城塔から見える景色
「閣下の喜ばれること、ですか」
首を傾げたテレサに、ユニスは真剣な顔で頷いた。
ハイラントに到着して3日。
自身の居室で、ユニスはテレサに相談を持ちかけていた。
「ええ。お礼をしたいの」
――ルディウスの為に、何かできないだろうか。
そう思うようになってから、ユニスは悩んでいた。
一体自分に何ができるのだろう、と。
物を贈りたくとも王都から持参したユニスの持ち物は極端に少なく、その中にルディウスに渡せるようなものはない。
自由に使えるお金もないので、何か買うというのも現実的ではないだろう。
そうなるとユニスにできることをして喜んでもらう、という選択肢しかないわけだが、これが難題であった。
ユニスにできることは、ルディウス自身でできてしまうことばかり。ただでさえできない事の方が多いのに、さらに誰かを喜ばせるような事となると、これはもう極めて難しい注文だった。
考えても何をすればいいか分からず、テレサに助言を求めたというわけだった。
「……殿下がありのまま感謝の気持ちをお伝えするだけでも、お喜びになると思いますが」
そう言われ、ユニスは途方にくれた顔になる。おそらくテレサの言っている事は正しいのだろうが、それはユニスの求めている答えではなかったからだ。
ルディウスの為に何かをしたい、というユニスの強い思いを感じ取って、テレサは別の案を口にした。
「でしたら閣下が身につけるものに刺繍をされて贈られてはいかがでしょうか?」
「刺繍?」
「はい、ハンカチや帯などに。普段から身につけるものですし、殿下自ら刺繍されたのならきっと喜ばれますよ」
戦の勝利や無事の帰還を願って、そうした品を女性から贈るのは一般的なのだという。
良い案だと思ったが、同時にある不安がユニスの胸をかすめた。ユニスの浮かない表情に気づいて、テレサが首を傾げた。
「お気に召しませんでしたか?」
ユニスはぶんぶんと首を振った。
「いいえ、とても素敵な案だと思う。……恥ずかしい話なのだけれど、その、うまくできる自信がないの」
情けない顔をして、ユニスは続けた。
「……この7年は、刺繍をしたことがなかったから」
針を持つことを禁じられていたからだ。
恥ずかしさに、消え入りそうな声になる。
貴族令嬢の嗜みと呼ばれるものを、ユニスはほとんど何もできない。刺繍も、音楽も、ダンスも。
許されなかったからだ。
こうした制限に対して、乳母のオルガは刺繍くらいと腹を立てていたが、自棄になったユニスが自傷行為に及ぶのを恐れたのかもしれない。
許されていたのは読書くらいのものだったが、それも読んでも問題ないと判断された本のみで、その数は限られていた。
他人の目に触れず、ひっそりと生きること。ただそれだけを求められていた。
「私ったら考えが至りませんで……」
申し訳なさそうに言ったテレサに、首を振る。
「以前は、刺繍もやっていたの。だから、全くできないということではないのよ。情けない話だけれど、上手くできるか不安になっただけなの」
幼い頃は家庭教師がつき、刺繍や音楽も許されていた。王女として必要な知識や教養、礼儀作法を学ぶ場は与えられていたのである。
そうした機会も、アレスがハイラントに行った後は、徐々に失われていったのだが。
それまで己に与えられていたものは兄が手を回してくれたおかげなのだと気づいたのは、アレスがいなくなった後だった。
「……それにせっかく贈るものだから、綺麗に作って喜んでもらいたいもの」
言いながら、ユニスは頬を染めている。その様子に、テレサの顔に自然と笑みが戻った。
「殿下が心を込めて作られたものなら、閣下は何であれお喜びになると思いますよ」
そうは思われませんか、と問われてユニスは小さく頷いた。ルディウスならたとえ出来が悪くとも、笑顔で受け取ってくれるだろう。
「こういった物は、どれだけ相手の事を想っているかが重要なのです。ただ上手いだけでいいならば、城下の職人の方がよほど上手くやれるのですから」
それでも綺麗に作ったものを渡したいというのが、乙女心というものである。ユニスはしばらく考えた後、口を開いた。
「自信はないけれど、刺繍にするわ。でもその前に少しでも綺麗に刺せるように、練習しようと思うの。今の私の腕前は決して良いとはいえないから……テレサも協力してくれる?」
「勿論です」
ふふっと、二人で微笑み合う。
「図案も考えなければいけないわね」
「家の紋章などはいかがです?」
そう言われ、ユニスはルディウスとの会話を思い出した。
自身の過去を語る時、ルディウスはランバルト家に対してあまり良い思い出がないようだった。家の紋章は、あまり喜ばれないかもしれない。
「……図案はもう少し考えてからにしようかしら。それまでは練習につきあってもらってかまわない?」
「はい。喜んでお手伝いさせていただきます」
そんな話をしていると、部屋にコツコツというノック音が響いた。
途端、ユニスの顔がパッと輝いて、テレサは笑いを噛み殺す。
「おいでになられたようですね」
ドアを開けると、立っていたのはルディウスである。
今日延期になっていた城の案内をしようと、ルディウスが約束してくれていたのだ。
「待たせてすまなかった」
「いいえ。……お仕事は?」
「今日の分は終わらせた」
時間は気にしなくていい、と言われユニスの足取りは軽くなる。
「テレサ、晩餐までには戻るわね」
かしこまりましたと笑顔で頷いて、テレサはユニスを送り出す。あのように嬉しそうな顔を向けられれば、それで十分ルディウスを喜ばせているのではないか、と思いながら。
ユニスがまず案内されたのは、居室と同じ階にあるルディウスの執務室だった。
開け放した扉から中に入ると、執務用の大きな机と椅子が数脚置かれているのが目に入った。きらびやかな調度品は一切なく、質実なルディウスの気性を表しているような部屋である。
「今は誰も使っていないが、城主の執務室も近くにある。軍の演習がない日は大抵この部屋にいるから、何かあったら来てくれてかまわない」
アレスの即位により、現在城主の座は空いたままになっている。直轄領といえど政務を行う人間は必要なので、新しい執政官が来るまでは当面はルディウスが城代になるという。
「しばらく忙しくなるかもしれないが、できるだけ時間を作るようにする」
ユニスが不安を覚えぬよう言葉をくれるルディウスに、胸があたたかくなった。
こうした配慮が嬉しいと思う反面、ルディウスの負担になっていないか心配でもある。というのも、ハイラントについてからも、ルディウスはユニスの為にあれこれと気を配ってくれているからだ。
例えば先日の言葉通り早々に居室を城塞内に移してしまったし、朝晩は必ずユニスと食事をともにしてくれる。今日こうしてユニスの為に時間を割いてくれたのも、ルディウスの配慮の一つだろう。
「ありがとう。……でも無理はしないでね」
ルディウス自身の事を第一に考えて欲しい。そう伝えると、ルディウスは真面目な顔でユニスの瞳を見つめ返した。
「俺自身がそうしたいだけだ」
当たり前の事のように言われて、カッと頬が熱くなる。無意識に右手を頬にあてて、染まった肌を隠すようにした。
最近ルディウスといると自分は赤くなってばかりいるようだと、ユニスは思わずにはいられなかった。
執務室を出ると、ルディウスは一階の大ホールから順にユニスを連れて行く。
応接間、使用人食堂、礼拝堂。
守備隊の詰所では、ユニスが来ることを事前に伝えていなかったせいで、随分と驚かせてしまった。
二人の登場によほど慌てたのだろう。兵士の一人は椅子から立ち上がった瞬間盛大にテーブルに足をぶつけ、痛みに悶絶していた。
これにはルディウスも心配そうであった。
「ニック、平気か?」
「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません!」
「いや、俺が悪かった。普段の様子を見せるつもりで、事前に言ってなかったから」
「驚かせてしまってごめんなさい」
ユニスも一緒に謝ると、いっそう兵達を慌てさせてしまった。
城内を回っている間、最もユニスを驚かせたのは、行く先々でルディウスが警備兵や使用人に声を掛けている姿だった。
「もしかして全員の顔と名前を覚えて?」
途中、気になって尋ねると、ルディウスはあっさりと否定した。
「いや、言葉を交わしたことのある者だけだ。勿論できるだけ覚えようとは思っているが」
それでもかなりの数になるだろう。そういえばと、ユニスはハイラントに到着した日の事を思い出した。ルディウスは城門にいた兵士の名前も覚えていたのではなかったか。
ライラが以前「軍内でルディウスは人気がある」と言っていた理由の一端は、こんな所にあるのかもしれない。自分が彼らの立場なら、名を覚えてもらい、親しげに声を掛けられれば嬉しいだろうとユニスは思った。
ルディウスが最後にユニスを連れて行った場所は、城の北西にある城塔だった。
この城塞には北東、北西、南東、南西の四隅にそれぞれ城塔がついている。ハイラントで最も高い場所であるこの塔からは、城下の街が一望できた。
城塔の一番上まで上がると、ユニスはその景色に歓声を上げた。ハイラントの街並みが、眼下に広がっている。
上から見ると、全体的に赤い屋根の家が多いことが見てとれる。整然とした町並みは、ハイラントが綿密な都市計画のもと作られた街であることを感じさせた。
「……綺麗」
「もう少し後なら、夕日が沈むのもここから見える」
まだ明るい空を見ながら、ルディウスが口にする。その横顔を見ながら、ユニスは無性に感謝を伝えたい気持ちになった。
どれほど自分がルディウスに感謝しているか、きっとその何分の一の気持ちさえ、ルディウスには伝わっていないのだ。
ルディウスに話しかけようとして、しかし人目が気になった。
監視塔でもあるここには、2人以外にも兵の姿がある。周囲の人間に聞かれるのは恥ずかしい気がして、ユニスはルディウスの袖を引いた。
「どうした?」
もじもじと何かを躊躇うような素振りを見せるユニスに、ルディウスがその顔をのぞき込む。
少しルディウスが屈んでくれたことに助けられて、まるで内緒話をするように、ユニスはその耳元に唇を寄せた。
「……いつも私の事を考えてくれてありがとう。優しい言葉をくれるのも、こんな風に素敵な景色を見せてくれるのも、どんな言葉でお礼を言っても足りないくらい嬉しいの」
その温かさに、泣きたくなるほどに。
最初驚いた様子だったルディウスの表情は、すぐに真剣なものに変わった。静かにルディウスが耳を傾けてくれたので、ユニスは最も伝えたいことを口にすることができた。
――あなたと出会えて良かった。
頬を染めながら囁くように言って、ユニスはルディウスから離れた。
奇妙な達成感に包まれてルディウスを見ると、まるで愛おしいものを見るような表情をしている。
「ありがとう、ユニス」
いつになくその声が甘さを含んでいるような気がして、ユニスの体温は更に上がった。自分でも耳まで赤くなっているのが分かる。
最近の自分はおかしいかもしれない、とユニスは思った。何故ルディウスを見ると、こうも胸が騒がしくなるのだろう。頬が熱くなって、落ち着かない気持ちになる。
まだ名前をつける事のできないその感情に、ユニスの心は揺れたのだった。




