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神獣

 ルディウスは肌が粟立つのを感じた。

 白銀の獣は眠るように、瞼を閉じて丸くなっている。隣に立つユニスはその姿を見つめながら、息を殺していた。

 真剣な横顔に、ルディウスの胸を小さな不安がかすめた。

 ユニスにだけ聴こえた呼び声が、自分達をここに導いた。ならば今この時も、ユニスにはその声が聞こえているのではないか。

 何かに呼ばれていると言った時の、ユニスの切羽詰まった顔。心ここにあらずといった様子を思い出して、思わず声をかける。

 

「ユニス」


 呼びかけると、ユニスはぴくりと肩を震わせた。ルディウスの声に反応して、即座に視線が獣から外れる。その瞳がルディウスの所できちんと焦点を結んでいることに、内心で安堵した。

 

「……あれは、神獣?」


 囁くように、ユニスが訊ねる。それは質問というよりも、既知のことを確認しているといった口調だった。自分でも答えは分かっているが、確かめずにはいられないのだろう。

 返答するルディウスも、声を低めた。


「おそらく」


 後方へさっと目線をやれば、守備隊の姿は見えない。ここに辿り着いたのは、どうやらふたりだけであるようだった。

 獣道に足を踏み入れる前に感じた違和感は、どうやら間違いではなかったらしい。

 ルディウスの知る限り、祠から目と鼻の先に、こんな湖は存在しないはずなのだ。10年以上ハイラントで過ごしたルディウスがこの鏡面のような湖を見たのは、これが初めてだった。

 再び眠る獣に目をやると、まどろみから覚めたように、身体がもぞもぞと動いている。しばらくその様子を見つめていると、やがてゆっくりと獣は覚醒した。

 その双眸が見開かれた時、まず驚いたのはその色だった。

 宝石のように鮮やかな紫の瞳。

 自然界においてその瞳の色は、滅多に見ないものだった。

 獣はのっそりと顔を上げると、その視界にユニスを捉える。その時ふいに聴こえてきたのは、人間のような低い声音だった。


『――やっと、帰ってきたのか』

 

 頭の中に響いてきたのは、深い安堵をたたえた声だった。

 獣の口から人語が紡がれた事にルディウスは目を見張ったが、よくみれば口元は動いていない。その声は音として発せられたものではなく、直接頭に響いてきたものだった。

 咄嗟に隣へ視線をやれば、発せられたその言葉に、ユニスはただただ当惑した表情を浮かべている。何を言われているのか分からない、という顔だ。無論ルディウスにも、その言葉の真意は分からなかった。

 白銀の獣は起き上がると、湖に向かって脚を踏み出した。その脚元を見て、ルディウスの視線は釘付けになった。

 湖の上を、獣が歩いている。

 脚を動かすたびに水面が波紋を作るので、確かに歩いているのは水の上なのだと分かった。

 獣は音もなく、こちらに近づいてくる。

 4本足で歩く獣の目線の高さは、ユニスよりは高く、ルディウスよりは低い。体長は人間の3倍ほどはある、狼のような生きものである。

 この時ルディウスは右手を剣の柄にかけながら、どうするべきか逡巡していた。祠に描かれた壁画そのままの姿と湖面を歩くという神業を見れば、あれが神獣であろうと容易に察せられたが、確証はなかったからだ。

 この獣がユニスに近づいてくるのを、黙って見ていていいものだろうか。

 獣は湖を渡りきると、草の上に前脚を下ろす。

 ルディウスは短い思索を終えると、一歩一歩ゆっくりとユニスの方へ向かってくる獣の前に立ちはだかった。柄に手をかけたまま、険しい顔で問いかける。


「非礼を承知でお訊ねする。……貴方は神獣であらせられるのでしょうか」


 そこで初めて、獣はルディウスの存在を認識したようだった。少し不機嫌そうに顔が曇り、威嚇するようにわずかに白銀の毛が逆立った。


『違うと言ったら?』

「ここをお通しするわけにはまいりません」


 丁寧な口調ながら、ルディウスの周囲からほのかな殺気が立ち昇って、剣を抜く体勢に入る。

 ルディウスの本気を見て取って、獣は二人から少し距離のある所で立ち止まった。


『その呼び名は、人間が勝手につけたものに過ぎない』


 ではやはりこの生きものが神獣ということで間違いないのだと、ルディウスは思う。ルディウスはさっと後ろにいるユニスを振り返って、その顔に怯えの色がないことを確認すると、少しの躊躇いの後で神獣の前から立ち位置をずらした。

 もう一度神獣が歩みを進めるのを、今度は静かに見つめる。

 距離が近づいてきた所で、神獣はユニスをまじまじと見つめて、何かに気づいた顔になる。


『……娘、名は?』


 問われて、ユニスは戸惑いながら口を開いた。


「ユニス・アスティリアと申します」


 普段は使わない姓を、ユニスは口にした。

 王家の人間は名字を持たないが、国外に行った際など便宜的にアスティリアと名乗る。初代女王にちなんだこの名前は、国名であると同時に王室の名となっているのだ。

 ユニスが口にした名に、白銀の獣はすっと目を細めた。


『ああ。ではお前は――』


 何かを言いかけて、神獣は続く言葉を止めた。

 そのままじっとユニスの顔を見つめて黙り込む。思考の海に沈んだその表情は、意外にも随分と人間くさいものだった。しばらくして、再び神獣の声が聴こえてきた。


『お前は、この地に来てからまだ日が浅いと見える』


 そう問われ、ユニスは緊張した面持ちで頷いた。

 

「はい。ひと月程前に来たばかりです」


 真面目に答えるユニスに、神獣は質問を投げかけた。


『どこから来た』

「王都から参りました」

『歳は?』

「17です」


 神獣はさらにユニスの方へと寄ると、何かを知ろうとするかのようにその顔を近づける。神獣の毛が頬に触れたのか、ユニスが少しくすぐったそうな顔をした。

 あまりの距離の近さに、ルディウスは神獣を制止したくなる自身の衝動を抑えねばならなった。

 神獣はルディウスに対してはまるで興味を示さない一方で、ユニスに寄せる関心は顕著だった。

 両親の名前やハイラントに来た経緯など、根掘り葉掘り聞き出している。

 ユニスも質問に答えないのは不敬だと思っているのか、答えにくい質問に対しても包み隠さず返答していた。


「あの、私からも一つ質問してよろしいですか?」


 一通りの質問が終わった後で、ユニスは神獣に問いかけた。


『ああ、構わない』

「お名前を伺いたいのですが」

『何?』


 神獣が訝しげな顔をしたため、ユニスが慌てて言い添えた。


「先程神獣というのは人が勝手に名付けたものだとおっしゃっていたので。それなら本来のお名前があるのではと思ったのですが……」

 

 言いながらユニスの声は段々と小さくなり、続く言葉は消え入りそうな音量になった。


「勿論、お嫌でしたら無理に知りたいとは申しません」 

『リドだ』


 全てを言い終わるかどうかという所で答えが返ってきて、ユニスは目を丸くした。

 

「リド様」

『様はいらない。リドと呼べ』


 神獣からそう言われ、ユニスは明らかに戸惑っている。いいのだろうかとちらりとルディウスを見た後で、おずおずと口を開いた。


「……リド?」


 小首を傾げながらユニスがそう呟くと、神獣は満足そうに頷いた。ユニスに名を呼ばせて悦に入るさまなどは、まるで人間のようだ。

 その一連のやり取りを見ながら、ルディウスの胸にもやっとしたものが広がった。


 ――これは、完全に気に入られたな。


 神獣のユニスに対する態度を見れば明らかだ。

 神の遣いに気に入られるという、普通に考えれば喜ばしいことであるにもかかわらず、何故かあまりいい気がしない。

 

「そろそろおいとまを」 

 

 ルディウスが声をかけると、邪魔をするなというように睨まれた。

 ユニスがその言葉に反応して別れの挨拶を口にしたので、神獣はあからさまに残念そうな顔になった。


『ユニス、また此処へ来なさい。歓迎しよう』


 頼んでいるというよりは、半分命じているような口調である。


「はい」


 ユニスが首肯するのを見ながら、神獣は名残惜しげな顔をしている。ルディウスも別れの挨拶を口にして、二人揃って元来た獣道を引き返す。


 祠の裏側に出た時、待っていたのは心配そうな表情の守備隊の面々だった。聞けばルディウス達の後をついて獣道に入ったはずの彼らは、獣道を抜けるとまたもとの地点に戻っていたという。

 何度獣道を通ってもルディウス達のいる場所には辿り着けず、祠の裏手に出てしまう。困った彼らは、獣道の入口で二人が戻ってくるのを待つ事にした。人智を超えた何かが起こったのだとしても、ここは聖域である。この不可解な出来事はきっと神の御業であって、ルディウス達に危険はないだろう――とそう思って。


 ファスに乗って城塞へと向かいながら、ルディウスは息をついた。何故か、妙に疲れた気がする。

 その溜息が聞こえたのか、前に座るユニスが心配そうにルディウスの方を見上げた。


「大丈夫?」


 その気遣うような声音に、ルディウスの目許が緩む。


「ああ、平気だ」

「でもさっきのリドの態度……。ルディウスに対して、冷たかった気がするわ」


 どうやらユニスからしても、神獣のあの態度には思うところがあったらしい。申し訳なさそうな表情を浮かべてしゅんとするユニスに、ルディウスは安心させるように首を振った。


「随分と人間くさい神獣で驚いたが、ユニスが気にすることはない」


 神獣の纏う空気は確かに清廉なものだったが、表情や振る舞いを見れば、あれが神と同格の生きものだとはにわかには信じがたい。ユニスに対して見せる独占欲のような態度は、実に人間らしいものだった。

 意外ではあったが、神獣の振る舞いの一切はユニスのせいではないし、ルディウス自身は冷淡な扱いをされた所で別にどうということはない。

 むしろ神獣のユニスに対する関心の高さの方が、よほど心配である。


「ユニスの方こそ、俺がいない時に神獣に会いに行かないと約束してくれないか」


 そう言うと、ユニスは躊躇いなく頷いた。

 

「ええ」


 その様子を見て、ルディウスはほっと表情を和らげた。


 城塞へ帰り着くと、シメオンが城の前で二人を待っていた。普段は陽気なこの男の顔に、珍しく影が射している。その厳しい表情に、即座に何かがあったことを察して、ルディウスは口を開いた。


「シメオン、どうした?」


 問いかければ、シメオンが馬上の二人に顔を向けた。

 

「デュカリス侯爵がユニス殿下に拝謁したいと、先程門番を通して連絡がありました」


 その名に、ルディウスの表情は一瞬にして険しくなった。

 ファリオン・デュカリス。

 シメオンが告げたのは、ユニスの母親のかつての婚約者だった男の名前だった。

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