城塞都市ハイラント
旅も半分を過ぎると、ユニスは1日の大半を馬上で過ごす生活に慣れはじめていた。
初めてファスに乗った翌日の身体の痛みときたら、これまでの人生において経験したことのないものであったが、今ではその痛みも大分薄らいでいる。
人間何事にも適応できるものである。
慣れなかったのは、ルディウスの新しい呼び方だった。ルディウスの名を呼ぶのも、ルディウスから呼ばれるのも緊張して仕方がない。無論これはユニス自身の望みであったから、名を呼ばれるのは純粋に嬉しい。しかし早々慣れるというわけにもいかなかった。
自分から言い出した事にもかかわらず、その事実はユニスを途方に暮れさせた。
一方、二人の間に起こった変化は、やきもきしていた周囲の人間を安堵させた。
二人が互いを名前で呼び合うようになった当初、周りの兵達は少なからず驚いた様子を見せていたが、一体何があったのかなどと無粋な事を聞く者はいなかった。
事が上手くいっていれば細かいことはどうでもよい、というのが彼らの一致した見解であった。
王城を出て7日目。
この頃になると、街道沿いに人家は見えなくなった。進んでも進んでも未開拓な荒野が続いている。
ユニスたちの前にその生き物が現れたのは、荒涼とした岩場を進んでいた時のことだった。
先頭を行く一人の兵士が、突然馬を止めたのである。鋭い声で、後方に注意を促す。
「閣下」
その声が示す方向へ目を向けて、ユニスは固まった。
岩山が、動いている。
そうとしか表現できない光景だった。ゴツゴツと岩のような外殻を持ち、体長は人の背丈の10倍はありそうな巨大な生き物が、のしのしとユニス達の目線の先を歩いていた。
「霊獣だ……」
誰かがぽつりと呟いた。呆然とした声音に、自分だけが驚いているわけではないのだと知る。
その姿は、おとぎ話や神話で語られるものとはまるで違っていた。霊獣が物語の中に出てくる時は、神の御使いとして美しく神秘的な生き物として描かれる事がほとんどなのだ。
しかしこの霊獣に美しいという言葉は、似つかわしくない。ただただ、その大きさに圧倒されるばかりである。
あえて近い生き物を探すなら、姿形は亀に似ていた。
しかし何か似ている動物を探すより、岩石を模写したという方が近い。動いていなければ、岩山と区別がつかなかっただろう。
「岩場の主だ」
ルディウスがユニスに囁いた。
「迂回しよう。縄張りを荒らされたと思われたら、面倒だ」
声を低めると、手だけで後方に下がるようにと指示を下す。ルディウスの合図に、隊列が速やかに移動を開始した。
霊獣の姿が完全に見えないところまで来て、ユニスはほうっと息を吐き出した。
「凄い……」
感嘆の溜息を漏らしたユニスの顔を、上からルディウスが覗き込む。
「怖くはなかった?」
「はい」
それは良かったと、ルディウスは微かに目を細めた。こんな風に柔らかく微笑むルディウスを見ると、ユニスの心は温かくなる。
名前を呼ばれるのはまだ緊張するが、こうしてルディウスと話ができることは嬉しかった。
霊獣を見ても恐怖を感じなかったのは、ルディウスが傍にいるからかもしれないとユニスは思う。ルディウスがいれば、大抵のことは大丈夫だろうという気がしてくるのだ。
ハイラントまでの最後の3日間は、分駐所も宿屋もない、ひたすらに続く草原を進んだ。
夜は焚き火を囲み、宝石をばらまいたような星空を飽きるまで眺めた。野営用の天幕で眠りにつくというのも、ユニスにとっては初めてのことだった。
毎日が驚きの連続で、日々は目まぐるしく過ぎてゆく。この先どのようなことがあろうとも、この旅は生涯忘れられないものになるだろう。
この7年を王城の奥深くで過ごしたユニスにとって、この旅の間に目にしたものは、信じがたい程に鮮烈だった。
ついに旅の目的地が見えてきたのは、11日目の朝のことだった。
丘をひとつ越えた時、なだらかな高地に城塞都市が姿を現したのである。
街をぐるりと城壁がとり囲み、一定の間隔で筒状の城塔が配置されている。
都市の一段高い場所に城塞がそびえ立ち、近くを大きな河川が流れているのも見えた。
前を行くライラが嬉しそうに声を上げる。
「ようやく帰ってきましたよ」
城塞都市ハイラント。
まるで絵画から切り出したような光景に、「ハイラントは美しい土地だ」と語った兄の言葉を思い出した。
おまえもきっと気に入るというあの予言のような言葉は、当たっているのかもしれない。ひと目見て、ユニスはこの街に惹かれていたからだ。
しかしこの時ユニスの心を捉えたのは、ハイラントの町並みだけではなかった。
街から離れた北の平原に、鬱蒼とした森が広がっている。
その森を目にした時、とても懐かしいような気がした。
神獣の住まう神の森。
わけもなく心惹かれて、ユニスは目を奪われる。
その時ふいにユニスの胸に湧き上がったのは、帰るべき場所に帰ってきたような、奇妙な感慨だった。




