一番不幸な臆病者の被害者
日々型警察署から慶介が出てきたのを見た僕はさわやかに手を挙げた。
彼の横をさも長年の友人のように連れ立って歩き始める。もちろん、僕はそんなことは思っていない。
「君の方は暇なのかい」
「今は汚職議員を追ってる」
有名な政治家を挙げられた慶介はいささか驚いたようだった。
「それは解決のめどは立ったのかな」
「まったく」
実際はまったくというほどではなかったが、行き詰っている状況には違いなかったので、簡潔にそういった。
「秘書をだしにした捕まえ方になると、九条君は嘆くとおもうけど」
「花がなくなってからやけに本部が蒸し暑くてねとは冗談でも、九条さんがいないのはこたえるんだよ」
慶介は何とも複雑そうな顔をする。九条さんが本部落ちした原因であり元凶なのだから当たり前だ。
裏道まで歩くと古民家風のたたずまいの店が並ぶ通りに差し掛かる。慶介はその店の一つで足を止めたが、中に入る気はなさそうに見えた。
しかし、すぐに左手で扉を開ける。歩いてきた方向からすると左の方から開けるほうが楽なのにと思いながらも自分も敷居をまたぐ。
案内人がいないと思ったら、慶介がベルを取った。それが隅に置かれていたことを考えれば手馴れている。
ちょうど帰りの客の見送りに店員がやってきた。
「気を付けてお帰りください」
そういってから、僕らへいらっしゃいませと声をかける。帰りの客は慶介が開けなかった方の戸に手をかけた。
わざと古く見せかけている店もあるが、この店は本当に古い建物のようだ。扉は歳月を経て二階の重みに耐えかねて、枠を歪めているようだった。立てつけの悪さにしくはくしながら客は帰って行った。
「君の行きつけの店に連れてきてもらえるとは光栄だな」
「誘っちゃいないよ、仕事だろう」
「まさか、君の見張り役は外にいる。僕は君を僕の暇つぶしの道具にさせに来たんだ」
「相変わらずだね、池澤。ところで、ここは僕の行きつけの店とは言えないが」
「それにしては、慣れていた。君は二度同じ店には寄らない主義だから、よほど気に入っているとおもったんだが」
「外れでもないよ。前に来てね、ナポリタンにはまった」
「なんだ、和食の店じゃないのか?」
「洋食もある。おいしいからお勧めするよ」
「君が二度通うなら、そうなんだろう」
「だがね、池澤。別に、僕はポリシーを持ってそうしているわけじゃない。二度といけなくなるというのが正しいんだ」
「なんだ、先月のが響いているのか」
「会計をしてから腹を下して、御手洗に駆け込んで戻ってきたら、食い逃げ犯に罪をなすりつけられたことか? あれがまだいい部類なのは、君も知っていると思ったよ。確かに、現行犯逮捕されたから、あそこに居合わせた人は皆、犯人は僕だと思ったに違いないがね。ああ、恥ずかしい」
「……僕もナポリタンを注文することにしよう」
僕はそっと、話をずらした。
本堂慶介とは小学生からの付き合いだが、どうも彼は不幸すぎる。自分だったら、とっくに気がふれていそうな気さえする。
まあ、しかし九条さんを取り合うライバルというだけで僕自身は本堂慶介を心配してやる義理もないが。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
『ナポリタンを二つ』
「は、はい。ナポリタンを四つでよろしかったですか?」
そんなわけがない。僕はいたって小食だ。このスタイルの良さを見てわからないか。
「僕は一つだ」
「僕もだから一つずつ頼みます」
「はい。ナポリタンを御二つ。仲がよろしいんですね」
「……」
僕は黙った。
「ええ。小学校以来の親友です」
「そうなんですか。ナポリタン、すぐにお持ちしますね」
店員が去っていく。
「で、誰と誰が親友だ」
「僕と君のつもりだ。もっとも僕の一方的な認識であっても、僕は構わないけどね」
慶介の慣れないペースに持ち込まれていく。
睨みつける僕を見ずに、メニューを開いているところなど、いらっとする。
「お待たせしました。ナポリタン御二つ。伝票、ここへ置きますね」
伝票は、一枚だ。
ここは僕持ちで構わないだろうと手を伸ばすと、反対側から引っ張られた。
「いつも九条君にはお世話になっているから、ここは僕がおごるよ」
「いや、こちらこそいつも九条さんが世話になっているから、おごろう」
慶介は黙った。伝票を持ったままで。
それから、渋い顔をする。
「……それは、君が言ったら嫌味だろう」
「嫌味だからな」
しばらく、互いに相手を見た後、一時休戦と伝票を真ん中に置く。
大の大人の言い争いというのはいい加減に人の目を引いて気まずいが、ナポリタンはおいしい。
「だけど、お前。僕が言うのもなんだと思って一度は口を閉じたが、礼というなら九条さん本人にするべきだろう。何が悲しくって僕がライバルにこんなことを言わなくてはならないかは甚だ疑問だがね」
「何が悲しくって、って君、明白だと思うが」
慶介が食べようとしていた手を止めて、屈んだ姿勢のまま僕を見る。
「それは九条君が君を軽薄なチャラ男だと思って、相手にしていないことだろう?」
ガタン。
「言ったな――!! 誰が軽薄なチャラオだ! 僕は東大を主席で卒業してエリートコースを驀進中の池澤博文だぞ! 誰がチャラ男だ――!!」
「……それこそ、九条君に言ったらどうだろう。飲食店の中でなく」
「お、お客様! どうかなさいまいしたか!」
「ごほっ、ごほっ。なんでもない」
「おさわがせしました。お会計頼みます」
「は、はい」
目の前のナポリタンの残りを口に押し込んで、慶介が立ち上がる。
気づいた時には伝票も持って行かれていた。
「まったく、これでもう僕の行きつけの店にするという野望は終わってしまった。あーあー」
「僕は謝らないぞ」
あんなふざけたことを言った慶介が悪いのだ。
それはそれとして真剣な調子になって言った。
「ところで慶介、僕は別にお前と食事するためだけに来たんじゃない」
「ああ、知ってる。留置所明けで疲労困憊している僕に追い打ちをかけに来たんだ、絶対」
「いや、暇つぶしをさせに来たというのは、建前でって……なんだ割と当たっているな」
池澤は慶介の目元を見た。これで神経は正常なのだから、人並みに疲れはしているだろう。だからこそ漬け込む場所は多いと、池澤は確かに本堂慶介に追い打ちをかけに来たのだ。
「九条文美を返してほしい」
歩きながら、慶介は目を閉じた。
危ないから、前と現実をよく見ろ。
「あいまいな態度はやめて、九条さんに告白しろ。君が九条さんと個人的に付き合おうが、それが彼女の選んだ結果なら仕方ない。だが、警察官としての九条礼美を僕に返してくれないか。今はまだ粗削りなところもあるが、それさえ含めて彼女は有能なんだ。僕の将来の右腕としてふさわしい。彼女以上に成長しそうな連中はいやしない」
慶介は口を開いた。聞こえてきた声はかすれている。
「……僕は、彼女を引き留めてるかな? 今回は彼女の管轄で起こった事件だからこそ九条君に頼みはしたし、九条君が警視庁本部から所轄の刑事になった原因は僕だ。だが、だからこそ僕は九条君には警視庁へ戻ってほしいと誰よりも思っているつもりなんだよ」
「だが、九条さんはそうじゃない。彼女には正義感があるが、それは極めて感情的な……親密的なものだ。もともと彼女が警察官になった理由は両親を殺された彼女のような被害者を救うためだ。彼女は被害者に誰よりも感情移入してしまう。そして、これが一番重要なんだが」
僕は一度言葉を切った。
「本堂慶介は、九条礼美にとって誰よりも不幸な被害者に見えているんだよ」
その言葉がどれくらい残酷に響いたかはわからないが、慶介は立ち止まった。
「僕には秘密がある。とても……美しい秘密が」
それは聞いたことのあるセリフだった。
「シュトルムのみずうみか」
「ああ、美しい作品だ」
「だが、あれは初恋のかなわなかった老いた主人公の回想だぞ。秘密がなんだったかは知らないが、学業ばかりに目を向けて両想いの女の子を失ったんだ。作中で彼らは結婚を約束した仲だったが、お前と九条さんはそういう仲でさえない。なんだ、君は九条さんを諦めるとでも言っているのか」
「……なあ、池澤。ところで、僕はこれまで一度も九条君が好きだなんて言った覚えはないんだが?」
そんなのは見ていれば、分かるだろうが―――――!!
本日二度目の叫びだけは胸にしまい。
「臆病者が」
僕はその場を一人、後にした。