決まってるじゃないか、逃げたんだよ
本堂慶介は、異色の人間である。
近しい人物は彼を迷探偵などと呼ぶが、実際には彼は積極的に身の潔白を暴くことはない。どうしても重要参考人、もしくは犯人として、はたまた被害者として、事件発生後、すぐに警察署や、病院や、人質として捕まってしまうなどで身動きが取れなくなるからだ。
彼は一体何の神様に愛され生まれてきたのだろか――などと、ときどき私は考える。考えたところで事件は起こり続ける。
しかし、本堂慶介の事件は本堂慶介が迷探偵と呼ばれているにも関わらずいままでひとつとして迷宮入りしたものはない。四年間、捜査が続けられたものも中にはあるが、それも先月に解決した。乗り越えられない人間に神様は試練を与えないというが、神様は本堂慶介に事件を与える割に解決できない事件はひとつもないのだ。
だから、私はこう思うことにする。
本堂慶介は殺人事件の神に愛されていない。
本堂慶介は窃盗事件の神に愛されてはいない。
本堂慶介は籠城事件の神に愛されてはいない。
彼はただ、事件を解決する神に愛されているのだ。
本堂慶介は事件を起こすために存在しているのではなく、起こってしまった事件を解決するために、存在しているのだ。そして、今回その推理の神様はビスケットを大量にくれたのだ。
そう、信じる。
・
翌日、CCD株式会社社長とのアポイントメントが取れた。冴部紗、野分とも会わせてもらえるらしい。
CCD株式会社の社長室は一階にあった。
「ふつうは最上階に置くものなんでしょうけど、社長は高所恐怖症で」
「ああ、なるほど」
若い刑事がうなずく。
私は上司野江木と所轄での先輩刈羽先、北畝、そして配属一年目の新米小野田とともにこの会社にやってきた。出迎えてくれたのは第一秘書だという野分だ。痩身の男で生真面目そうな顔をしている。
「こちらが社長室です」
社長室専用と思われる受付嬢の前を顔パスで通り、奥の客間に通される。
「どうも。私が社長を務めています古賀真平です」
かなり礼儀正しい人のようで、どうやら立って待っていたようだ。勧められるまま椅子に座り、彼を観察する。しわひとつないスーツにワイシャツ。テーブルのほうに目を向ければ、計算されているかのように置かれている文具などが目に付いた。自分も座った後、ちょっと横を向いた彼は突然眉をしかめ、野分を呼ぶと首で方向を示した。
「申し訳ありません」
「いや、いい」
振り返れば、アンティークの位置を微妙に変えている野分の姿があった。
「いや、お見苦しいところを。私はああいうのが、どうも気になってしまう性質で。大方、さっき彼に軽く掃除をしてもらった際、ずれていしまったのですな」
「いえ。ところで、さっそく確認したいことがあるのですがよろしいですか」
「もちろんですとも」
「こちらの社の楠本祥大さんが亡くなったことをご存じですか?」
「一から話してもらう必要はないよ。冴部紗君から大体の事情は聞いている。彼は何者かに殺されていて、その犯人の殺害の動機を探っていたら、株の失敗が出た。我々は容疑者として疑われているわけだ」
「そういうことになりますがお気を悪くしないでください。我々も仕事ですので」
野江木は一礼する。
「いやいい。それに私はそれこそ殺したいほどに楠本を恨んでいた。調べに来ないほうがおかしいくらいにだ」
「やはり、株の件で?」
「もちろんだ! この会社は私が若いころから苦心して一から作り上げたんだ。それを存続の危機に陥らせた人間を恨まないほど、私はできた人間ではない」
「そうでしたか」
「で、あの男の死亡推定時刻は?」
「 二日前から一日前にかけての夜十一じから午前一時ごろです。一応ご確認いたしますが、その時間お二人はどちらにおいででしたか?」
苦笑いを浮かべながらハスキーな声で野江木が聞くと、古賀はちょっと考える顔をした。
「二日前なら取引先の企業に挨拶していた日だ」
「確かですか?」
「ああ。野分、その日のレシートなりなんなり一式、出せるな」
「今日は資料庫のカギは冴部紗が持っているはずです。行ってもらって来ます」
「いや、待て」
古賀はなぜか私たちを見た。
「ちょうどいい機会だとは思わないか。この方たちなら」
「・・・確かに、まあ。では、こちらに呼び寄せましょう」
「頼む。しかし、これで安泰だ。犯人と疑われるくらいならもう少し寛容な心で接していたらと悔やんだが、その日のその時間、私は飛行機の中だ」
古賀は体をゆすって笑った。
「ちなみにどなたとどちらへ?」
「韓国に野分とだが、彼は先に帰ったからな。犯行時刻には日本にいただろう」
「そうなんですか?」
「はい。社長のいう通り、日本にいました。至急必要な書類があったので、取りに戻ったんです。今は、社長か冴部紗さんのどちらかは社にいなくてはならない非常時ですし」
「書類を取りに会社に入った。その他はどうですか?」
「夜は久しぶりに自室で寝ていました」
「証明できる人は?」
「独り身ですので」
野分のアリバイは立証されなかった。
「あなたも株の件では楠本さんを恨んでいましたか?」
「はあ。まあ……」
野分はあいまいな返事をする。
「言いにくいだけだ。彼は私が事業進出する際に乗っ取った会社の社長の一人息子だ。この会社を潰す気で入り込んだらしいんだが、社員が路頭に迷うことを思うと直接手が出せないようでな。だが、彼の所為でなく潰れるなら、目ぐらい閉じるだろう」
「じゃあこの会社に愛着はないんですかな?」
野江木は野分に問いかける。野分は幾分開き直ったかのような口調でそれに答えた。
「冴部紗さんのおかげで持ち直しそうですし、それならそれで私が社長になります。乗っ取り返しても親は満足するでしょうから」
「こういう男だ。疑うなら、私が死んだときにするといい。げふっげふっ」
急き込んだ古賀に野分は慌てたように駆け寄った。
「大丈夫ですか! 失礼します」
あわてて背をさすっている。
「いや、大丈夫だ。ちょっとたんが絡まってな」
「また薬を飲み忘れたんですか。どうぞお水です」
ささっとコップを渡す。その仕草は自然でとても警察の目があるからといった演技のようには見えなかった。古賀の態度も自然なものでいつものやり取りのようだと容易に察することができる。
「ご病気ですか?」
私が心配になって聞くと、古賀は頭を下げる。
「お見苦しいところをお見せしてすみません。少し風邪気味なだけですので、お気遣いなく」
「そんなところをお時間いただいてすみません。お大事にしてください」
野江木に従って私も頭を下げた。
「失礼します」
冴部紗かゆらだった。
「資料お持ちしました」
私たちが入ってきたのとは別の奥の戸から現れた彼は最初見た時と同じように猫背だった。その背のまま顔だけ起こした彼は、一瞬動きを止めた。
「ああ、もうそんな時間……」
彼は私たちに挨拶し、古賀のデスクに資料を置く。
「頼まれた、社長の四日前の出張記録です」
「ありがとう」
古賀は資料を見始める。
冴部紗はきょろきょろと眼球を動かし始める。
「お、お飲みものがまだですね。お茶をお入れします」
「あ、お気遣いなく……」
という間もなく、冴部紗は来た方から消えてしまった。彼にもまだ聞きたいことがあるのだが、仕方ない。
「あ……、あと私もお尋ねしたいことがあるのですが」
冴部紗の行動の素早さに茫然としたものの、私は古賀と野分に向かい合った。
「楠本さんはお菓子がすきでしたか?」
「菓子?」
「たとえば、ビスケットなどですが」
「ふむ。私はあんまり彼が食べている姿など見なかったがね」
「我々は社長の前では接待以外で食べ物を口にはしませんから」
古賀は盛大に苦笑する。
「では、野分さんは?」
「彼が甘いものを摂取している姿は見たことがありません。コーヒーも無糖ブラックでした」
「そうですか。ちなみに誰かお菓子を送る相手がいたとかは」
「さあ」
「子供が好きだったとか」
「それはないです。楠本は子供嫌いで、ああいう低能な生き物には耐えられない、とか言ってしまう性格でした」
「……そうですか」
困った。楠本に好感を持てそうにない。
「失礼します」
今度は女性の高い声がした。
「お飲物をお持ちしました」
「入ってくれ」
私たちは状況が掴めずに目を丸くする。その間に行きに見た受付嬢はささっと動いてお茶を並べる。
「失礼しました」
受付嬢が出て行ってしまってから、野江木が捜査官全員の疑問を代表して口にした。
「あの……冴部紗さんは?」
そう冴部紗さんはお茶をいれるといって出て行ったではないか、会いたいといっていたのもうまく伝わっていない様子だったし、彼はいったいどこに行ったんだろう。入れ違ったのか。それならそれで古賀もなにか受付嬢に聞くと思うのだが。
古賀と野分はすまなさそうな顔をしている。
「戻ってこないよ」
「は? いえ、あのお茶を取りにって」
「私は彼にお茶くみの仕事なんか一度もさせたことはない。時間の無駄だからね」
「では、彼は何をしに、どちらへ?」
古賀は自分の顔の前で腕を組みなおす。
「決まってるじゃないか、逃げたんだよ」
古賀は重苦しい顔で、冗談めかすように言った。