バラキア帝国
翌日、ルディウスはシメオンと共にファリオンの逗留する宿を訪れた。
ファリオンが泊まっているのは、ハイラントで一、二を争う格式を誇る旅宿である。
2階の角部屋をノックすると、老従者が顔を出す。彼はルディウスを認めて、うやうやしく頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました」
案内されて奥の部屋へと足を踏み入れると、椅子に座っていたファリオンが顔を上げる。
その対面に揃って腰を下ろすと、ファリオンが口を開いた。
「閣下とシメオン殿にわざわざご足労いただき、申し訳ありません」
「いえ、我々も昨日の話を詳しく聞かせていただきたかったですから」
ルディウスが穏やかに告げると、隣のシメオンが身を乗り出すようにした。
「ラザロス殿下の屋敷に出入りしている人間が、バラキアの人間だということでしたが……」
本題から切り出したシメオンに、ファリオンは頷きを返す。
「以前からラザロス殿下の動向は探っていたのです。今も私の手の者を、ラザロス殿下の近くに潜り込ませております。その者の話によれば、確かにラザロス殿下が接触しているのは、バラキア帝国の人間です」
話を聞きながら、いくつもの疑問がルディウスの胸に浮かんだ。昨日の話を聞いた後ではファリオンを信じたい気持ちはあるが、根拠もなく全ての言葉を鵜呑みにはできない。
「証拠はあるのですか?」
訊ねると、ファリオンはすっとテーブルの上に一枚の紙片を置いた。ルディウスはそれを手に取ると、ざっと中身に目を通す。
「これは?」
「ラザロス殿下の屋敷に出入りしている商人と商会の名前です。お調べになってください。表向きは大陸中を渡り歩く交易商ですが、裏についているのはバラキア帝国です」
ルディウスは紙片を折りたたんで胸元にしまうと、続く質問を口にした。
「ラザロス殿下を探っていたというのは何故です?」
その理由がルディウスには分からない。ルディウスの疑問に対して、ファリオンは別の問いを返してきた。
「閣下はラザロス殿下がユニス殿下に懸想していることはご存知ですか」
以前、アレスから聞いた話である。ルディウスは首肯した。
「ええ」
その話がファリオンがラザロスを探っていた理由とどう繋がるのだろう。ルディウスが目線で問うと、ファリオンは説明を補足した。
「10年程前に、一部の貴族の間で噂になったのです」
「噂?」
「当時、ラザロス殿下が先王にユニス殿下との婚姻を願い出た、という噂です」
ファリオンの口にした話の異様さに、ルディウスは眉を顰めた。10年前と言えば、ユニスは7歳ではないか。
「その噂が事実だと?」
「ええ。噂自体はすぐに立ち消えましたが、当時私はラザロス殿下本人の口から聞きましたので、間違いありません」
そう言って、ファリオンは語り出した。
10年前、上位貴族の間でラザロスが玉座を狙っているのではないかという憶測が飛び交ったのだと。
――ラザロス殿下はユニス殿下を娶り、アレス殿下と対立するつもりではないか。
そのような話がまことしやかに囁かれたのである。
根拠になったのは、ラザロスがユニスとの結婚をキーランに願い出たという噂だった。
ユニスの血筋の良さは、国で並ぶ者がいない。もしもそれが事実であれば、ラザロスはユニスを手に入れて、アレスの対抗馬として名乗りをあげる気ではないか。そんな話が、一部の貴族の間で広まったのである。
婚姻の申し出が事実であれば、その行動には何か意図があるはず。7歳の子供との婚姻を望むなど、野心や策略以外にありえないと、普通はそう考える。
――ラザロス殿下は見た目に反して、なかなか野心家と見える。
話を聞いた者は、こぞってそのような事を口にした。
当時18歳のラザロスは、外見は線の細い、繊細そうな若者であった。実際幼い頃は病弱で、武芸よりも音楽や芸術を好む少年であったという。
茶に近い金髪を緩く三つ編みにした秀麗な顔立ちも、繊細という印象を際立たせるのに一役買っていた。
武を尊ぶアスティリアにあって、軟弱と評される事もあったラザロスだが、この一件でその胸の内に相当な野心を秘めているのではないかと見る向きが強くなったのである。
そうした周囲の声に対して、ファリオン自身は懐疑的であった。
ラザロスの婚約の申し出は計算や打算ではなく、もっと情動的なものではないかと思ったからだ。それはかつてキーランにリディアを奪われたファリオンだからこそ感じた、経験から導かれた直感とも言うべきものだった。
故に王宮で開かれた夜会でラザロスの姿を見つけた時、ファリオンはこの若者とどうしても話をしたくなったのだ。
ファリオンが近づいた時、ラザロスは既にかなり酔っているようだった。
『それ以上は、お身体に障りますよ』
ラザロスが一人になったのを見計らって、ファリオンは声をかけた。
『放っておいてもらおう』
ファリオンを一瞥した後、ラザロスは再び酒に口をつける。それを見つめながら、ファリオンは口元に笑みを浮かべた。
『――そのような酒の飲まれ方をするのは、あの噂が関係しているのでしょうか』
ことさら面白がるような口調で言うと、訝しげな視線が返ってきた。
『噂だと?』
『ユニス殿下との結婚を願い出たそうではないですか。7歳の王女殿下を政治の道具となさるなど、殿下もなかなかお人が悪い』
結婚の申し出をさも事実であるかのように語ったファリオンに対して、ラザロスは否定しなかった。
『政治の道具?』
ファリオンはいっそう怪訝そうな顔になる。
『政略的にユニス殿下を娶るおつもりなのでしょう?』
貴族達の考えをそのまま口にすれば、ファリオンは苛立たしげに酒を煽った。
『私の純粋な想いを、陛下はまるで理解しておられないのだ……!』
不機嫌な顔で、ラザロスは吐き捨てた。
『純粋な想い?』
無意識に、ファリオンは眉を寄せた。
――子供相手に、何を言っているのだ。
そうしたファリオンの考えは、顔に出ていたのだろう。ラザロスは苛々とした様子で首を振った。
『誤解をするな。私は子供が好きなわけではない。ユニスは特別なのだ』
『ですがユニス殿下はまだ7歳でしょう』
『――それの、どこに問題が?』
心底不思議そうなラザロスの声音に、ファリオンは言葉に詰まる。
続く言葉に非難の色が出ないようにするには、かなりの努力を必要とした。
『まだ色恋も分からない子供でしょう』
『あれが、ただの子供に見えるのか?』
ラザロスは薄く笑って、唇を歪めた。物わかりの悪い人間に理解させるように、ラザロスはゆっくりと言葉を紡ぐ。
『ユニスは選ばれた娘だ。あの美しさは、神が作り給うたものだ』
どこか陶酔するようなラザロスの口調に、ファリオンはぞっとした。
『この国で最も高貴な者同士が結ばれることこそが、神の御心にかなうとは思わないか』
冗談かと思ったが、ラザロスは至極真面目な顔をしている。
ユニスとの婚姻を願い出たその動機が王位を狙う野心だというなら、まだ理解できた。
だが18歳の青年が7歳の子供を娶るその理由が恋情であるというなら、その異常さに彼は気づいていないのか?
そう思った時、ファリオンは戦慄を覚えた。この男は、年端もいかぬ少女との結婚を本気で夢想しているのだと。
「ラザロス殿下の表情を見た時、私は先王と同じだと思いました」
キーランがリディアに対して見せた執着と同じだと、ファリオンは感じたのである。
「それ以来、私はラザロス殿下の動向に注意を払ってきました」
――リディアの時と同じ失敗を、繰り返さぬように。
そう呟いたファリオンに、何故とルディウスは尚も訊ねた。
「――何故、デュカリス卿がそこまでするのですか」
ユニスはリディアではない。それはファリオン自身が、昨日語っていたことである。
ルディウスの疑問に、ファリオンは苦く笑った。
「閣下、貴方なら放っておくことができますか? 最愛の女性が命と引き換えに産んだ子が、彼女と同じ目に遭おうとしているのに」
逆に問われて、ルディウスはその瞳を見つめ返した。
その言葉に嘘はないというように、ファリオンの態度は落ち着いたものである。
「私の話の全てを、今すぐに信じてもらえるとは思っておりません。ですからどうか調べて下さい。アレス陛下にもハイラントに来る前、同じ話をお伝えしました」
そう言って、ファリオンは口を閉ざす。
ルディウスはひとつ息をつくと、再びファリオンの方を見た。
「お話は分かりました。情報提供に感謝致します」
そう礼を言って、頭を下げる。シメオンと共に立ち上がると、部屋を出る直前、ファリオンから声がかかった。
「お気をつけ下さい。嫉妬に狂った人間というのは、何をするか分からないものです」
真剣味を帯びた声に、ルディウスもまた真面目な顔で頷いた。
「心しておきましょう」
退出の挨拶を口にして、シメオンとともに部屋を出る。宿から少し離れた所で、シメオンが口を開いた。
「先程の話、閣下はどう思われますか。本当にバラキアの人間だと?」
「今の話だけでは判断ができないが、調べてみる価値はある」
ファリオンが告げたのは、ルディウス達もまだ掴んでいない情報だった。ラザロスの屋敷に異国の商人が出入りしていることは分かっていたが、その正体までは判明していなかったのである。
「しかし、本当なら相当に厄介ですね」
呟いたシメオンの顔は厳しい。
バラキア帝国は、この十数年で急速に版図を広げた国である。
大陸の遥か東に興ったこの国は、元々は草原に住む少部族に過ぎなかった。それをたった一代で周辺部族を統一し、一大勢力を築いたのが今の皇帝である。
バラキア人は騎馬技術に長けた民族で、戦においてはその機動力を最大の武器としている。生まれた時から馬に乗っているような男達が、そのまま兵士となっているのだ。
訓練して馬術を学ぶアスティリアの軍人とは、はっきり言って練度が違う。凄まじいまでの機動力を前に、バラキア帝国に滅ぼされた国の数は、既に十を超える。
まだアスティリアの周辺国でバラキアの侵攻が及んだ国はないが、それも時間の問題と言えた。
「バラキアはラザロス殿下の手に負える国ではないでしょう。よもや国を売るおつもりなのでしょうか」
シメオンの口調は苦々しい。ルディウスは腕を組むと、考え込む顔になった。
ラザロスが何を思ってバラキアに接触しているのかは不明だが、シメオンの言うとおり、バラキアは思い通りに動かせるような相手ではないだろう。
そんな判断もつかぬ程周りが見えなくなっているのか、はたまたバラキアを利用する自信があるのか。
ルディウスは頭を悩ませる。
バラキアがこの国を狙っているのなら、利用されているのはラザロスの方かもしれない。
「ラザロス殿下の意図は分からないが、今のうちにバラキアの動向を掴めたことは、我々にとっては僥倖かもしれない」
ルディウスの言葉に、シメオンも同意するように頷いた。
「アレス陛下はどうなさるおつもりでしょう。ラザロス殿下を処罰されるでしょうか」
「分からない。だが今ラザロス殿下を処刑すれば、バラキア帝国の動きが掴めなくなるのも事実だ」
バラキア帝国と通じていることが事実なら、ラザロスを排除する十分な理由になる。だが一方で、ラザロスはバラキアの動向を探るための数少ない糸口ともいえた。
敵の情報を得る機会など、そうそうあるものではない。
兵の数、質ともにバラキアはアスティリアを上回る。まともに対峙しては、まず勝てない戦力差。この差を埋める為の、ラザロスは貴重な情報源になるかもしれない。
事態は国内の政争から、がらりと様相を変えはじめている。
「いずれにせよ、アレス陛下の判断を仰ぐ他ないだろう」
ラザロスを泳がせるか、首を刎ねるか。アレスの決断次第だ。
「ユニス殿下も随分と厄介な方から好かれているものですね」
シメオンは同情的な口調になった。
その言葉に、ルディウスは先程のファリオンの話を思い出す。
ラザロスは10年も前からユニスに対して、執着を見せていたという。ユニスの非凡な容姿は、彼女に平穏よりも、禍をもたらすのかもしれない。
「……守るさ」
ラザロスには、渡さない。
独り言のように呟いた言葉だったが、シメオンの耳には届いたようだった。静かな決意が秘められた声に、シメオンは優しげな顔になる。
「閣下は、なかなか過保護でいらっしゃる」
「俺が?」
意外な事を聞いたというようにルディウスが聞き返すと、シメオンの方も目を瞬かせた。
「自覚がおありではなかったんですか? 昨日も謁見中にユニス殿下を支えてらしたし、その後も居室まで殿下を抱きかかえて行かれたそうじゃないですか」
「それは彼女の具合が悪そうだったからだろう」
昨日は顔色の悪いユニスが心配で、謁見の間からルディウスが抱きかかえて居室まで運んだのである。
広間の前に待機していた兵士達から、好奇と驚きの入り混じった視線を一斉に浴びたので、おそらく彼らがシメオンに話したのだろう。
「普段の閣下からは想像できない姿だったと、兵士達が騒いでいましたよ」
「やましい事は一切ない」
実際ユニスの体調が心配だった故の行動である。冷静にルディウスが返すと、シメオンは面白がる顔になる。
「ユニス殿下も男に免疫なんてないでしょうに。横抱きなんて、今頃動揺しているんじゃないですか?」
罪作りですねぇと、からかいを含んだ声で言われて、ルディウスは静かに首を振った。
「それはないだろう」
ルディウスの行動に対して、ユニスは別段意識などしないだろう。
そもそもルディウスの行動に他意があるかどうか、考えてみることさえないのではないか。同じ年頃の少女と比べて、ユニスはそういった事柄に疎いように感じるのだ。
即答したルディウスに、シメオンは肩をすくめた。
「無自覚とは、意外とたちが悪いですね」
シメオンの指摘に、ルディウスは怪訝そうな顔になる。たちが悪いと言われるような事をした覚えはなかったからだ。
「本当に他意はないし、過保護にしているつもりもない」
そう言って、ゆるゆると首を振る。
むしろできる限りユニスの精神的な自立を応援したいと、ルディウスは思っている。過去と向き合い、自身を変えようと懸命なユニスの気持ちを大切にしたいのだ。
だから、狭い世界に閉じ込めておきたいとは思わない。彼女が自身の世界を広げてゆくのを見守り、支えたいとそう思う。
ルディウスの理性的な部分は、確かにそう考えているにもかかわらず、シメオンの目に過保護に映るのならば、それは理性ではない感情の部分が影響しているに違いなかった。
ルディウスがユニスに対して抱く特別な感情が、そうした理性の声に蓋をしてしまうのだ。
必死に頑張っている姿をみれば、手を差し伸べずにはいられなくなり、彼女を泣かせるものがあれば、それらの一切を排除したいと思ってしまう。視線は無意識にその姿を探し、自身の手の届く場所にいることに安堵する。
ルディウスがユニスに抱いている感情は、同情でもなければ、憐憫でもなかった。
そしてその感情の名が分からない程、ルディウスは鈍感な人間ではない。今やユニスは、主君の妹という以上の存在となっていた。
――大切だから、守りたいのだ。
ラザロスからもバラキアからも、遠ざけておきたい。
ユニスがただ穏やかに笑えるようにと、ルディウスは強くそう願うのだった。




