自己の輪郭
入って来たのは、赤く艶のある長い髪に、灰色のローブが特徴的な女性だった。ローブは不思議なことに、チリチリと燃えているようにも見えて、端の方は霧のように輪郭を霞ませている。
女性が部屋に入った瞬間、空気が変わった。
まるで炎が空間を食い尽くすような、圧倒的な存在感。
本能が告げていた——この人間は危険だと。敵意とか害意を向けられている感じはしない、ただ、強いという予感だけがあった。
そんな女性は、部屋の惨状と埃臭さに目を細める。
「目覚め時くらい静かにできない?」
「おわっ?!」
女性が呆れた表情を浮かべながら指を振るうと、一陣の風が吹き、部屋中の埃やチリを集めて拳ほどの球体を作った。
それは一瞬空中に留まった後、自然の法則に従って落下し、床に落ちる直前に燃えて消えてしまう。
部屋には埃一つない。
今の一瞬で、『本で散らかった埃臭い部屋』は『本で散らかった埃一つない部屋』になっていた。
空気の匂いがまるで違う。本の匂いで満たされていた。
目の前で起きた現象に、無意識に口が動いた。
「魔法……」
「魔法は初めて、坊や? まだ魔力を自覚できていないのね。未覚醒者だなんて……本当に面倒だこと」
女性が、硬い足音と共に部屋を横断する。
どうなっているのか分からないが、床に広がった本は女性が歩くのを妨げない様に道を開ける。
その様子を見て直感した。彼女が、この館の主だ。
「————————」
その不思議な光景を、ただ口を開けて見ることしかできなかった。
頭が目の前の光景を理解しようと回転するのに、まるで間に合わない。
警戒心すらなりを潜めてしまうくらいに、頭の中は混乱で漂白されていた。
「間の抜けた顔。もうすぐルカちゃんも来るんだから、これでも飲んでシャンとなさい」
女性が、持ってきたティーカップを置く。
白くて薄く、波打つようなデザインのカップとソーサーは、何となく高そうだなと思った。
「ぁ……どうも……」
色々と突然すぎて、気の無い返事を返すのが精一杯だった。女性はそのまま何も言わずに、こちらを一瞥してから退室した。
扉が閉まる音。混乱の元凶がいなくなったからか、はたまた今の音が合図になったのか、停止していた思考はようやく活動を再開した。
「————あっ! 色々訊きそびれた!」
女性の閉めていった扉を眺めても、もう遅い。
本来ならまっさきに訊くべきあれこれを、何一つ訊けていない。
「誰か来るって……ルカ……だっけ? ルカって誰だ? いや、そもそもここは? さっきのは誰なんだ?」
いくつもの疑問に、当然扉は答えない。
部屋の静けさが虚しい。
自己紹介くらいして欲しかったけど、やはり今さらだ。
いや、逆に考えると、自己紹介しなかった上に、向こうから誰何されることもなかった。ならもしかして、オレについて知っている人なんだろうか?
そうなら納得がいく。どことなく雑な対応をされたのも、知り合い故の距離感からなんだとしたら、オレについて教えてもらえるかも知れない!
「いや落ち着け……まだそうとは決まってない…………殺されたばかりなんだ、警戒心を持たないと……」
落ち着く為に、まずは一息入れるのも良いかもしれない。
視線を下げると、机の代わりになっている本の山、その上に置かれたままのカップがある。
手に取って、一口飲んでみた。
途端に、柔らかな味が口に広がり、落ち着く香りが鼻に抜ける。
そのまま飲み込むと、胃に落ちた温もりがじわ~と身体中に広がって染み込んでいくのが分かった。
「————ホゥ……」
経験したことのない味に、思わずカップを見る。
カップの中で揺れている液体は特に色を持たなかった。
ゆらゆらと揺れては、時折キラリと不思議な光の粒子を浮かべる。
カップの底には赤いものが塗られていて、それが液体に赤く溶けていた。
「あっという間に飲んじゃったな」
今更ながら、警戒心のカケラもない行為に苦笑する。
何だか一度死んだせいか、自分の命にぞんざいになっている気がしないでもなかった。
カップの中身を飲み切り、ぼんやり余韻を感じるころにはすっかり頭は軽くなって、寝起き特有の気怠さは消えていた。
もし、あの女の人が入って来た時に今くらい頭が動いていれば、ちゃんと訊きたいことを尋ねて、少しは自分自身というものに進展があっただろうに。
そんなことを考えて時間を潰していると、また何かが急速に近づく気配がした。
はて、自分はこんなにも感覚が鋭かっただろうか?
村で目覚めたときよりも、感覚の冴えは増して感じる。
首をひねる間にも、気配は近づいて来る。
そして、想像していたよりも軽い足音を立てながら、気配は扉の前でキキィーなんて音をさせて停止した。
直後————
「アトラ! 大丈夫?!」
けたたましい音を響かせて、扉が勢いよく開かれる。部屋には一人の少女が入って来た。
「……あ、えー、どうも?」
予想外の少女の勢いに、用意していた言葉がどこかへふっ飛んだ。やっとのことで、たどたどしい挨拶を口にする。
挨拶は返ってこない。
少女はズカズカと近づいて来ると————
「ちょっとお?!」
そのまま黙ってオレの着る服を掴み、捲り上げた。
「な、なにして、ぐぅぅッ——うそだろ?!」
押さえようとする腕ごと上げられる。
こんな細い腕に、男たちを圧倒していた腕が負けている。完全に力で負けている。
抵抗するオレを他所に、少女は真剣な顔でオレの腹を見たり触ったりした後、安堵の表情を浮かべて蛮行をやめた。
「よかった……本当に大丈夫なんだ。ルミィナが大丈夫って言ってたんだけど、見るまで安心できなくて」
よかったを繰り返して、少女は笑顔を向けてくる。
それを見て、不思議と文句を言いたい気持ちは消えてしまった。
「……まあいいよ。えー、そう、それより……ここは?」
「ここ? ここはねぇ、ルミィナのお家。あの村から安全なここまで運んだんだ」
「ルミィナ?」
「あ、私が来る前に会ったよね? 髪が長くて、赤くて、キレーな人! ルミィナはね、魔法が得意なの。【魔女】なんだ!」
キラキラとした目で、少女は「すごいでしょ!」と早口に語る。
どうやらさっきの女性の名前は『ルミィナ』らしい。
魔法に長け、少女のために何でもしてくれる優しい女性だという。オレはもっと冷血というか、鋭利というか、そういう印象を抱いていた。
さらに博識でもあり、この部屋にある大量の本はすべて、彼女の著した本の一部だという。これは素直に驚いた。いったい何年間を費やせばこんな量を書けるのか。いや、そもそも本の内容は多岐にわたっていたから、著者の知識量もそれだけ広く深いことになる。そんな知識を得るまでの労力を思っただけでも、あのルミィナなる人物が只者でないことは当然に思われた。
ただ気になるのは、彼女が天才であろうことはともかくとして、拷問の本なんて書いてる人が、はたして優しいなんてあり得るのだろうか。人間性の方に不安を抱かずにはいられない。
口にはしないけど……。
そしてさらにもう一点気になるのが、目の前の少女が口にする『アトラ』という言葉だ。
「それでね、その時にルミィナが————」
「ちょ、ちょっとごめん。教えてほしいことがあるんだけどさ……」
「ん? どうしたの?」
「その、さっきからオレのことアトラって呼んでないか?」
「……? アトラはアトラだもん……?」
「ってことは、オレはアトラなのか…………アトラ……そっか……」
その音の響きが、空洞だった胸の奥に染み込んでいく。
失くしたと思っていた自分の一部が、ようやく戻ってきたような——いや、初めて自分という存在に輪郭が与えられたような感覚だった。
空っぽの心に、芯になるものが宿った感覚。名前一つでこうも自分が定まるなんて、知らなかった。
「えっ、アトラ? どうしたの……どこか痛い? 痛いってあるのかな……だいじょうぶ?」
唐突なオレの変化は、少女をずいぶんと狼狽させてしまっていた。痛いってあるのかな、なんて訳のわからないことすら口走るくらいに。
「ぃや……なんでもない……。……君が、ルカ……だよな?」
「う、うん、急にどうしたの? ルミィナに診てもらった方がいいかな……」
『ルカ』は扉とオレとで視線を往復させる。今にも『ルミィナ』を呼びに飛び出して行きそうで、だけどオレを1人にするのも不安という様子だった。
そんな心の底から心配してくれている様子に、オレの覚悟は決まってくれた。
「じゃあ、ルカ。聞いてもらいたいことがあるんだけどさ」
「……うん、なに?」
何かを感じたのか、ルカの表情が真剣なものに変わる。
それを見て————
「実はオレ……記憶がないんだ」
「————え?」
————オレは、自分の欠陥を打ち明けた。