異変
その日は、ユニスにとって何もかもがいつもと違っていた。
乳母のオルガが部屋に飛び込んで来た時、ユニスは窓の外をぼんやりと眺めている所だった。
「姫様! 姫様! 大変でございます!」
息を切らしながら開口一番そう言ったのは、長年ユニスの養育係をつとめてきた老女であった。
「オルガ、どうしたの?」
ユニスは目を丸くして聞き返す。オルガの顔は蒼白で、血の気が完全に失せている。強張った表情は、何か変事が起こったことを如実に物語っていた。
オルガはユニスの前まで来てひざまずくと、その手を取り再び口を開いた。
「陛下が……陛下が崩御されたとの一報が!」
「……お父様が?」
ユニスは呆然と呟いた。オルガがもたらしたのは、父王キーランの訃報であった。
「……いつ?」
ユニスの問いに、オルガは分からないと首を振る。
「詳しいことはまだ何も。宮廷は大混乱に陥っています」
「城を出たのはついこの間でしょう……?」
つい一週間ほど前、キーランは隣国との戦争のため、大軍を引き連れ王城を出立したばかりである。
半月と経たぬ内にもたらされた凶報に、ユニスは大きく動揺した。王の死は戦況に大きく影響を与えるだろう。もしかしたら、軍は劣勢を強いられているのかもしれない。
青くなったユニスを安心させるように、オルガは手に込める力を強くした。
「今のところ形勢は我々が有利です。アレス殿下が国境付近で敵を退けたとの報も入っております」
「……お兄様が」
ですから心配されませんよう、とオルガは続ける。
胸中の混乱がおさまらないまま、ユニスは窓の外に視線を向ける。
――お父様が亡くなった。
それは国の未来を左右するだけでなく、己の未来もまた大きな転機を迎えることを意味していた。
――私はこの先、どうなるのだろう。
己のいる部屋を見渡して、ユニスの胸には言いようのない不安が広がってゆく。
王宮の最奥。決して広いとはいえない居住区が、ユニスに与えられた全てであった。
『――ここより外に、出ることは許さぬ』
7年前、キーランはユニスにそう命じた。
ユニスが10歳の時である。
以来、幽閉といって過言ではない生活を強いられてきた。
居室の前には常に見張りの衛兵が立ち、行動は制限された。居住区の外へ出ることは許されず、王女として人前に立つ機会は奪われた。
――お父様は、私を憎んでいた。
視界に入れぬようユニスを遠ざけ、疎んじていた。思い出す度、首を締め付けられるような息苦しさがユニスを襲う。
苦い思い出に沈んでいると、オルガが隣で大きく息をついた。視線をそちらへ向けると、オルガは声をわずかに震わせながら呟きを漏らす。
「――本当にようございました」
「……オルガ」
「陛下が逝去されたというのに、どうか不敬をお許しください。ですが姫様がこの生活から解放されるのだと思うと……」
最後の言葉は、嗚咽に紛れて聞き取れなかった。
その時、扉の外が騒がしくなって二人ははっとした。
衛兵と誰かが、廊下で押し問答している声が聞こえる。怒声と、剣を抜く金属音。騒々しい音がしばらく続いた後、急に扉の向こうは静かになった。
次の瞬間、ガチャリと扉の開く音がして、ユニスの部屋に10名程の男達が雪崩のように押し入ってくる。
いずれも武器を持ち、軍服を着た屈強な男達の姿に、ユニスとオルガは身を寄せ合って固まった。咄嗟にオルガはユニスをかばうように立ち上がると、背後にその姿を隠す。
しかし男達はオルガの存在など気にも留めない。先頭に立つ軍人は、ざっと部屋を見まわし危険がないことを確かめると、手にした剣を鞘に収めた。そうして静かに二人のそばまで歩み寄ると、ユニスの前で膝を折る。
「ユニス殿下でいらっしゃいますね」
落ち着いた声でそう言ったのは、暗褐色の髪色をした軍人だった。
恐怖から顔を強張らせたユニスではあったが、その問いに何とか頷く。
「あなた方は、一体――」
尋ねようとして、後から部屋に入ってきた人物を見てユニスは続く言葉を止めた。周囲の男達と同じ軍服を身にまとった男の顔に、見覚えがあったからだ。久しぶりに目にする懐かしい姿に、ユニスは目を見開いた。
「ユニス、久しいな」
「……お兄様」
立っていたのは、ユニスの異母兄アレスだった。