幸運の尻尾2‐1
昼下がりのティル・ナ・ノーグの街は賑やかであった。
石畳を行き交う人の流れに沿い、時に逆らい、アールは目抜き通りを闊歩する。地区毎の特色を出しているのか、場所により石畳の様子が若干異なっているのが面白い。色違いの敷石を組み合わせ描き出された幾何学模様を踏み締めて、アールは商店街へと辿り着いた。
軒を連ねる種々の店屋を冷やかしながら特に細工物屋や宝石店の固まっているエリアを目指す。覗いて回る店先は土産物屋みたいな所から敷居の高そうな宝飾店まで様々である。
試しにどこか入ってみようか、とアールが思ったその時、一軒の店が彼の目に留まった。
恐らく装身具店なのだろう、張り出し窓へ飾られているのは色も取り取りの首飾りや腕輪である。建物はなかなか立派な造りだ。店舗部を一階のみと仮定してもパッと見で地上五階建て、隣接する他店より広いのがわかるが、かと言って客を選ぶような敷居の高さも感じない。陳列された商品は上等そうである――が、なによりもアールの目を引いたのは店の外観ではなく、看板の方だった。
「ヌ、エ、ヴェ・コラ、ス……変な名前」
細工の施された木製の看板に刻まれたのは異国の言葉だ。読むだけなら一般のアーガトラム民にもできよう。意味まで解するには専門に学ばねばならないが、諸国を遍歴するアールは語学に強い。
“Nueve Colas”――直訳すると“九尾”とでもなろうか。“九本の尻尾”とはまた珍妙な店名である。周りが「○○の店」や「××宝飾店」なだけに地味に気になる。
営業していることを示しているのだろう、両開きの扉は開け放されている。興味をそそられ、アールは店内へ滑り込んだ。
入り口へ一歩、足を踏み入れたアールの耳に真っ先に飛び込んで来たのは、甲高い女の声だった。
「ええー? 緑ですかあー? ピンクじゃなくてえー?」
「ピンクもイイけど、キミには緑が似合うと思うんだけどナァ」
「そうですかあー?」
アールがそっと様子を窺うと、広い店の奥、カウンターの隣に設置された鏡台の前に客と思しき少女が腰掛けていた。
少女はアールとそう変わらない歳だろうか。施された化粧のためか気だるげな表情のためか、彼女の横顔はやや大人びて見える。もう少し薄化粧でも良いのでは……と思いつつ、少女の纏うパフスリーブから露わになる鎖骨や両の肩に、ついついアールの目は引かれてしまう。悲しきオトコの性分である。
少女の後ろに立つ男が店員のようだ。もしかしたらヒールの高いブーツを履いているのかもしれなかったが、それを差し引いても背が高い。
壁際の陳列棚に隠れて男の顔は見えないが、いい声である。地声なのかはたまた接客中だからなのか、響きは柔らかい。よく通るけれどキンキン尖る類の声質ではなく、適度にしっとりしている。
「試すだけ試してみない? ね?」
「ええー? でもお、店長さんがそこまで言うならー」
どうやらこの男性店員は店長らしい。
察するに若い男の声だ。音域としてはテノールに分類されるのだろうが、声音には不思議な味わい深さがあって、鼓膜を心地よく揺らす。この声で物語られたらよく眠れそうだ、とアールに思わる美声だった。
対する女性客の声音は甘ったるい。媚びるように語尾を伸ばす口調から、この店員に気があることが窺えた。
店員が一本のネックレスを取り上げて少女の首もとに宛がう。華奢な金の鎖に繋がれた緑の石が、やや赤みを帯びた彼女の肌にぱっと映えた。
「ほら、この色の方がキミの綺麗な肌が引き立つよ。ね?」
「本当……そうみたい」
「でしょ? また可愛くなったね」
「可愛くなりましたあー?」
「うん。元々魅力的だったけど、こんなに雰囲気が変わるなんて、ボクも驚いたな」
「それはー、店長さんのセンスがいいからあー」
「わかってないナァ、素材がイイんだよ。キミみたいに可愛い子を飾るお手伝いができるなんて、ボクって幸運だな」
「やだあー、店長さんったらあー」
クサイ。
本心かお世辞か知らないが、男の舌がさらさらと紡ぐ褒め言葉がむず痒い。誰にでもこういうことを言っていそうな馴れた口調なのに、贈られた賛辞に女性客があっさり気分を良くしていることもアールに小さな反感を覚えさせた。なんとも言えず妬ましい。
彼らはまだアールの入店に気付いていないようだ。なんとなく奥まで入って行き難い空気を感じる反面、もう少し二人の会話を聞いてみたい好奇心も湧いて来て、アールは足を迷わせる。
アールが逡巡する間にも男と少女の会話は続いていく。
「ねーえー、今日こそ教えてくださいよおー」
「んー。なにを?」
「店長さんってえー、実際のトコ、いくつなんですかあー?」
「ボク? 二十五歳」
「ええー? 五年前からずっとそうじゃないですかあー。店長さん、もう三十代ってことになりますよおー?」
「ん? 三十路に見える?」
「見えないから困ってるんですよお。ねーえ、」
若作りの店員なのだろうかとアールが考える傍ら、少女が腰を捻って男を振り返った。小首を傾げた彼女の黒髪がふわりと靡く。長身の店主を見上げ、甘えるように少女が微笑む。婀娜っぽい仕草である。それなりに恋愛してきたのだという自信が、彼女の笑みから垣間見えた。
客が言葉を続けようと口を開く、しかし先手を打ったのは男の方だった。
「年齢や過去って、そんなに重要?」
「え……」
小さな子をあやすような口調で問い返され、少女が刹那、言葉に詰まる。その一瞬の隙を突くように、不意に男が身を屈めた。どこかで、しゃらん、と微かな鈴の音。
アールの位置からは客へ向けられた店主の顔を確認することが出来なかったが、一連の動きで彼が浅黒い肌に白っぽい髪の持ち主であることが垣間見えた。
唇を少女の耳元に寄せた男が声を潜め、囁いた、
「大切なことは今、ここに、キミとボクがいること――違う……?」
耳朶に甘いテノールが一変、ゾクゾクするような低音で響いた。
先程までの人懐こい柔らかさとは違う、濃密で妖しい男の声音である。同性のアールが思わず赤面してしまうほど艶っぽいそれは、先客の少女を沈黙させるに充分らしかった。店の入り口と奥とで離れていても、彼女の肌が火を灯したように赤くなったのがわかる。
アールの耳が微かに拾えた声だけでこの色気である、鼓膜に直に注ぎ込まれた少女への威力は推して知るべし。
いっとき呼吸が止まってしまったらしい少女が喘ぐように胸を上下させる。彼女の震える吐息の音がここまで聴こえて来そうだ。少女がとろんとした目で見つめている様子から、彼女の間近に迫った店主は顔も悪くない模様である。ますます憎たらしい。
やがて、男の問いに答えるように少女がゆるゆると首を振る。やっとのことでそれだけ、といった力の抜けた動作だ。蕩けた表情が少女を幼く見せる。いまなら男になにを言われても、彼女は諾々と従ってしまいそうである。
店主が微かに笑いを洩らす。
「いい子だね」
男の吐息が皮膚を掠めたのだろう、ぴくん、と引き攣るように少女の肩が小さく跳ね上がった。
いかがわしい。
彼らはなんら触れ合っていないし卑猥な言葉を吐いたわけでもないのに、いかがわしい。空気が甘ったるくて鼻血が出そうだ。
これ以上ここに居るのはなんだか不味いような気がして、アールはそろりと後ずさろうとした――が、後退し過ぎた彼の右足は、派手に扉の角に衝突したのだった。
「~~~っ!?」
ガツン、とやたら大きく響いた衝撃音で、少女がはっとこちらへ首を向ける。
踵の痛みに気を遣る間もなく、アールは少女とばっちり目を合わせてしまった。
「……!!」
「……っ!!」
「いらっしゃいませー」
これ以上は赤くはなれまい、と思われた少女の顔が見る間にその色を増していく。どこから見られていたかはわからないけれど恍惚としていた自分を目撃されて恥ずかしい――そんな思いが言葉はなくとも伝わってきて、アールもつられて赤面する。
少女とかち合った視線を外せず、青年の額に妙な汗が噴き出した。間の悪いことこの上ない自分がただただ恨めしい。まるで――というか、結果的に――覗き野郎ではないか。
すっかり狼狽える少年少女をよそに、店主だけが平然とアールへ声を掛けてきた。見ようによっては女性客に迫っていたとも取られかねない距離だったというのに、彼の声にも態度にもまるで動じる気配がない。
男の声で我に返ったのか、少女は鏡台の前からさっと立ち上がった。
「……きょっ、今日はもう、帰りっ、ますっ……!!」
「ん? そう? これどうする? お値段は銀貨五枚だけど、如何なさいますか、お嬢さん? お取り置きも可能だけど」
「かっ、買いますっ……!!」
「毎度ありがとうございま~す。包む?」
「そのままでっ!!」
「あれ? そう?」
あくまでのんびりとした口調の店主とは裏腹に、少女はどもりながら早口でまくし立てる。
彼女は鞄の中から銀貨五枚を取り出すと、カウンターの上にぎくしゃくと並べた。代金を確かめた男がにこやかに差し出したネックレスを受け取るのもそこそこに、少女は慌ただしく入り口へ向かう。
まごつくアールをすり抜けて、少女は逃げるように店を出て行った。後に残されたのは固まったアールと店主である。
気まずい。
右足の踵は未だにじんじん痛んでいるが歩けないほどではない。自分も店を出ようと思いかけたアールだったが、奥から投げ掛けられた男の声に引き止められた。
「お客さん、ずっとそこに居るけど、中まで入ってきたら?」
笑みを含んだ声である。そこに揶揄するような響きを敏感に感じ取って、アールはむっとした。
ここでこそこそと店を出たら負けたような気がして癪である。なんの勝負か謎ではあるが、精一杯の平静を装って、アールは憤然と店の奥へと歩を進めた。
物珍しそうに辺りを見回しながら、アールはゆっくりと店内を歩む。アールの腰の高さほどの陳列棚が四列、整然と奥まで伸びている。その上にはネックレスや指輪などの装飾品がずらりと並ぶ。壁面も天井まで届く棚で埋め尽くされ、そちらにもぎっしりと商品が置かれていた。
壁の張り紙に記された「マジックアイテムをご所望の方は店員までお申し付けください」の文字から、一般の装飾品だけを扱う店ではないことが知れる。商品の隙間を縫うように置かれた値札を見る限りピンからキリまで、品揃えも値段も豊富なようである。
木製の陳列棚や柱に施された装飾が、アールにどこか異国情緒を思わせる。よく磨かれているとはいえ年季の入った壁際の柱の彫刻は、植物を模したもののようだ。
その緻密さに感心しつつ下から上へと視線を辿らせたアールは、柱の上部に大人の握り拳ほどもある大きな赤い石が填められていることに気が付いた。
(なんだあれ……ガラス? 宝石……?)
よく見ると店の四隅にも同じような石がある。ルビーやガーネットのような色をしているが、店の上方は薄暗く、詳細は判別がつかない。四本の柱と四隅とで少なくとも八個は確認できる。
装飾だろうか、それにしてはカットが施されているでもなく、ただ丸く削られただけの石である。なんの意味があるのかはわからないがあの大きさだ、イミテーションでなければ恐らく目の玉が飛び出るような金額に違いない。もしやここは外観以上の大店かもしれない、とアールは思った。
きょろきょろしながら陳列棚の列を抜け、勘定台に辿り着く。アールが硬直している間に戻ったのだろう、カウンターの中に腰を下ろし待ち構えていた店の主が悠然と客を出迎えた。