダスは難しい顔で顎をさすった。理知的な灰色の瞳が、わずかに細められている。
城塞の一室。城を訪れたレオニダスに、バラキア帝国のことを教えて欲しいとユニスが頼んだのである。
「はい。この国やルディウスが対峙しなければならないバラキアとは、どのような国なのでしょう」
誰もがバラキアを警戒し、危険だと口にする。けれどバラキアがどのように恐ろしい国なのか、ユニスには分からなかった。
レオニダスはしばし思考を巡らせた後、立ち上がって書棚の中から何かを取り出す。戻ってきたレオニダスが机の上に広げたのは、地図だった。
「この地図を見たことは?」
「はい、あります」
アスティリアと周辺国が描かれた地図である。歴史や地理を学ぶ際に、使っているものだ。
「ここに、バラキアという国はありません」
言われて、ユニスは頷いた。地図にはアスティリアを中心に、国境を接する国が5つ、他の国も入れると28の国名が記されている。しかしその中に、バラキアの文字はなかった。
「ここにあるのがハイラントです」
と、レオニダスは地図の一点を指さした。
「王都とハイラントまでの距離がこのくらい」
レオニダスは右手の親指と人差し指を広げてみせる。ちょうど親指の場所に王都が、人差し指の先にハイラントが位置している。
「そしてバラキアの都は、このあたりです」
レオニダスはくるりと後ろを向くと、机のある場所からゆっくりと遠ざかった。
一歩、二歩、三歩。
三歩行ったところで、レオニダスは歩みを止める。
「このあたりが彼らの帝都だと言われています」
ユニスは目を見張った。
王都からハイラントまでの距離の10倍、いや20倍だろうか。何という場所から遠征しているのだろうと、その遠大さにユニスは息を呑む。
ハイラントまでの道のりさえ気の遠くなるような長さに感じたユニスにとって、バラキアの帝都など想像もつかない距離にある。彼らはそれほどの遠方から進軍しているのだ。
「……何故わざわざこんなにも遠くまで、彼らはやってくるのでしょう」
「もともとは豊かな土地を求めたからでしょう。今でこそ征服した土地から得られる莫大な税収や、大陸の統一が目的になったようではありますが」
バラキアは草原の民である。その土地は貧しく、実りは少ない。豊穣の地を求めて、彼らは挙兵したのだ。
「でもそれで他国を征服するなど、間違っています」
ユニスが眉を寄せると、レオニダスは苦く笑った。
「この世に、真実正義を標榜できる国などあるのでしょうか」
そう言って、地図の北方を指し示した。
「アスティリアもまた、北の大地から逃れてきた民によって建国されたのですから」
開祖アステアは、もともとは大陸最北の地から来たと言い伝えられている。飢饉に見舞われ、新しい土地を求めて民を引き連れ南下したのだ。
実際周囲の国と比べると、この国の人々は色素の薄い者が多い。アスティリアの民が北方出身と言われる所以である。
原始の森で天啓を受けたアステアは、この国を建国したと言われている。
「建国に際しては、土地を巡って戦が起きています」
領土争いに勝利して、アステアはこの地に国を興したのである。故にこの国の歴史にも負の側面は存在すると、レオニダスは言う。
ユニスは何も言えずに、黙り込んだ。先程自身が口にした言葉が、綺麗事のように感じたからだ。
「正しさなどというものは、その者の立場によって変わります。例えばバラキアに征服された民の中には、そのことを喜んでいる者もいるのです」
「……それは何故です?」
ユニスは訝しげに首を傾げた。
「征服前の暮らしより、バラキアの統治の方がまだましだという場合があるからです。そもそもが貧困に喘いでいた国などはバラキア帝国によって交易が栄え、以前より暮らし向きが良くなったとも聞きます」
バラキアは征服した土地の全てで略奪の限りを尽くす、というわけではないらしい。そう言った例も存在するが、それらは牽制の為だろうとレオニダスは言う。
「バラキアが時として異常なまでの殺戮を行うのは、歯向かえばこうなるという見せしめです。彼らの真の狙いは征服した土地を統治し、そこから税収を得ることでしょう」
決してその土地の人々を根絶やしにしようとはしていないと、レオニダスは説明した。
「ですが恭順を示した国であっても、重税に苦しんでいると聞きました」
イグナーツの言葉である。ユニスの言葉に、レオニダスは頷いた。
「確かにバラキアの税は重く、その要求を拒めば容赦がない。しかし同時に実力主義の国でもある。属領民であっても優秀な人材であれば登用し、要職につかせる懐の深さもあるのです」
バラキアは西方の国々と比べて階級意識が薄いのだという。
「無論、特権階級というものは存在するようですが、同時に実力がなければ侮られる文化でもあるようです。遠征軍を指揮している第一皇子の側近も、平民出身だとか」
レオニダスの語るバラキア帝国は、これまでユニスが抱いていた印象とは少し違っていた。暴虐の限りを尽くす血に飢えた国だとばかり思っていたが、必ずしもそれだけではないらしい。彼らには彼らの理屈があると、レオニダスは伝えたいようだった。
レオニダスの話しぶりを聞きながら、ユニスは気になった疑問を口にした。
「ならばレオニダス翁は、バラキア帝国に降伏するべきだと思われますか?」
「いいえ」
レオニダスはきっぱりと首を振った。
「私はこの国を愛しています。この国に暮らす人々や文化、その歴史も。バラキアに屈すれば、我が国の言葉は失われ、属領地として多くを奪われます」
我々には我々の正義がある、とレオニダスは語気を強めた。
「……勝てるのでしょうか」
不安げなユニスの呟きに、「わかりません」とレオニダスは視線を落とした。
「既知の敵ならば、その戦力を予測できます。この国は長きにわたり、周辺国と戦を続けてきましたから。しかしバラキアは完全に未知の敵です。戦術も兵力も謎が多い。私も話に聞くのみで、実際にその戦いぶりを見たことはありません」
バラキア帝国を相手取り、勝利した国はない。
「ですから、ルディウスはこの国を守る為に必死なのですよ」
静かな声音で告げられ、ユニスはきゅっと唇を引き結んだ。
その日の夜。
正餐室で夕食をとりながら、ユニスは気落ちしていた。何に対する落胆かと言えば、ルディウスの不在に動揺し、心細さを感じている自分自身にであった。
レオニダスの話を聞き、ルディウスの背負う重責を再確認すれば、己の不甲斐なさを自覚せずにはいられない。
ぼうっとユニスは、いつもルディウスが座る席を眺めた。ルディウスのいない部屋は、灯りが消えてしまったように寒々しい。
――まだ、一日目。
ひとり食卓に座り、ユニスは内心茫然とする。
自分はこんなにも、弱い人間だったのだろうか?
――平気だと思っていたのに。
たったひと月を過ごすくらい、耐えられると。7年もの間、王宮の居室で過ごしてきたのだ。それと比べれば一ヶ月などすぐだろうと、そう思っていたのである。
ましてや今の自分は閉じ込められているわけではない。居室の外に自由に行き来でき、話し相手もいる。もしユニスが寂しいと口にすれば、誰もが親身になってくれるに違いない。
皆優しく、大好きな人ばかり。
――なのに、どうして。
なのに何故、こんなにも寂しいのだろう。
「殿下?」
ユニスの手が止まっているの見て、壁際に控えるテレサが心配そうに声をかける。ユニスは慌てて、首を振った。
「ごめんなさい。少しぼんやりしていたみたい」
ユニスは笑みを作ると、スープを口に運ぶ。いつもは美味しいはずのスープが、今日はひどく味気なく感じた。砂を噛むような食事をなんとか終えると、ユニスは早々に席を立つ。
こんな日は早く寝てしまった方が良いと、そう思ったのである。
正餐室から回廊に出ると、夜風がユニスの頬を撫でる。
二階から中庭を見下ろして、ユニスは切なくなった。ついこの間、あの場所でルディウスと過ごしていたのに。
そこかしこにルディウスとの思い出ができてしまった。中庭にも、城塔にも。
ルディウスのいない城。
それだけで見える景色がどこか物悲しく映るのは、自分の気持ちが影響しているからだろう。
――これから、ひと月。
ルディウスがいない日々をどう過ごそうかと、ユニスはひっそりと嘆息した。




