思い出は遠くまどろみの彼方
なんとなく、これが夢だと分かった。
そこはどこか懐かしい邸宅の庭だった。
大きくはないが、丁寧に手入れをされた花が咲き、柔らかな光が降り注ぐ。そんな庭だ。
愛情を注がれたことが、こんなにもはっきりと伝わってくる。
草花の優しい匂いが、心地いい風と共に体をくすぐる。少しだけ、その心地よさに身を任せていた。
「……………………」
邸宅は立派なもので、白い壁に柔らかな日差しが踊り、木がそよぐ度に葉の影が楽しそうに踊っていた。
庭と同じく、大きすぎるなんてことはなく、孤独や不安を抱くような広さでもない。十分に自由に動けて、なのに守られて感じる絶妙な大きさ。
それなのにこんなにも広く、大きく感じる理由は、自身の体を見下ろして分かった。
「なんで……ぼくは……」
まじまじと、子どものように小さくなっている体を見下ろす。確かに元から大きくはなかった体ではあった。けれど、こうも幼さを感じるほどではなかったはず。
「ん……剣?」
始めからそうだったのか、手には木剣がしっかりと握られていた。
小さな体に、この木剣はすこし重い。
それでも不思議としっくりくる……。振るうイメージが自然に湧いてきたのは、いつの記憶なのか。
「どうかしたのか、アトラ?」
「え——」
不意の男の声に振り向くと、栗色の髪を汗に濡らした男が、温かな笑顔をこっちへ向けていた。
上半身は、引き締まった無駄のない肉体をそのまま日の光にさらしている。そして手には、大人用にしても重そうな木剣が握られていた。
————お父さんだ……。
なんで忘れていたのか分からない。
今日は久しぶりに、剣の稽古の相手をしてくれていたんだっけ。
「……ちょっと、その……ぼーっとしてたんだ」
「何だ、そんなに疲れているなら休憩を伸ばすぞ?」
「ううん、いい。はやくつづきやろーよ、お父さん!」
「ダメだ、まだ休憩したばかりだろ? まだ1分も経ってないぞ。休む時はキチンと休む。大事なことだ」
「えー! ……わかった。ぼくはいい子だから……休む」
「はははは! ほおを膨らませなければ完璧だったな」
父の手が頭に置かれ、力強く、けれども優しく撫でた。
ゴツゴツとした硬い手のひら。
すこしだけ痛くもあるその手のひらが、力強くて、優しくて、熱いくらい暖かだった。
「そういえばアトラ。お前母さんに将来の夢を語ったそうじゃないか。つれないなー、父さんに隠すことないだろ~?」
「う……」
撫でられる感触に身を任せていたら、不意打ちに触れられたくない話題を出される。
はぐらかそうにも、逃すつもりはないことが、手のひらを通して伝わってくる。
将来の夢。憧れは、もうとっくにあった。
ただ、それをお父さんに言うのは妙に恥ずかしくて、同時に怖くもあった。
もし笑われたら……。
もし、お前には難しいと言われたら……。
もしそうなったら、きっと立ち直れない。
もちろん、お父さんはそんなことは言わないと知っている。
それでも、やっぱり怖かった。嫌な想像に限って、頭の中に居座り大手を振って歩き回るんだ。
「…………」
顔を上げると、さっきと変わらない笑顔を向けてくれているお父さんと目が合った。どんな夢でも、きっと受け止めて背中を押してやる、そんな覚悟みたいなものがあった気がした。
それで、不思議と覚悟は決まってた。
「ぼ、ぼく…………に、なりたぃ……」
「ん? 何て言ったんだ?」
心臓がドキドキとする。
それでも、勇気を出してもう一度言った。
「ぼく……、ぼく、聖騎士になりたい! お父さんと同じ聖騎士になって、お父さんもお母さんもアリアも、村のみんなも、守りたい……!」
「……………………」
ずっと思っていたことを、叫ぶように吐き出した。
一瞬の沈黙。
お父さんは余程意外だったのか、目をパチクリとさせて、次の瞬間——
「え——うわあ!」
満面の笑みで、ぼくの小さな体を抱き上げた。
「あっははははは! そうか聖騎士か! 俺と同じ……父さんみたいな聖騎士かー! わははははは!」
「わっ、わわわ……!」
撫で、キスをして、高い高いをしたと思えば、強く抱きしめる。
怖れていたのと違って、お父さんのはしゃぎ様はすごかった。
窓から見ていたお母さんも、呆れ顔で庭に出て来る。それを見て、お父さんは自慢気な表情を浮かべた。
「おおアリシア聞いたか?! アトラはなぁ、ははっ、アトラはなぁ、俺みたいになりたいって——」
「はいはい、聞こえてたしこの前アトラから聞いていたから落ち着いてねナクラム。アトラが目を回しちゃうから」
「っと……悪かったなアトラ。父さん、ちょっと興奮していた」
お父さんの強烈なスキンシップからやっと解放される。
お母さんの言うように目は回っていたけど、こんなに喜んでくれたのが嬉しくて、照れ臭くて、それが気づかれないように、クラクラが治っても目が回っているフリをした。
「けどねナクラム。あまり真に受けすぎてもダメなんだからね? あなた、張り切りすぎちゃうところがあるんだから……」
「わ、分かっている、大丈夫だとも。さ、そうと決まれば特訓だな、アトラ! はっはっは、任せろ! 父さんが必ず聖騎士になれるところまで引っ張ってやるからな!」
「はぁ……ケガさせないでよ?」
お父さんの様子にため息を吐きながら、母の顔は明るかった。
当たり前の日々——
もう見れない、失った光景——
ごめんなさい、お父さん。
ぼくはもう、聖騎士にはなれないみたいで…………。
あんなに喜んでくれたのに。
あんなに楽しみにしてくれたのに。
あんなに大切にしてくれたのに。
あんなに、愛してくれたのに。
ほんとうに、ごめんなさい————
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「ぅ……ん……」
まどろみから抜け出して目を覚ますと、ぼやけた視界が迎えてくれた。
「——ん、……は? 泣いてたのか、オレ……?」
顔に触れた手は、目から溢れた涙で濡れていた。
理由は分からないが、ひとまず服の袖で涙を拭う。視界が回復し、世界が輪郭を取り戻す。
ぼやけた思考も、少しマシになった。
と————
「あれ? オレのじゃない……」
ひと目で分かる異変だった。
村で目覚めた時は、確か腹部に孔の空いたボロボロの服を着ていたはずだ。
それが今はシミひとつない、肌触りのいい服に変わっている。かなり上質なものだと思うけど、こんなの、着ていなかった。
「村のときと違う。村の、……そうだ!」
村での出来事が一瞬で頭に浮かぶ。
転がる死体、襲ってきた男たち、そして……白銀の槍……体の孔。
「っ——!」
体に掛けられた布団を跳ね飛ばし、服をまくりあげる。
そこには、貫かれて出来た孔が————無かっ……た。
「どう、なって……」
孔は確かにあったはずだ。
記憶をたどっても、孔が塞がったなんて記憶はない。
貫かれて、虫のように倒れ伏した。それが最後。それから奇跡の復活なんて記憶は、当然あるはずない。
なら、そもそも孔などなかったのだろうか————
「ありえない。あんなのが夢だったわけ…………!」
夢にしては、あれはあまりにも生々しかった。
貫かれた時を思い出す。
始めは、貫かれたとは気づかなかった。
貫かれたと気づいた後も、痛みが襲ってくることもなく、ただ感覚が孔の付近から徐々に消えて、自分が欠けていく……それが何よりおぞましく、そして恐ろしかった。
じっとりとした汗が、全身から滲み出るのを感じる。
「…………ふぅ、落ち着け……落ち着け……」
思い出すと気分が悪くなる。
落ち着こうと、胸に手を当てて目を閉じて、少し上を見上げる。
相変わらず鼓動は感じられない。
心臓は動かず、死ぬときは灰になる……。
「本当に……人間じゃないんだな」
ぽつりと、未練がこぼれた。
全部夢という最後の希望もなくなって、ようやくオレは人間であることを諦めた。
諦める以外になかっただけだけど、認めてしまえば少しだけ楽になる。
それが錯覚だとは理解した上で。
いやそもそも、自分が人間という感覚こそが夢なのかも知れない事実に思い至った。
人間としての感覚なんて、ひどく希薄なものだったじゃないか。まるで見ていた夢を思い出そうとするような、気を抜くとすぐに消えてしまいそうな感覚。
なら、きっと人間だったことこそが夢だった。
それでいいはずだ。そうに決まってる。そう思おう。
………………………………………………………………そんなの……ムリだ…………。
「はぁ…………で、ここはどこだ?」
ようやく自分の内側から、外側へと意識が向く。いや正確には、心の中の蟠りから目を逸らした先に外があったというだけだったけれど。
少し落ち着いて辺りを見れば、またも知らない場所だ。もっとも、知っている場所なんてどこにもない。
目を覚ましたオレは、なぜか知らない村から知らない部屋へと場所を移して、やっぱり寝ていたらしい。血を吸った泥の上から柔らかなベッドの上へと移動しているところを見ると、少しは状況が好転したと思いたい。
「埃っぽいな……なんの本なんだ、これ?」
部屋の特徴はとにかく本がたくさん積まれているというくらいで、その他は至って普通……というには天井が高いが、木造家屋の一人部屋という雰囲気だ。
だがとにかく本が多い。
なんとなく、この部屋は普段から使っているわけじゃないんだと思う。
「————————」
やっぱり現実感はない。記憶の連続性がなさすぎて、これらを自分ごととして実感するのが難しい。
眠るたびに、別人の人生に切り替わっているんじゃないか、なんて荒唐無稽な妄想が頭の片隅に居座っている。
「……、と。これは……一応読めるのか」
何となく、一番近くにあった本を手に取ってみる。文字の意味は苦労なく理解できたから、たぶんオレと同じ言語圏の本なんだ。国も同じならいいなと思った。
赤が特徴的な本は、タイトルも赤に似合う物騒なものだ。
『誰でも簡単! 楽しく出来ちゃう拷問術 ~入門編~』
「……………………」
ソッと元に戻した。
何となく今のをナシにしたくて、今度は紺色の本を手に取る。やり直しだ。
「えーと? 『歴史に見る三国間の緊張関係・後編』…………なんか難しそうだな」
また戻した。
自分のことも分からないのに、どこぞの国の外交関係なんて早すぎる。
そうしていくつかの本を取っては戻しを繰り返した。
『帝国の外交戦略』、『魔法陣の先駆者』、『紋様学1 総論』、『そして王国は成った』…………読む気は起きない。
いや、そもそもどんな本なら読みたいのかも分からない。ただ時間ばかりが過ぎて行く。
20冊ほど積んだ時点で、部屋の外から近付いてくる気配に気がついた。
いや、それは近づいてくるというよりも、まるでいきなり現れた感じで、オレは何の心構えも備えもなかった。これだけ時間を使って、結局は心の準備ひとつできていなかったのだ。
「えっ、まず——!」
反射的に本を戻そうとして、積み上げられた本に手が当たった。本の塔が、ゆっくりと嫌な緩慢さで倒れていく。
それが音を立てて崩れて埃を舞いあげるのと、部屋の扉が開かれるのとは同時だった。
「開けるわよ——あら、何? 随分と散らかしてくれてるのね」