翠烏
ルディウスの出立は、それから十日後に決まった。
国内とはいえ、準備にはそれなりの時間がかかる。工兵と護衛兵の食料、物資と建材。それらの確保には数日では足りない上、ルディウスが一時的に引き受けていた政務の引き継ぎもしなければならない。
「それから、シメオンは城に残すつもりだ」
留守の間はシメオンを頼るようにと、ルディウスはユニスに言った。
「閣下、隊の規模はどの程度になりますか」
横から訊ねたイグナーツに、ルディウスは瞬時に思考を巡らせた後、口を開いた。
「工兵と護衛兵、あわせて四百の隊を編成します。あまり大々的に領地に入れば、諸侯にいらぬ刺激を与えるでしょう。護衛兵も必要最低限の数にするつもりです」
ルディウスに同意をするように、イグナーツが頷いた。
「私もそう思います」
しばらく二人が出立に向けたやり取りをするのを、ユニスは黙って聞いていた。一通りの話が終わった後で、最後にルディウスが口を開いた。
「それから、イグナーツ殿の居室の件なのですが――」
ルディウスが話題を変えると、イグナーツはその先の言葉は不要だと言うように片手をあげる。
「そのことでしたら、私は城外に居を構えるつもりです。ハイラントに向かう道中、以前閣下が住んでいた屋敷が空いていると、ゼノという兵士から聞きましたので。私はそちらを借り受けようかと」
イグナーツの言葉に、ルディウスが頷く。
「実は、同じ事をお願いしようとしておりました」
当然のようにイグナーツが屋敷を借りることで話を進める二人に、隣で聞いていたユニスは、思わず口を挟んでしまう。
「私が部屋を空けます」
本来であればイグナーツが城主用の居室を使うべきなのだ。自分が部屋を移るのが筋だと言ったユニスに、イグナーツは首を振った。
「いいえ、それには及びません。私が城を出る方が都合が良いのですよ」
きっぱりと固辞されて、ユニスは当惑した。ルディウスの方を見れば、彼もイグナーツの言葉に異を唱えるつもりはないようだった。
「ですが本来二階の居住区は、城主が使うためのもののはず……」
王族の特権によって規則を歪めるのは、ユニスの最も嫌うところであった。
尚も己が居室を移るべきだと主張するユニスに、イグナーツは柔和な顔で微笑んだ。
「殿下のそのお気持ちだけ、ありがたく頂戴します。何か誤解をされているようですが、私は何も遠慮してこう申し上げているわけではないのですよ」
と、イグナーツは語り出した。
「ひとつに防衛上の観点から、殿下の居室はこの城内に置いていただく必要がございます。正式に婚姻が成立するまでは、殿下には王位継承権がございますから。今この国において、その身に万一の事があれば国が揺らぐ筆頭はアレス陛下で、次位はユニス殿下です。その自覚を持っていただかねばなりません」
ここまではよろしいですか? とイグナーツから問われ、ユニスは困惑しつつも頷いた。
「つまりこの時点で、ユニス殿下が城外に屋移りするという選択肢はなくなります。では次に、城の中で部屋を変えるという方法を考えてみましょう。城内で寝起きができる場所は、二階にある城主と家族用の居住区域、守備隊の詰所、使用人達の部屋しかございません。そうしますと現実的に殿下の居室として使えるのは、二階の居住区域だけということになりますが、婚約者でもない未婚の男女が目と鼻の先にある部屋で寝起きをするというのは、大いに問題がございます。これがふたつ目の理由です」
水が流れるように滔々と説明するイグナーツに、ユニスは一言も口を挟めない。
「そして最後に、私は女性を部屋から追い出して平然としていられるような、非紳士的な男ではございません」
そう言って、イグナーツは優雅に微笑んだ。ユニスは続く言葉を見つけられずに、イグナーツを見つめたまま黙り込む。
イグナーツのこの笑顔には、相手の反論を封じる力があるのかもしれない。ややあってユニスは息をつくと、口を開いた。
「……話は分かりました。ですが、本当に良いのですか?」
「私に二言はございませんよ」
ユニスは少し考えるようにした後、ひとつ頷いて礼を言った。
「ありがとう」
素直に謝意を示したユニスに、イグナーツは笑みを深める。
やっとハイラントでの生活に慣れてきた所だったので、部屋を変えずにすむのは正直に言ってありがたかった。
イグナーツはユニスとルディウスを交互に見つめた後、――それに、と最後に言い足した。
「殿下とルディウス閣下の婚儀が成れば、おふたりは新居に移られるでしょう。その時こそ、心置きなく城塞に屋移りしますので」
どうぞお気になさいませんよう。そうにこやかに言われて、ユニスは赤面した。
婚儀と新居。
思わず想像してしまい、ユニスは気恥ずかしさに顔を俯ける。その反応を、イグナーツは微笑ましげに眺めていた。
その後、イグナーツは宣言通り城外に居を構えると、日中の政務をこなした後はそこで寝泊まりするようになった。
イグナーツが来てから一週間後。
ユニスは自身の居室で、ようやく完成した刺繍をしげしげと眺めていた。
「間に合って良かった」
ほっと胸をなでおろしたユニスに、見守っていたテレサも笑顔になる。ルディウスの出立までに完成させようと、ユニスがこのところ根を詰めていたのを知っているだけに、テレサは自分のことのように嬉しげだ。
「きっと閣下も喜ばれますよ」
にこにことそう言ったテレサに、ユニスも笑みを返す。
「テレサ、ずっとつきあってくれてありがとう」
ユニスの腕が未熟なのもあって、練習期間も含めると2ヶ月近くもかかってしまった。その間テレサは根気強くユニスにつきあってくれたのだ。
「私は何もしておりません。頑張られたのは殿下ではありませんか」
二人で微笑みあった後で、ユニスは再び手元に視線を落とす。
青と緑の鮮やかな図案。月桂樹の周りを、青い小鳥が二羽飛び回っている。
ユニスが一針一針、心を込めて刺したものである。職人のような精緻さはないものの、作り手の努力が分かる丁寧な仕上がりだった。
完成した刺繍を眺めていると、晴れやかな気持ちが湧き上がって、ユニスは嬉しくなった。
無から有を生み出す。
誰かの為にひとつの物を作り上げるというのは、ユニスには初めての経験だった。かつて手習いで何かを作ったことはあるが、それはあくまでも習作に過ぎず、思い入れや特別な感情はなかった。
大切な人の為に作るものとは、こんなにも気持ちが違うのだ。
ルディウスは喜んでくれるだろうか。想像すると不安な気持ちが半分、早く見せたい気持ちが半分で、浮足立って落ち着かない。
――どうか喜んでもらえますように。
ユニスはそっと、ハンカチを抱いて願いを込めた。
その日の夕食後、ユニスはルディウスを誘って庭に出た。いつも二人が使っている長椅子に腰を下ろすと、ユニスは刺繍入りのハンカチの入った包み差し出す。
「……これ、ルディウスに」
ルディウスはわずかに驚いた顔をした後、礼を言って受け取った。
ルディウスは丁寧な手つきで亜麻布でできた包みを開けると、中のハンカチを手に取った。
その様子を見守るユニスの方は、張り詰めた表情で息を止めている。緊張でどうにかなってしまいそうだった。
「この刺繍は、ユニスが?」
聞かれて、ユニスはこくんと頷いた。
ハンカチに施された刺繍をじっと見つめながら、ルディウスは目元を緩めた。
「翠烏だ」
幸福を呼ぶ青い鳥。
そこに込められた意味も、ルディウスは分かっているようだった。
――貴方が無事に帰って来られますように。
その祈りは、ユニスの心からのものだ。
「ありがとう。大切に使う」
真っ直ぐにユニスを見つめて、ルディウスは真摯な声で言う。
心から嬉しそうな顔をされて、ユニスもまた喜びに胸が満たされる。少年のように破顔されると、ユニスの胸は高鳴った。
ルディウスがこんな表情をするなんて、これまで知らなかった。心が浮き立って、同時にきゅうと苦しくもなる。
「気に入ってくれて良かった」
はにかんだユニスに、ルディウスはふと何かに気づいた顔になった。すっとルディウスの身体がユニスの方へ寄る。
「――揃いなのか」
ユニスの髪飾りへ顔を近づけて、ルディウスは呟いた。ユニスの白金の髪には、翠烏の飾りがついている。以前城下に降りた際、ユニスの為にとルディウスが買い求めたものだ。
ルディウスの首筋が目の前にあって、ユニスの心臓はトクトクと早鐘を打った。こうして間近に見ると、自分とは身体のつくりがまるで違う。逞しい大人の男性なのだと、意識せざるを得なかった。
「買ってもらった髪飾りをもとに、図案を考えたの」
「そうだったのか」
改めて髪飾りの礼を言うと、ルディウスは目を細めた。
「必ず、無事に帰る」
静寂が包む夜。
二人のささやかなひと時を、月が淡く照らし出している。ユニスがハイラントに来て2ヶ月が経とうという、初夏のことだった。




