聞こえぬ心音 感じぬ鼓動
暗いまどろみの中、誰かに呼ばれた気がして目を覚ました。
「ぅ…………」
重いまぶたを開いて最初に目に入ったのは、視界を覆う鉛色の空。
それでも目覚めたばかりの目には眩しくて、飛び込んで来た光に目を細める。
眼球に染み込んだ鉛色はそのまま頭の中まで染み込み、思考までも重くするようだった。
「……………………」
気だるい。何もやる気が起こらない。
体を動かすことなく、降りそうで降らない暗い空を眺めていた。
重たい身体は、視界を覆う鉛の雲に押し潰されているという錯覚を抱かせる。目覚めるなと言われているような気がした。
「…………………………………………」
しばらくそうしていると、じわじわと身体に感覚が戻ってくる。今まで感覚が麻痺していたことに、その時初めて気がついた。やがて、痺れに似た感覚が全身を巡り、巡った先から感覚が回復し、流れ込んでくる感覚情報は、鉛のようなまどろみに浸る怠け者を叩き起こした。
「——ブッ!? まず……鉄くさ……ぺッ、ペッ!」
味覚が戻るや否や、口内に広がる錆びた鉄の味に盛大にむせた。吐き出したツバはどこか茶色く、喉が新鮮な水を求めてヒリヒリする。肺の隅々まで錆びたのか、吐く息にすら味がする。
けど、むせたおかげで力が入った。
「よっ——とと!」
起き上がろうとすると、鉛のように思えた身体は思いのほか軽く、体はすんなりと命令を聞き入れた。
その拍子に何かが手に引っかかっていてよろけたが、ともかく起き上がれたならどうでもいいことだった。
高くなった視界には、人気のない村と大き目な道が映っている。自然の中にぽつりと浮かぶような、閑散とした村の光景を前に、なんだか不思議な感覚を抱いていた。
とにかく、状況確認だろう。
「ここは……どこだ?」
辺りを見回しても、この場所には覚えがない。
目を引く村の中心まで伸びている大きな道も、やはり記憶にはなかった。
「こまった…………」
いつの間にか見知らぬ村にいる。
普通こういう時は、驚き、動揺するものだろう。だが、感じているのは僅かな戸惑いだけで、焦りの感情すら湧いてこない。どこか他人事で、実感がない。まるで夢の中にいるみたいな、そんな感覚。
「とりあえず人を探さないと……。でもなにを聞けばいいんだ? 村の名前……家……あれ?」
なにか……おかしい。
「オレって……あれ? ここ……オレの村? でも…………」
分からない。自分のことが分からない。
どこでなにをしていたのかだけじゃない。名前すら分からなかった。
思い出せないというよりも、知らないとい方がより今の感覚に近い。
心臓が冷たくなったような感覚が胸を覆い、記憶を探すほど底なしの闇が広がっていくような錯覚。闇の中でいくら踠いても、指先に引っかかるような記憶の断片すらも存在しなかった。
ここに至って、どうやら自分が記憶喪失というものらしいと知った。
「————やっぱり誰かに助けてもらわないとダメだ。なんにも覚えてない……」
それでも、やはり焦燥感は湧いてこない。
どこからこの余裕が出てくるのか、自分でも不思議なくらいだった。
今の言葉だって、実感のこもったものじゃない。こういうときは、こういう言葉を発するものだという気がしただけ。セリフを読んでいるような感覚のものだった。
けれどともかく、空っぽの自分には何かの方針が必要なのは間違いなかった。
「村の中心……あそこなら誰か——ん?」
なんとなく、本当になんとなく村の中心部へと足を踏み出した時、ピチャッと何かヌメリとしたものを足の裏に感じて、視線を落とす。
「————?」
ソレがなんなのか、すぐには分からなかった。
いや、分かっているはずなのに、脳がそれを否定していた。頭の中の左右のバランスが崩れていく様な、不快な違和感。
ソレは、なにかテラテラとした……管?
そのキレイな色に、視線が吸い寄せられる。だが、ソレがなんなのか分からない。
どこか……落ち着く、安らぐ色。
あまりにも唐突に現れたソレを、脳が時間をかけて分析し……やはり、そうなのだと結論づけた。見間違いではないのだと。
遮断されていた情報は解放され、ソレは正しく視界に反映される。逃げ場のないほど正確に。
————ソレは、ダレカの腸だった。
「——ッ!? ぅ゛、オ゛ェェエエッ!」
吐き気から膝をつく。すると余計にソレに近づいてしまい、臭いすら感じられた。
たった今踏んだ、赤茶色で、まだ湿り気を持った管状のそれはすぐとなりの死体の腹部から伸びて、まるでからかう様に足へと絡みついていた。
「エ゛ぇクッ……なんで?! なんだよこれッ!?」
腸に気づいた瞬間、今まで脳が遮断していた情報が、一気に視界に映し出された。
脳が見せていた虚像が崩れ、辺りに血と汚物のむせかえる様な臭気がただよう。
……地獄の様な現実が現れた。
————死体、汚物、内臓、血溜まり……潰されたもの、斬られたもの、穿たれたもの、抉られたもの、もの、もの、もの、もの、もの……。
膝をついていた地面は、気づけば赤茶色のベタついた体液で汚れ、周囲の平家は扉がいびつに歪みその破片を散乱させていた。
惨殺と略奪の痕跡は大きな道を伝い、その先の村の中心部へと続いている。
ああ、目覚めたときに手に張り付いていたものが、今なら分かる……分かってしまう……!
アレは手だ! オレと変わらない大きさの死体が、なぜかオレの手を握ってた⁈ この、手を…………⁉︎⁉︎
「ハァ、ハァ……!」
目の奥が熱くなり、視界が紅く明滅する。
自分がこんな場所に寝ていて、一瞬でも死体の色に安らぎを感じていたという事実が、より一層胃を絞り上げた。
「なんでこんなところに……オレは、なんで——!?」
ぐしゃぐしゃな思考は暴走を続ける。
落ち着こうにも、すがるべき確かな記憶は一つもない。
ただただ混乱へと滑り落ちていく。
同じ思考をぐるぐると繰り返し、そして……また吐いた。吐くものも無いのに、それでも吐いた。涙を流しながら吐くことだけが、ただ一つできることだった。
————もう、限界だった。
「なっ⁉︎ てめえは……⁉︎」
「え?」
それはあまりにも唐突だった。
死体が転がるこの穢れた場所で、生きたニンゲンの声が聞けるなんて、誰が想像できる?
声のした方へと、自然と縋る思いで視線が向く。
————そして、オレの思考は固まった。
視線の先には男がいた。オレに声をかけたニンゲンに違いないその男は、おかしなモノを両手にぶら下げていた。
片方には剣だ。別に剣を携えていることはおかしくない。それが血に濡れた抜き身のものだろうと、ケモノでも捌いたかもしれないじゃないか。
だが、そんな想像をヤツの持っているもう一つのモノが否定する。アレはおかしい。アレがおかしいなら、剣もおかしいことになる。あまりにも……異常だ。
「それ……くび……だよな…………?」
ハジめて人に出したコエは、キンチョウとカラカラなノドのセイで、ヒドクしゃがれた不気味なオトだった。ニンゲンもドウカンだったのか、メを見開いて固まってイる。
「あんだけ刺したのになんで生きて……ヒッ! な、なにがおかしんだッ⁉︎ 笑ってんじゃねえぞ‼︎」
「エ?」
男は錯乱した様子で、よくわカらなイことをイッている。こっちはそれどころじゃナいのに。ハナシをキいて欲しい。
真っ赤ニナッテ……怒ってルンだろうカ。
「アカ……い?」
違う。シカイが紅い。男がアカイんじャない。
男をミてから、シカイは血が滲んだような紅に染まっていた。いつの間にか荒くなっているジブンの呼吸音ヲ、「うるさいなぁ」と他人事のヨウに聞イテイル。
それニ気づクと同時に、シカイにはさっきまで男がイタはずの場所に、紅い糸でデキたヒトガタの塊が立っていた。
ソレはリョウテで剣を持ち直シて、ブルブルと震えていテ、嗤ってしまウくらいに、おかシイ。
なんだかとテも、ノドが、カワいてキタ。
「ぅ……ぉあ、ぐ、おおおおおおっ‼︎‼︎」
紅いニンギョウが、滑稽な動きをしナガラ、バタバタとこっちにキてクレタ。だから、アソぶことにした。
「あ゛ッ……ブぷっ、か、……ぁえ?」
紅イ人形ノ紅い糸。ソレは見ていルダケで、手ニとるみタイに操れタ。
だかラ、ツブシタ。
人形のムネにあル、紅いカタマリを、握るように、何度も、何ドも。
「かヒュっ、ゲぁエぅ゛ッ⁈ やえ゛っ、あ゛ぁ゛ア゛あ゛ア゛……………………⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎」
踊る おどル
人形は紅いアカを吐イテ、ビシャリと音を立てて、それキリうごカナくなった。
オレはノドがかわイて、タノシくて——
「ア゛ハハハ!」
————その首筋に、あるはずのない牙を突き立てていた。
首筋に牙が滑り込み、血の温かさが口内に広がる。鉄くさいその液体が喉を通るたび、身体中が歓喜に震え、全身の毛穴が開口する。視界はチカチカと明滅し、口内に広がった温もりは遂に全身を燃えるように巡っていった。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
「ハっ! …………あ、え……」
渇きが満たされると、身体を駆け巡っていた熱は徐々に鎮まり、思考を覆っていた赤い霧が少しずつ晴れていく。視界は本来の色を取り戻し、現実味のない寝起きのような感覚に眩暈がする。
意識がはっきりしてくると、オレは地面に座り込んでいた。なんだかさっきまでとくらべて体が軽い。ただ、口の中がジャリジャリするのが不快だった。まるで砂でも口に含んだみたいだ。
今のところ目覚めるたびに不快な味を感じている気がする。ただ、なんだか体にこびりついていた怠さは軽くなっていた。オレは寝ていたんだろうか? それで、体調が安定した?
結局、寝れば改善したということは、あの気だるさや不調は寝不足が理由だったんだろうか?
「ん——? これ…………」
ふと見ると、目の前には死体がある。
もう死体は見慣れていたが、その死体だけは他と違った特徴があった。
「干からびてる……?」
そう。その死体は水分を抜き取られたような、不気味な萎れ方をしているのだ。こんな死体は、さっきまでなかったはず……。
「なんだよ……これ……」
不気味なのは、死体だけじゃない。その周りもだ。死体の周りにはドロリとした赤い血と…………それを舐めとったような跡が残っている。
いやな……予感がした。
舐めとった痕跡は、地面に赤い血を塗り広げている。その無規則無秩序な舌運びから感じられるのは、狂った獣性だけ。そこには理性のカケラもない。
「ッ————」
急に、耳鳴りがし始める。それはまるで、オレから何かを必死に隠そうとするみたいで——
「これ……、オレ…………」
————それにも関わらず口内から響いてくるジャリジャリとした音は、まるでそんな努力を嘲笑うようだった。
この時点で、オレはソレに気付いてしまった。
「オレ……っ、うそだ! ちがう! オレはちがう‼︎」
必死に叫ぶ。バカなことを考えようとしている思考を、叫び声で必死に押し留める。
だけど、冷静な自分が囁いてきた。
オマエ、さっきよりコエがトオルじゃないか、と。
その囁きで気づいた。のどの渇きが、さっきよりずっとマシになっていることに……。
ジャリジャリ
カチカチ
ジャリジャリ
カチカチ
耳を塞いでも聞こえてくる音は、震えで打ち鳴らされる歯と、砂の音だった。血に湿った土の匂いが、吐く息を染めている。
体が熱い。視界を徐々に紅が侵食してくる。
知恵熱を何十倍にもした灼熱は今にも脳を焼きそうで、混乱はオレから正しい呼吸と冷静さを奪っていった。
「ハァッ、ハァッ——! も、もうやめなきゃ! おちつかないと、かんがえちゃ……グッ……ダメだ!」
致命的な予感を前に、咄嗟にそう口に出して目を閉じる。規則性を失った呼吸も無理やりに、首を絞めてでも止めた。
そうして呼吸が止まったら、目を閉じたまま空を見上げて、胸に手を当てる。落ち着こうとすると、自然とこの姿勢になっていた。
「フゥーーーーッ、フゥーー……、ふぅぅ~~~~……」
少しの間、そのままの姿勢で深呼吸を繰り返す。繰り返す度に、呼吸は規則性を取り戻す。
体の中で暴れていた熱は、吐く息に溶けて口から外へと出て行く。
辺りの音に集中すると、少し湿り気を帯びた涼しい風が、やさしく肌を冷ましていく。
その風の冷たさが、息を吸うたびに身体中へ巡り、赤熱した脳を冷却するようだった。
「……………………」
風の音しか聞こえない、静かで心地良い時間。
こうしている間は、異常な現実も歩みを止めて、追いかけてくるのをやめてくれるような……。
そんな妄想が、今はとても説得力を持っていた。
「…………」
それでも、何か違和感があった。
その違和感は、ナニカがないと告げている。あるはずのナニカがないと、警鐘を鳴らしている。けど、目覚めてからこっち、ないものだらけだったはずだ。記憶すらないのに、なにに今さら違和感を覚えているのか。
「————」
違和感は右手から。
視線を向けても、おかしなところはない。
ただ、病的なまでに白い手が胸に押し当てられているだけ。いくら集中しても、胸に触れている感覚以外、何も感じない……。
「————————ぁ」
なにも、かんじない。
あるべきものも かんじない 。
鼓動さえも かん じ な 。
「————————あ、ぁ」
————心臓は動イていナカった……。
「アァあアああぁアあアァああ————ッッッッ!?!?」
獣の様な、甲高い咆哮が響き渡る。
それは大気を振動させ、村中を駆け抜けた。
視界を紅が染め上げる中、理性は混乱と狂気に飲まれ、もはやここに理性の居場所はなくなっていた。