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18年前(後編)

 ファリオンの表情には、深い悔悟の色がある。その表情を見て、ユニスの胸は波立った。この先の話を聞いてはいけないような、そんな思いに囚われたからだ。

 ファリオンはそんなユニスの表情には気づかなかったように、目線を落としたまま話を続けた。


「先王はこの問題を、対話によってではなく、強行手段に出ることによって解決しようとしたのです」


 2人の切実な嘆願は、むしろ事態を悪化させることになった。

 嫉妬心を煽り立てられたキーランは、リディアとの婚姻を推し進めることに決めたのである。

 王の婚姻には、いくつかの手続きを必要とする。結婚相手の家の承諾と元老院への根回し、大神官長の承認がそれである。

 一つ目については、既にサンダス家から返答を得ている。

 さらにキーランは2人が謁見した翌日には、国教の長たる大神官長に己とリディアとの結婚を認めさせた。元老院への根回しも済ませると、キーランはリディアを王妃とするのに必要な書類を調(ととの)えた。

 謁見の間での出来事から一週間。

 キーランは本人の意志を一切無視したまま、リディアを正式な妻とした。婚姻が成立した当初、その事実を知っていたのは、サンダス公をはじめとするごく一部の人間に限られた。ファリオンはもとより、リディア本人でさえ、自身の婚姻が成立したことを知らなかったのだ。

 そうして全ての手続きが終わった後、キーランはリディアに登城を命じた。


「リディアを城へと呼び出した先王は、人として決して許されぬ、人道にもとる行為に及びました」


 それまで冷静さを保っていたファリオンの声が、わずかに震える。ファリオンの顔色は悪く、見ているこちらが心配になるほど具合が悪そうだった。

 ファリオンは続く言葉を、絞り出すように口にした。


「――あの男は、力ずくでリディアの純潔を奪ったのです」


 キーランをあの男と呼んだファリオンの瞳に宿っていたのは、紛れもない憎悪だった。憎くて憎くてたまらないと、何よりもその瞳が雄弁に語っていた。

 キーランは何も知らないリディアを乱暴し、そして公爵家はその行為を黙認したのである。

 ユニスの顔からは、血の気が完全に引いている。かつてリディアの身に起こった出来事は、ユニスが想像していたものよりも、残酷なものだった。


「私がその事実を知ったのは、リディアが亡くなった後でした」


 リディアの死後、彼女に長年仕えた侍女の口からその事実を聞いたのだという。リディアと共にサンダス家から王家へ移ったこの侍女は、彼女が亡くなるその時まで傍にあり続けたのである。


「あの男はそのままリディアを城から出しませんでした。どれほどリディアが拒んでも、法律上婚姻は成立し、止められる人間はいなかった。リディアの懐妊が分かるまで、そのおぞましい行為は続いたそうです。私は当時、ただリディアを奪われた事実に、打ちのめされていただけでした」


 王城でリディアがどのような目にあっていたのか、ファリオンは知らなかった。もはやリディアは、ファリオンには手の届かぬ存在になっていたからだ。


「……なんてことを」


 ユニスは愕然と呟いた。


 ――そうして生まれた子供が、私なのだ。


 その事実に、心がひどく冷えてゆく。

 愛されて生まれたわけではないと知っていた。そんな幻想を抱いていたわけではなかった。

 そう覚悟していたにもかかわらず、ファリオンの告げたキーランの罪は、ユニスの心を傷つけた。


 ――でも本当に辛かったのは、私ではない。


 心身ともに深く傷つけられたのは母なのだと、ユニスは思う。

 愛する人と引き離され、望まぬ婚姻を強いられ、女性としての尊厳を傷つけられた。

 

「王妃となったリディアの精神は、不安定だったようです」


 急に取り乱したり、泣き出したりということを日に何度も繰り返した。


「そんな状態でしたから、公務も満足にこなせなかった。そうしたリディアに対して、当時心ないことをいう者もおりました。貴族であれば、意に沿わない結婚をするのは当たり前。それをいつまでも泣き暮らし、王妃としての義務を全うできないのは甘えだと」

「そんな……」


 周囲の目には、リディアはそのように映っていたのだろうか。その言葉をまるで自分に言われているかのように、ユニスは辛い気持ちになった。


「そうした周囲の声も、リディアを追いつめていたと思います。そんな頃、リディアの懐妊が判明したのです」


 ファリオンはどこか遠くを見るようにして言った。

 リディアが身籠っている事が分かったのは、婚姻から3ヶ月後のことである。

 自身の事に話が及ぶと、ユニスの顔は更に青白くなった。


「妊娠が分かった時、リディアは安堵していたといいます」

「……安堵?」

「出産するまで王が寝所に来るのを、拒む理由になりますから」

 

 お腹の子にさわるからという理由で、王の要求を拒む事ができるからだ。

 憎むべき相手との間にできた子を、母はどのように思っていたのだろう。


「母は私を――」


 憎んでいたのだろうか。

 そう聞こうとして、けれど言葉は喉の奥に詰まって出てこない。一度口にすれば、それが真実になってしまう気がしたからだ。

 ファリオンはユニスを見て、気遣うような表情になる。ユニスはひとつ息をついてファリオンに頷くと、その先を促した。


「……リディアは産まれてくる子を愛せるだろうかと、ずっと怯えていたそうです」


 自分の子でありながら、この子を愛せるかどうか分からない。普通の母親のようにはできないかもしれないと、リディアは語っていたという。

 話を聞きながらユニスの頭はくらくらして、気分が悪くなった。最後まで話を聞かなければと思うのに、意思に反して足が震える。

 身体の力が抜けて立っていられないと思ったその時、ふっと何かがユニスの背中を支えた。

 耳元に聞こえてきたのは、ルディウスの声だった。


「自分が今どんな顔をしているか分かっているのか。気分が悪ければ、力を抜いて身体を預けていろ」


 少し怒ったように囁いて、ユニスの身を引き寄せる。

 気がつけば、ルディウスの胸に身体を預けるように抱き込まれていた。ユニスが倒れそうになったのを、寸前でルディウスが支えたのである。


「デュカリス卿、申し訳ないがこれ以上は――」


 面会を打ち切ろうとしたルディウスの服を、ユニスはぎゅっと掴んだ。


「お願い。最後まで続けさせて」

「しかし」


 心配そうなルディウスに、ユニスは「お願い」と繰り返した。

 親密な様子で寄り添う二人に、ファリオンは虚をつかれたように目を丸くしている。


「アレス陛下の命で、降嫁が決まったと聞いていましたが……」

「私がその相手です。デュカリス卿」


 今更ながらルディウスが名乗ると、ファリオンは納得したように頷いた。


「そうでしたか。これは失礼を、閣下」


 話を聞きながらユニスは呼吸を整えると、目線をファリオンへと向けた。

 

「デュカリス卿、先を続けて」

  

 ちらっとファリオンはルディウスの方を見て目線で許可を得ると、再び口を開いた。


「妊娠中はリディア自身にも、誕生した子に愛情を向けられるか分からなかったのでしょう。出産後、はじめて殿下を抱きかかえた時、リディアは一言こう呟いたそうです。――あたたかい、と」


 あたたかい。

 ユニスは口の中でその言葉を反芻した。それは、どういう意味だったのだろう。


「リディアは、生まれてきた子を自分の傍から離そうとはしませんでした」


 目の届く範囲に、ユニスを置こうとしていたという。

 その事実に、ユニスの胸には安堵が広がる。少なくとも母から疎まれていたわけではないと思えたからだ。


「ですが出産後、リディアはかなり弱っていました。熱が続いて、寝台から起き上がることもままならなくなった。寝台の上で、遺言のような言葉を口にしていたといいます」


 キーランとユニスと、そしてファリオンに対して。キーランに対しては、リディアは最後まで許しを与えはしなかった。


『――あなたが私から何を奪おうとも、心だけは奪えない』


 死の床にあって、見舞いに訪れたキーランにリディアはそう告げたのだ。リディアの声は弱々しかったが、瞳は異様な光を湛えていた。


『あなたは既に正道を失われた。この世にあなたを罰する者がいなくとも、天は見ておられる。ことわりを失った者に、光が訪れることはない。……心が荒廃した者を、一体誰が愛するというのでしょう。いつかあなたが最期を迎える時、誰にも嘆かれず、悼まれず、安らかな死が訪れることはないでしょう』


 まるで呪詛のような言葉を、リディアはキーランに囁いた。

 それを聞いたキーランは青ざめて、逃げるようにその場を離れると、以降二度とリディアの元を訪れなかったという。


「リディアは殿下に対しては、謝っていたそうです」

「謝る?」


 ファリオンは切なげに視線を落として、頷いた。


「ひとりこの世に残していくことを許してほしい、と。もうその時には、自分の死期が近いことを知っていたのでしょう」


 ――どうか、許して。


 リディアはユニスを抱きながら、泣いていたという。

 

「……では、自殺ではなかった?」

「侍医は産褥熱さんじょくねつによるものだと。私自身、彼女は自ら死を選ぶ人間ではなかったと思います」


 母は生きようとしていたのだろうか。味方のほとんどいない王宮で。

 そう思うと、ユニスの胸は切なくなる。

 ファリオンはひとつ息を吐き出すと、独り言のような呟きをこぼした。


「殿下にリディアの言葉を伝えるのに、17年もかかってしまいました」


 その言葉に、ユニスには思いつく事があった。


「母の遺言を伝える為に、私に会いに?」


 聞けば、ファリオンは静かに頷いた。


「私が姿を見せれば警戒されるのは分かりきっていましたので、どう話せば殿下に信じてもらえるだろうと。殿下の方から話を聞きたいと言っていただけて、助かりました」


 ファリオンは榛色の瞳を、優しげに細める。


「それに一番は自分の為です。ただお会いしたかったのです。殿下はリディアの生き写しだと評判でしたので」

「……それは、母の代わりに?」


 躊躇いがちにユニスが聞くと、どうでしょうと、ファリオンは呟いた。


「確かにここに来る前は、そう思っていた事を否定はしません。殿下にお会いすれば、リディアともう一度会えたような気になるのではないかと、そう期待していなかったと言えば嘘になる。ですが、お会いしてよく分かりました。私にとってリディアは、代わりのきかぬ唯一なのだと。リディアと殿下は顔も声もよく似ていますが、性格は違います。失われたものは、もう二度と手には入らない」


 淡々とした口調が、逆にファリオンの悲しみの深さを物語っているようだった。


「デュカリス卿への遺言というのは――」

「それについては、どうか私の胸の内だけに留めさせていただきたく存じます」


 それ以上の質問を封じるように、ファリオンは口を閉ざす。

 ユニスもそれ以上聞こうとは思わなかった。ファリオンの表情を見て、きっと彼に対する愛の言葉なのだろうと感じたからだ。母は最後まで、ファリオンを愛していただろうから。

 しばらく誰も一言も喋らなかった。沈黙が場を支配した後で、話題を変えるように再び口を開いたのは、ファリオンだった。


「それともう一つ、お伝えしたかった事がございます。――ラザロス殿下の件です」


 思いがけない名前がファリオンの口から出てきたことに、ユニスは身を固くした。

 ユニスの代わりに答えたのは、傍らに立つルディウスだった。


「ラザロス殿下が何か?」


 ファリオンはルディウスへと視線を向ける。


「最近ラザロス殿下の屋敷に、異国の商人が出入りしていることはご存知でしょうか」


 ルディウスはわずかに目をすがめたが、その顔に驚きは見られない。ファリオンは諒解したように頷くと、先を続けた。

 

「では、それがバラキア帝国の人間だというのは?」


 ルディウスとシメオンの顔に緊張が走ったのが、ユニスにも分かった。 

 バラキアという国は、アスティリアの周辺にはない。ユニスは首を傾げた。


「その話をどこで?」


 厳しい声で問いかけたルディウスに、ファリオンの答えは淀みない。


「全てお話する準備はありますが、少々長くなるかと」


 ルディウスは具合の悪そうなユニスの顔を見つめると、ファリオンに告げた。 


「明日、改めて話を聞きに伺っても?」

「かまいません。しばらくハイラントに滞在する予定でしたので」


 話は終わったと思ったのか、退出しようとするファリオンにふと気になってユニスは声をかけた。


「デュカリス卿は、結婚は……」


 訊ねると、ファリオンは首を振った。


「しておりません。爵位は甥が継げば済むことですから」


 ファリオンは苦く笑って、目を伏せる。


「――妻にと望んだ女性は、生涯ただひとりです」


 そう言って、ファリオンは広間を出ていった。シメオンが城門まで見送る為ついて行ったので、その場に残ったのは二人だけになる。

 静かになった部屋で、ルディウスが心配そうにユニスの顔をのぞき込んだ。


「顔色が悪い」

「少し休めば大丈夫。……辛い話だったけれど、聞けてよかった」


 とりわけリディアの話は、聞くことができて良かったとユニスは思う。

 あの話を知らなければ、母は生まれてきた子を厭わしく思っていたのではないかと、ずっとそう思っていただろう。

 ファリオンの語るリディアの姿は、これまでユニスが聞いたことのあるどの話とも違った。――権力に翻弄された、泡沫ほうまつのように儚い悲劇の女性。それが、ユニスが母に対してこれまで抱いていた印象だった。

 だが本来のリディアは、ユニスと同じく笑ったり泣いたりする年相応の少女だったのだ。

 かつて起こった真実を知る事は、ユニスにとっては辛いものではあったが、一方で納得もできてしまった。

 母が父を愛することはなかっただろうと。ファリオンと父では、何もかもが違う。愛の深さも、その表し方も。

 長じるにつれ母そっくりになっていくユニスを見て、父はどのように思っただろう。

 父は決して許されぬ行為をし、実際母は最後まで許しを与えなかった。最後に母が残した言葉は、呪いのように父を縛っていたのかもしれない。

 そこまで考えて、ユニスはぽつりと呟いた。


「私は、お父様のした事を許せない」


 両親がいなければ、己がこの世に生を受ける事はなかった。そうと分かっていても、それでも父の行為は許されないものだった。母に対してした事も、己に対してした事も、ユニスには許す事ができなかった。

 苦しげに吐露された言葉に、ルディウスは回していた腕に力を込めた。


「許さなくていい」


 ユニスの言葉の全てを肯定するように、ルディウスはきっぱりと言い切った。

 ルディウスの体温を感じながら、ユニスは静かに目を閉じる。トクトクと規則的なルディウスの心臓の音を聞いていると、ユニスは安心して、心の平穏を取り戻す事ができた。

 ルディウスの胸に身体を預けるようにもたれながら、ユニスは母が奪われたものに思いを馳せる。最愛の人から、母は無理矢理引き離されたのだ。


 ――もしも今、このぬくもりが失われたら。

 

 想像しただけで、恐ろしかった。

 ルディウスが目の前からいなくなったら、自分はとても耐えられそうにない。想像の恐ろしさに身体が小さく震えて、ルディウスの抱擁が更に強まる。

 ユニスは無意識にルディウスの方に身を寄せた。

 

 ――ずっと、傍にいたい。


 この手を離したくないと、そこまで考えた所で、ふいにユニスは自身がルディウスに寄せる想いの正体に思い至った。己がルディウスに対して抱いている感情は、母がファリオンに向けていたものと同じではないのかと。

 ルディウスと一緒にいると感じる胸の高鳴り。心を揺さぶり、胸が温かさに満たされるそれらの感情は、全て同じ所から来ているのではないか。

 自覚した瞬間、ルディウスの腕の中にいるという事実に、ユニスはひどく動揺した。ぶわっと身体中の体温が上がる。先程まで青白かったはずのユニスの顔は、一瞬にして色づいた。


「ユニス?」


 腕の中で身じろぎしたユニスを、心配そうにルディウスが見つめている。

 ユニスは頬を真っ赤にしたまま、その琥珀色の瞳を途方に暮れたように見上げたのだった。

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