呼び声
それからの日々を、ユニスは忙しく過ごしていた。学ぶべきことは、あまりにも多い。
長きにわたるこの国の歴史と人々の暮らし。周辺国との関係や王族としての心構え。ふさわしい立ち居振る舞い。
ルディウスは慎重にユニスが師事する人間を選別し、最終的に数名が城へと招かれた。
7年間の空白を埋めようと、ユニスは懸命だった。熱心な姿勢は教師にとっては理想の教え子と言ってさしつかえなかったが、その表情はまるで何かに追い立てられているかのようでもあった。
それこそ周囲が止めなければ、一日中机に向かっている。夜中、寝台にまで書物を持ち込もうとするのを、慌ててテレサが止めるという具合であった。ユニス自身周囲の心配は理解していたが、自重できていたとは言いがたい。
――私は、一を聞いて十を知るような人間ではない。
その自覚があれば、時間はいくらあっても足りなかった。人より努力をしなければ、何かを身につけることなどできはしないのだ。
そんな生活をしていたから、ハイラントへ来た日にルディウスと交わした約束を果たせないまま、時が過ぎていた。
生活が落ち着いたら神獣の森へ行こうという、あの約束である。
ようやく森を訪れる機会がやってきたのは、ユニスがハイラントに来てから、ひと月が経とうという頃だった。
「ファスと会うのも、久しぶりね」
そう言ったユニスの声は、弾んでいた。
ルディウスの前に座り、ファスに語りかけるユニスは楽しげだ。ルディウスはユニスが落ちないよう身体を支えながら、器用に手綱を握る。
「最近のユニスは根を詰め過ぎだと、テレサが心配していた」
「……無理はしてないわ」
言い訳のように呟くと、後ろでルディウスが苦笑する気配がある。
「焦る必要はないのに」
ゆっくり進めばいい、とルディウスは言う。ユニスはどう説明すべきか考えながら口を開いた。
「……安心するの」
「安心?」
不思議そうなルディウスの声に、ユニスは小さく頷いた。
「私にもやるべき事やできる事があると思うと、安心するの。王女として何ができるのかまだわからないけれど、今学んでいることはそれに繋がっているでしょう?」
少しでも早く成長したいと思うから、費やした時間の分だけ安心するのだ。もっと頑張れば、その分早く成長できるかもしれない。
外からみれば、そんなに急ぐ必要はないと思われるのかもしれない。けれどユニスにとっては、とても大切なことだった。
「ユニスが頑張ろうとするのは、この国の民にとっては喜ばしいことだろうが……。俺個人としては、もっと気楽に考えてくれたらと思うよ」
「頑張らないと、全然追いつけないもの」
「何に?」
「……周りが期待する姿に」
自分は天才でもなければ秀才でもない。だから人より努力するのは、当然のことだ。そう言うと、心なしかユニスを支える腕の力が強まった気がした。
「そういう風に考えるのはユニスの良さだと思うが、一人で何もかも背負う必要はない。もっと我儘を言ってくれていい」
ユニスはなかなか甘やかさせてはくれないな、とルディウスがこぼす。ため息混じりの口調に、ユニスはルディウスの顔を見上げた。
「……甘やかしたいの?」
「甘やかしたいよ」
予想外に即答が返ってきて、ユニスは頬を染めた。ユニスは恥ずかしそうに顔を俯ける。
――ルディウスは十分甘やかしていると思うけれど。
いつだってユニスを励まし、支えてくれている。温かい言葉をくれ、今日もユニスとの約束を果たす為に時間を作ってくれた。
だがルディウスの口ぶりからすると、彼の言う「甘やかしたい」には、それでもまだ足りないらしい。
――今より甘やかすって……?
これ以上は、想像が及ばない。
考えるとますます顔が熱くなってきて、森の入口につくまで、ユニスは顔を上げることができなかった。
森は、街の城壁から馬で四半刻程の距離にある。
樹齢300年を超すブナの大木が何本も生えている。太古から変わらぬ鬱蒼とした原生林が、北にそびえる山の麓まで広がっているのだ。
城壁の外に出ることもあって今日は守備隊の人間が5人、ユニス達に随行している。入口にある木の幹に馬をつなぐと、一同は森の中へと入っていった。
一歩足を踏み入れた時、空気が少し変わった気がした。鋭いほどに清廉な気配。
ユニスは森の木々を見上げて、瞼を閉じる。
初めてこの森を目にした時の、懐かしいという感覚は、どうやら錯覚ではなかったらしい。何故かずっと昔から、この場所を知っているような気がする。
「空気が違うだろう」
隣に立つルディウスの問いかけに、ユニスはゆっくりと目を開けた。
「ええ。とても澄んでいる」
混じり気のない、清浄な空気。ここにいると、とても心が落ち着く。
森の入口からは石畳が続いていた。その先には、神獣を祀るための祠があるという。
人が訪れる事を想定しているのだろう。石畳の周囲は木々の枝が払ってあり、ユニスでも問題なく歩くことができた。
辿り着いたのは、石造りの小さな祠だった。数人入ればいっぱいになってしまうような小堂である。正面に祭壇があり、左右の壁には壁画が描かれている。絵の中に白い狼に似た生きものを見つけて、ユニスは声をあげた。
「これは、神獣?」
訊ねると、ルディウスが頷いた。
「ああ。この祠が祀っているのも、この神獣だ」
つまり神話では、この神獣が王家の始祖ということになる。
ユニスは祭壇前で膝を折ると、目を閉じた。無事に旅を終えられたこと、ハイラントでの穏やかな生活を神々に感謝する。ルディウスもそれにならい、ユニスの隣で膝を折った。
ユニスの耳に小さな声が聴こえてきたのは、一心に祈りを捧げている最中だった。
――へ。
驚いて顔を上げる。ユニスは後ろを振り返ったが、守備隊の兵士以外は誰もいない。聞き間違いかと思って再び目を閉じると、また声が聴こえてきた。耳を澄ませていなければ聞き取れないような、微かな声だ。
――此処へ。
それは、呼び声だった。
ルディウスがユニスの様子に気づいて、顔を上げる。
「ユニス?」
「……今、声が」
ユニスは茫然と呟くと、もう一度周囲を見回した。しかしやはり、声の主の姿はない。
だが確かに聞こえた。
声のした方向を探してユニスは堂の外に出る。周囲をうろうろとしていると、祠の裏側に小さな道があるのを見つけた。
入口は木々の葉が生い茂り、パッと見ただけでは道があるとは気づかない。しかし近づくと、人が一人通れるような細い獣道が奥に続いているのが分かった。
直感的に声はあの先から聴こえてくると、ユニスは思った。
「ここに道が」
ユニスが獣道の方を指すと、ルディウスは怪訝そうな顔になる。
「こんな所に道はなかったはずだが」
「……呼ばれているの」
焦燥感に駆られて、ユニスはそう言った。
あの声は、自分を呼んでいる。そう思えてならなかった。
ルディウスが咄嗟にユニスの手をとると、ユニスはその手を引くように獣道へと足を踏み入れる。
屈みながら狭い入口をくぐると、中は思いのほか広かった。トンネルのような獣道が、まっすぐに続いている。
道の先に明るい光が見えるが、坂道になっているためどんな景色が広がっているのかまでは分からなかった。
手を繋いだまま、光の方へと二人は先を進む。
獣道を抜けた時、目の前に広がっていたのは湖だった。
突如現れたその光景に、ユニスは目を見開いた。水面はさながら鏡のように、空や木々の鮮やかさを映し出している。
その湖の真ん中に、小さな島が浮かんでいる。そこに白銀の毛並みをもつ一匹の獣が、横たわっていた。
――あれは。
姿形は狼に似た、大型の生きもの。
あまりの驚きに、ユニスは言葉を失う。隣にいるルディウスも息を呑んだのが、気配で分かった。
祠で見たのと同じ姿をした神獣が、二人の目線の先で眠るように横臥していたのである。




