アングレカム
「なれ初めは妹が私に両親の相談をしに来た時ですね。私は連絡を絶っていますが、日和の方はわりと良好な関係を送っているようです。でも、まあもめごとがないわけじゃないようです。それを含めて家族している感じではありますけど。それで、ある日親と喧嘩したと私に愚痴りに彼女は会社のこのフロアまで来たわけです。就業時間外もたいてい私はここにいますから」
冴部紗が遠い目をする。
「その日話を聞いていると、途中で私がやり直しておくようにと言った書類を持って楠本が上がってきました。互いに目を瞬かせて相手を見て、それからふいと視線を外していました。でも彼が出て行ってしまうとすぐに私の首根っこをつかんだ日和は楠本の名前を聞き出しました。窒息するかと思いましたよ。楠本も次の日に今まで興味を示したこともない私の家族について少しずつ聞き出そうと躍起になり始めて、そのうちいつの間にか彼らは付き合っていたんです。婚約したのは、五か月ほど前。楠本が株で失敗する二か月ほど前のことになります」
株で会社に損失を負わせた楠本を有能であるからと言ってやめさせるでもなく営業に送るとは大胆なことをする人だなと思ったがそれは妹の婚約者だからというのもあったのかもしれない。
「私は婚約したと日和から聞くまで何も気づいてませんでしたよ」
とにかく、この事実は大きい。
「すみません。妹さんは株の件はご存知でしたか?」
「日和? いいえ、私は言わなかったし、楠本もそういう自分の失敗は人にばれたら終わりだと思い込んでいるような性格でした」
「そうですか。本当に申し訳ないんですが、妹さん自身にも一応事情は聴かないといけません。連絡先を教えてもらえませんか?」
「いいですよ」
割合あっさりと冴部紗は頷いた。
「日和は自分じゃないって言ってましたから」
連絡を入れると、冴部紗日和は自宅にいると分かった。
「女性ですし、彼女は私が訪ねてみます」
「そうだな。小野田はどうだ。冴部紗かゆらの事情聴取の役には立ったか」
「ええ……まあ」
「そうか、あんまりか。次は刈羽先を貸そうか?」
「警部、女性宅ですよ……」
一緒に行ったらこっちは激しく気をもむじゃないですか!
「はは。そうだな、北畝を連れて行け。こっちは古賀と野分、あと冴部紗のアリバイに嘘がないか追ってみる。やっこさん、本当に社から出てないんだな」
「一歩も、だそうです」
一階に戻ると警部たちは社長室を辞した後だった。かかってきた電話に出れば、外だという。
私はCCD株式会社の前で北畝と合流した後、教えられた住所を辿って冴部紗日和の家を訪ねた。
比較的快適な車の運転で着いた彼女の家は四階建てのピンク色のマンションだった。
入ろうとした入り口で二頭のゴールデンレトリバーと遭遇した。大きな巨体に襲われた私はひっくり返った。ほっぺたをなめられる。
「きゃっ」
「ジュリちゃん! エリちゃん! ほら、止めなさい!」
「わあ、かわいいな。よしよし」
北畝だけはマイペースに犬の背を撫でていた。
「本当に、すみません」
「い、いえ」
飼い主は頭を下げるとジュリちゃんとエリちゃんとともに歩きだし、走り出した二頭に引きずられてあっという間に消えていった。
「す、すごいなあ」
「かわいいけど、世話は大変そうですね」
「犬といえば、楠本の足にあった犬の噛み傷」
「小型犬で歯の形からダックスフンドとか赤ちゃん柴犬とかに近いっていうのですね。でも今回の事件とは全く無関係に噛まれたのかもしれない」
「今まで調べたなかには、犬出てきませんでしたもんね」
しかし、すぐに楠本がどこで噛まれたのか判明した。
冴部紗日和は犬を飼っていた。
耳触りの心地よい穏やかな肉声。
「いらっしゃいませ」
そう出迎えてくれたのは、疲れた顔つきの女性だった。泣きはらした後の残る目。眠っていないような隈。血色は悪く、満足に食事を取っていないのかもしれない。そんな中にも光って見える美貌に思わずため息をつきそうになる。このかわいさを一ミリぐらいは貰いたかった。
「日々型警察署の九条文美です」
「同じく、北畝葵です」
「あおいさん……アオイさん……。もしかして、お花の葵?」
「あ、はい。源氏なんかの」
「素敵。アオイ科の植物はいろいろとあるけれど、葵の花言葉は大きな志、待望、野心、気高く威厳に満ちた美、高貴。社長や聖職者や貴人に送りたい花よ」
「僕は、そんな大物にはなれませんでした」
カラ元気を振りまくような日和の高いテンションにも同様せず、北畝は柔和に笑う。
一緒に口元に笑みを浮かべた日和は、あっと口を押さえた。
「すみません。思わず……どうぞ気にしないでください」
顔を赤らめて、私たちを中に入れる。
部屋の中から、ダックスフントが駆けてきた。ミニではない。
「よしよし。ミレニア、お客さまよ」
私は北畝を見た。うなずいている。
「冴部紗さん」
「はい」
「私たちは電話でもお話ししたように、楠本祥大の殺人事件について調べています。いくつかお尋ねしてよろしいですか」
「ええ」
「楠本さんと付き合い始めたのは一年ほど前です。私、どこか陰りのある人が昔から好きで、会社で彼に初めて会った時にもああいいなって」
「それで婚約もなさった」
「ええ。てっきり兄も付き合っていると気づいていると思っていたから、飲み物を吹かれたのにはこっちが驚きましたよ」
「そうでしたか」
部屋の中は女性らしいかわいらしい小物のほかに、たくさんのトロフィーや盾や賞状が飾られている。
「これ、全部兄のなんですよ」
私の視線に気づいた日和が立ち上がる。
「兄は昔から恵まれたひきこもりなんです。実家にいたころはほしいものは何でも買ってもらっていました。兄の場合はそれが知的好奇心を満足させるものに偏っていて、私は学校に行っていても兄には一度も敵わなかった。次から次へと賞を取って、兄は地元じゃ神童だなんて言われ始めて、でも兄は自分を嫌悪するばっかりで。ここにあるのだって全部捨てようとしていたんですよ」
「自慢のお兄さんなんですね」
「はい。才能があったから、今も実力主義の古賀社長に拾ってもらって。良かったです」
「楠本さんのことに話を戻しますが、もしかしてこちらの犬に噛まれましたか」
「ええ。ミレニアちゃんに」
話の邪魔になるからと日和が隣の部屋に入れた犬の吠え声がよく聞こえてくる。
「あの人、婚約してしばらくすると機嫌が悪くなって、何か考え込むことも増えてしまって……。どうしてかわからないから励ましようもなくって。兄は仕事が忙しいだけだなんて言ってましたけど、もしかして別れたいのかなと思って、私この部屋に彼を呼んだんです」
「それは、いつのことですか」
「彼が亡くなる一日前です」
「彼はすごく不機嫌そうで。私に呼び出されたのが損なに迷惑なのかなって別れを切り出したんです。なのに彼、急に怒りだして、私につかみかかってきたんです。そんな私を守ろうとしたミレニアは彼に噛みついたんです」
「いいワンちゃんですねー、それは」
北畝は目を細める。
「本当に」
日和の部屋にはミレニアの写真が電話台の横に飾られていた。
「いつから飼われてるんですか」
「大学に入るちょっと前だから、二年前? かわいそうに雨にぬれていたのを拾ったんです。無責任な飼い主だとは思うけど、保健所に連れて行かれる前に出会えて本当に良かった。初めての一人暮らしが全然寂しくなかったのも全部ミレニアのおかげなんです」
写真の一つを胸に抱く。
電話台の前には変わった植物の鉢があった。花はクリスマスツリーのてっぺんの飾りのような形をしている。
「これはなんて名前の花なんですか?」
「……アングレカム。ラン科。多年草の常緑樹、樹なんです。南米に咲く花でこうして植木鉢に入れておかないと二十メートルほどの高さに成長するんですよ」
「すごくお詳しいですね」
「植物が好きなんです」
「これは一からお育てに?」
「いえ。残念ながらネットで買ったものです」
悪くはないのだけれど、何とも言えない気持ちになった。
「ところで、いつもお菓子などは食べる方ですか」
「いえ、私甘いものを食べると気分がすぐれなくなるもので」
「そうでしたか。それは楠本さんもお知りでしたか?」
「はい。ほら、刑事さん。ケーキ屋さんに連れて行かれても、でしょ」
確かに、困るだろう。
それまで、事件にかかわることをあまり尋ねていなかった北畝だったが、ここで初めて彼の疑問を口にした。
「楠本さんが亡くなったのをあなた僕らが連絡を取る前からご存じだしたが、どうして署の方に遺体に会いに来られなかったんですか?」
確かにそうだ。素直に名乗り出ていてくれれば、彼女を探す手間は要らなかった。
日和の顔から笑顔が失せた。
彼女の眼から涙があふれ出す。美人の涙は強烈なインパクトを起こした。
「……信じたくなかったから。兄にも間違いない僕のところにも警察が来たって言われてもどうしても……。でも自分の目で見てしまったら、認めなくちゃいけないからっ。その、勇気がっ、どうしても……。もてなくっ……て……」
日和は膝から崩れ落ちてしまった。
「すみません。つらいことをお聞きしました」
「いえ……いいんです」