18年前(前編)
ファリオンの表情からは、一見してユニスに対する敵意や悪意は感じられなかった。無論、たとえ胸中に暗い感情を抱えていたとしても、それを表に出すほど迂闊ではないだろう。
最初の挨拶を口にした後は、ファリオンは当たり障りのない話に終始した。そうしながら時折黙り込み、目線はユニスを捉えながらも、心はどこか遠くを向いている。
その表情を見ながら彼は母を思い出しているのではないかと、ユニスは思った。
「……似ていますか」
ユニスの方から水を向けると、ファリオンは不思議そうな顔をした。問うような目線を受けて、ユニスは言い直す。
「母と私は、似ているのでしょうか」
ファリオンは一瞬驚いた顔をした後、首肯した。
「――顔も声も、よく似ておいでです」
懐かしむ声だった。
愛惜の念が滲んだそのたった一言に、ファリオンの母に対する想いが表れているようで、ユニスの胸は苦しくなる。
――彼は、心から母を愛していたのだ。
或いは、今も尚。
「……何故、私に会いたいと?」
ユニスの率直な問いに返ってきたのは、迂遠な答えだった。
「深い理由はございません。領地に帰る途中、殿下にご挨拶をと思い立ったのです」
それが真実であるとは、この場の誰ひとり思っていない。ファリオン自身不審に思われることは分かっているはずだが、ユニスの問いに答えるつもりはないという意思表示かもしれない。
なかなか核心をつかないファリオンに対して、ユニスは自身の目的を優先する事にした。すなわち、18年前の話を聞く、という目的である。
「私も貴方に会いたいと思っていました」
静かな口調で告げたユニスに、ファリオンは少し警戒するように目を細めた。
「理由をお聞きしても?」
「18年前の事を、聞きたかったからです。貴方と母の身に起こったことを、当事者である貴方の口から聞きたかったのです」
そう言うと、ファリオンは意外そうな顔をした。
「……私の語る話は、殿下にとっては不愉快なものかもしれません」
「かまいません。それが、貴方にとっての真実なら」
ファリオンはしばらく考えるようにしていたが、やがて再び口を開いた。
「話の中で、私は不敬な物言いをするかもしれません。事前にお許しいただけるでしょうか」
「ええ」
ユニスが頷くと、ファリオンはちらりとルディウスとシメオンの方を見る。
「この話には、王家の秘事も含まれます。できれば人払いをお願いしたいのですが」
ユニスのすぐそばにいるルディウスが、「ありえない」という顔をした。険しい顔になったルディウスが何かを言うより早く、ユニスがゆるゆると首を振る。
「彼らは私が心から信頼を置いている人達です。どうぞそのまま話して下さい」
ルディウス達を下がらせるつもりがないことを告げると、ファリオンはあっさりと引き下がった。ひとつ頷いて、黙り込む。どこから話せば良いのか考えているようだったが、やがてゆっくりとファリオンは話しはじめた。
「さて、どこからお話すればいいのか……私とリディアの出会いは、今から28年前になります。私は9歳、リディアは7歳でした」
リディア、とファリオンはその名を口にした。妃という言葉を、使いたくなかったのかもしれない。
「サンダス公爵家の庭で、私達は出会いました」
サンダス公爵家に、デュカリス侯爵家の人間が招かれたのだ。表向きは両家の交流という名目が使われたが、内実はファリオンとリディアの顔合わせであった。
「私達の家はどちらも非常に貴族的な家でしたので、子供は政略の駒でしかありませんでした。両親は私とリディアとの婚姻で、家の結びつきを深めようとしたのです」
どちらも名門貴族と呼ばれ、縁を結べば利のある相手。2人は大人達のそうした思惑の元に出会ったのだった。
「私は当時うっすらとその事を分かっていましたが、リディアは全く気がついてはいませんでした。歳の近い遊び相手ができた、という程度にしか思っていなかったでしょう」
くすりと、当時を思い出したようにファリオンが笑う。
「私も子供でしたので、大人達の思惑に乗るのが気に入らないという反発心があって、最初はリディアに冷たく接していたのです」
リディアが散歩に行こうと誘えばそれを断り、本を読んでくれとねだられれば侍女に読んでもらえと突き放した。
「それでもリディアは何度でも私に話しかけてくれました。私の傍に来る時は明るい笑顔を浮かべて、それが冷たい態度をとられて悲しそうな笑みに変わる。自分でやっていたにもかかわらず、次第に罪悪感で胸が苦しくなりました」
何度目かの訪問で、先に折れたのはファリオンの方だった。
両親の強引なやり方に対する反発心を、何も知らないリディアにぶつけるのでは、自分の嫌いな人間達と変わらない。――自分はなんと馬鹿な事をしているのだろう。
自覚した後、ファリオンは何度もリディアに謝罪した。
『じゃあもう冷たくしないと約束して。そうしたら、許してあげる』
幼いリディアはそう言って、ファリオンの愚かな振る舞いを許したのだった。
リディアは基本的に明るい性格をしていたが、寂しがり屋な一面も持っていた。あまり両親の愛情を受けてこなかったせいだろう。リディアはファリオンにだけは弱さを見せ、甘えるようになったのだ。
愛らしい少女から惜しみなく寄せられる信頼と好意。月日を重ねるにつれ、リディアはファリオンの中で大切な存在になっていった。
一緒にいるだけで幸せを感じ、笑顔を見ると心が浮き立つ。そんな相手は、リディアだけだった。
思春期に差し掛かる頃には、ファリオンは己の恋心をはっきりと自覚していたが、まだ2人は正式な婚約関係にはなく、ファリオンは焦っていた。リディアは成長するに従ってどんどん美しくなっていき、その美貌が貴族社会で噂になりはじめていたからだ。
自身が最も有利な立場にあると分かっていても、ファリオンは気が気ではなかった。
幼馴染として仲は良かったが、恋人ではない。自分達の関係は、両家の思惑と時勢次第で容易く切れてしまうものだという自覚もあった。
故にこの頃になるとファリオンは両親に婚約を早めるよう急かすばかりでなく、リディアに対しても、積極的に愛を告げるようになった。
「リディアの心を手に入れようと、私は必死で口説きました」
リディア13歳、ファリオン15歳の時である。会う度に花を贈り、自分の気持ちを口にした。リディアといると幸せなのだと。ずっと傍にいて欲しいのだと。
ファリオンの求婚に対して、リディアは恥ずかしそうにしながらも、はっきりと頷いた。
『私もずっと、ファリオンが好きだったの』
嬉しいと頬を染めるリディアを見て、ファリオンは幸せの絶頂だった。
幼い恋。
互いに初恋であったが、これが最後の恋でいいと思っていた。
そんな2人の間に暗雲が立ち込めたのは、婚約から4年が経ち、ようやく式の準備に入ろうかという矢先の事だった。
デュカリス家に突然、サンダス家から婚約を解消したいという連絡が使者を通してもたらされたのである。
驚いて理由を聞けば、サンダス公爵領にキーラン王が訪れた際、リディアを見初めたのだという。王家からの結婚の打診に、サンダス家としては断る術がなかったのだと、使者は蒼白になりながら謝罪した。
話を聞いたファリオンは動揺し、面子を潰されたデュカリス家の人間は激怒した。
『断れなかったはずがあるまい! どうせ嬉々として結婚の打診を受けたに決まっている!』
ファリオンの父親は使者に向かって激高したが、使者を脅したところでどうにかなるものでもない。
事態を打開する策を考えて数日後がたった頃、リディアから手紙が届いた。
手紙には公爵家が王家の打診を受けたことに対する謝罪と、自分は変わらず今もファリオンを愛している事が記されていた。
『――陛下は私のどこを気に入られたのかわかりません。陛下が領地を訪れた際、私は陛下と言葉を交わす事もなかったのですから。どうか私の心はファリオンだけにあるのだと、信じてください。陛下はおそらく私達の事をよく知らないのだろうと思います。結婚の申し出は単なる気まぐれか、そうでなければ、周囲に押されて家格の釣り合いがとれる娘を選んだだけかもしれません。賢君と言われている方ですから、誠実に説明をすれば今回の申し出を撤回してくださるかもしれません。私はその可能性を信じたいと思います』
リディアの手紙は、そんな言葉で結ばれていた。
「先王は当時公正で寛容な方だと言われておりましたので、私もそのリディアの手紙には納得する部分があったのです」
公正で寛容という言葉に、ユニスは驚きに目を見開いた。二度目の結婚をする前は、キーランは聖人君子とさえ呼ばれていたのだという。
「それは、本当なのですか?」
ユニスが困惑しつつ尋ねると、ファリオンは頷いた。
「ええ。それで私もリディアを諦めずに済むという希望を持てました。そもそも、先王は再婚を望まれてはいなかったのです」
5年前に王妃が亡くなってから独身を続けていたキーランは、当時貴族達から熱心に再婚を勧められていた。直系の男子がアレス一人というのは、何かあった場合に取り返しがつかないのではないかと。
そうした王の再婚を望む声の中には、自分の娘を妃にという打算もあったわけだが、確かに王の子がひとりしかいないという状況は、王家の血統を守るという点では望ましくないとも言えた。
だがリディアとの婚姻話が持ち上がるまでは、キーランは持ち込まれる縁談の一切を切り捨ててていたという。
『新しい妃を迎えれば、それが新たな政争の火種になる。腹違いの兄弟が殺し合いの継承争いをしないとなぜ言える? 自分の子を玉座にと望み、新しい王妃がアレスと対立したら? この国の歴史を振り返れば、楽観的な見方ができるはずがない』
そのように語っていたはずの王に、一体何があったのか。
「私もリディアも動揺していたものの、そこまで事態を悲観していたわけではありませんでした。王は私達が愛し合っていることを知らない。それまでの評判を鑑みれば、きちんと事情を説明すれば、分かってくださるのではないかと思ったのです。幸いにも私達に同情し、力を貸してくださる方もおりました」
その筆頭は、当時14歳だったアレスだった。
『臣下のものを奪うなど、主君として最も愚かな振る舞いだ』
事情を知ったアレスは、幼さの残る顔を苦々しく歪めてそう言った。
『私にできることであれば、できる限り手を尽くそう』
そのような言葉さえあったという。
アレスの協力を得て、リディアが城を訪れる機会に、何とか2人は王への謁見を許された。婚約解消の一報から、既に半月程が経っていた。
王城の謁見の間に並んで平伏しながら、ファリオンとリディアはキーランに嘆願した。
『我がデュカリス家は、長年サンダス家と結婚の約束を結んでおりました。幼い頃より親しく育ち、今はもう誰よりも愛しく大切な存在なのです』
『私達は真実愛し合って婚約を致しました。この度の陛下からのお申し出、どうか考え直してはいただけないでしょうか』
必死に言い募る2人に、上から降ってきたのは冷たい声だった。
『面を上げよ』
顔を上げてキーランと視線があった時、ファリオンは自身の考えの甘さに気づかざるを得なくなった。
キーランの瞳には、リディアに対する明確な執着があったからだ。
『なるほど……2人は恋人同士だと?』
冷酷な声音に、ファリオンは顔を強張らせ、リディアは怯えた顔になる。それでも2人は何とか頷きを返した。
『はい』
『私達は幼い頃より、心から愛し合っております』
どうかお許しくださいと、もう一度深く頭を下げた2人を、この時キーランがどのような顔で見つめていたのか、ファリオンには分からない。
『……話はあいわかった。もう下がってよい』
キーランの声は平坦だった。
退出を命じられ、戸惑いながら2人は謁見の間を後にする。
『少しお怒りのようだったけれど、きっと分かって下さるわよね』
不安な顔で、リディアはファリオンを見つめた。まるで自分に言い聞かせているようだった。
『ああ。少し時間はかかるかもしれないが、きっと理解してくださる』
ファリオン自身あのキーランの瞳を見れば決して楽観的にはなれなかったが、この時はそう言ってリディアを慰めるしかなかったのである。
当時の事を思い出したのか、ファリオンは暗い顔になった。
「あの時、私はやり方を間違えました。――その事を、どれほど後悔したか分かりません」




