幸運の尻尾1‐1
常若の楽園と呼ばれる都市、ティル・ナ・ノーグ。
この街には創業十年、大衆から愛されている公共浴場がある。
名を『藤の湯』。
遠く東、シラハナより渡来したソハヤ・トウドウという男が建立したもので、妻のトモエと共に切り盛りしている。
その湯屋の二階、休憩所の窓辺に腰を下ろす青年が、一人。
十代後半といったところだろうか、少年の面影を残す頬は日に焼けている。赤い髪が昼下がりのぬるい風に流され、また額へ零れかかる。やや乾いた空気が湯上りの肌に心地よい。
窓の外、階下に広がるのは異国情緒溢れる庭園。敷地を囲う漆喰の白壁に樹木の緑が美しい。けれど、青年の表情は冴えない。
ふう、と息を吐き出し、青年――アールは藍色の目を伏せた。アンニュイなのである。
やがて薄く開いた目線をゆるゆると外の景色から屋内へ移す。座り込んでいる小上がりには植物を編み込んだカーペット――東国シラハナの産物で“タタミ”というらしい――が敷き詰められている。この浴場を初めて訪れた際に土足で上がり込もうとして店主に怒鳴られたことは、まだ記憶に新しい。
最初はブーツを脱ぐことに戸惑ったが今ではすっかり馴れたもので、アールもまるで十年来の馴染み客のような調子で堂々と足を伸ばしている。革靴の圧迫から解放された足指に、タタミの感触がさらりと涼しい。
タタミ以外の床は木目の美しいタイルで、そちらは土足で歩いても問題はない――その代わり、入店時に靴の泥をしっかり落とすことを要求されるのだが。
アールが腰を下ろす座敷の対岸にイオリが綺麗に脚を折り畳んで座っている。痺れないのか不思議だが、イオリは平然とした顔で琥珀の瓶を傾けている。
小上がりから少し離れた所に設置された籐の椅子には、ウーホァンが身を沈めているようだ。相変わらず肌色が悪い。声を掛けられたくないのでアールは早々に彼から視線を外した。変な実験に付き合わされるのは懲り懲りだ。
ウーホァンの隣の椅子に腰掛ける人影はフェイシエだろう。埋もれてしまいそうなくらいに小さいのに、皿に山と積まれた団子を次々に平らげている。
「湯上りに琥珀、とろ~り甘くてほろ苦~い、琥珀は如何ですか~」
小上がりの向こうの売店では、シラハナの民族衣装“キモノ”姿で売り子のパティが明るく声を張り上げている。
「一杯たった銅貨一枚、当たりが出ればもう一本♪ ここだけでしか味わえない、藤の湯特製の琥珀を、どうぞ皆さまご賞味くださいまし~」
屈託のない笑顔は見る者にひまわりを思い起こさせる。時折少しばかり伸びる語尾が、少女の朗らかさに拍車をかけていた。
パティの文句に釣られてか、陳列されている菓子や飲料が一つ、また一つと減ってゆく。今日も売り上げは上々のようだ。居並ぶ客の中にはブッカートの姿も見える。また早仕舞したのだろうか。
くるくる動き回るパティに合わせ、高く結われた彼女のハニーブロンドもふわふわ揺れる。少女の纏うキモノは店名と同じ藤色で以て矢羽根が行き違う文様――“ヤハズガラ”というそうだ――に染め抜かれている。彼女の帯の上の胸元は、些か窮屈そうに見受けられた。
それらの情景をぼんやりと眺め遣っていたアールは、不意にパティと目が合った。大きなコバルトブルーの瞳をにっこりさせて、少女がアールに歩み寄る。
「あっ、アールさん。お風呂上がりに甘いもので一息つきません? ひんやり冷た~いクリームとお抹茶の味が上品な藤の湯パフェは如何ですか~?」
パティが“お品書き”と書かれたボードを胸元に掲げてみせる。藤の湯パフェは銅貨七枚で食べられる人気スイーツだ。
藤の湯の甘味が美味しいことは承知していたが、アールは力なく首を振った。
「わりぃ……、ちょっとモノ食う気分じゃなくて……」
「はらら……いつも元気なアールさんが珍しいですぅ。なにか悩みでもあるんですか?」
真ん丸い目を更に丸くさせてパティが訊ねる。
アールはどう答えるべきか逡巡したが、パティの背後、売店の賑わいがひと段落していることを見て取ると、思い切って口を開いた。
「劇場の幽霊の話、あっただろ?」
「あっ、はいっ、やっぱり出たんですってね! アールさんの記事、わたし読みました~!」
パティが興奮気味にメニューを握り締める。
アールは肩を竦めた。
「あの記事、思ったより反響なかったっつーか、あんまり金にならなかったんだよなー……」
ティル・ナ・ノーグの街には週刊で新聞が発行されている。そこに、先達ての幽霊騒動について書いたアールの記事が載った。
劇場レーヴ・ヴィヤン・ヴレに現れた少女の霊と退魔師の少女――いずれ完成させる一大旅行記の中にも織り交ぜたい一編ではあるが、ものは試しと印刷工房に持ち込んでみたのだ。
臨時収入くらいにはなろう、と思っていたのだが、事業者から支払われたのは銀貨五枚。与えられた字数なりによくまとめた方だし、面白く書けたと思っただけに、もう少し評価を――金額的な意味でも――されていいのでは……という不満が募った。
銀貨五枚では、暫くは“ちょっといい物”を口にできるかもしれないが、アールの目指す一攫千金には程遠い。
憤懣遣る方ないアールはリフレッシュの為に入湯へ訪れたのだが、未だに気分は晴れない。
アールが溜め息を洩らすと、励ますようにパティが言葉を募った。
「でもでも、わたしはアールさんの文章、面白いと思いましたよ~。少女の幽霊がふわ~って浮かんで消えるところとかぱあぁって光が差し込むところとか……その場を見てみたかったくらい、すっごく素敵でした!」
「そっ、そうかなっ」
夢見るようにパティが青い瞳をキラキラさせる。それが偽りのない反応だとわかるから、嬉しさにアールは声を上擦らせた。
「はいっ! わたしなんて日記くらいしか書けませんもの~。尊敬します」
「へへっ……ありがとな!」
パティの満面の笑みでアールの顔にもやっと明るさが戻る。浴場を訪れる前に会ったクラリスに――多分、悪気はないのだろうが――「だってそれが評価でしょ? 現実を見なよ、アール君」と笑顔でバッサリ切り捨てられた心の傷も、少しは癒されそうだ。
「しっかし、なんかいいネタ無いかなー。もっと気軽にあちこち見て回りてーけど、モンスターとか盗賊とかウザいしなー」
アールが唇を尖らせる。身体能力も剣の腕もそれなりに持ち合わせているが、気楽に冒険、とはなかなかいかない。仲間を募ればいいのだろうがアールの調査や筆記はギルドのクエストついでになることが殆どで、だからと言ってわざわざ護衛を雇うのも金が勿体ない。
パティがすんなりした人差し指を立てる。
「魔物避けとか盗賊避けのアクセサリを身に付けてみたらどうです? ティル・ナ・ノーグにはマジックアイテムを扱うお店も沢山ありますよ~?」
「や、でも俺あんま金持ってねえし……マジックアイテムって高いだろ」
言って、アールは財布代わりの革袋をちらりと覗く。中に入っているのは幽霊騒動の記事の謝礼銀貨五枚の他、先のギルド報酬の残りである銀貨三枚、あとは銅貨が十三枚。
倹約家を自負しているつもりなのだが、どうも金が貯まらない。アールは密かに首を捻った。
マジックアイテムもピンからキリまであるが、効果の高いものが銀貨数枚で買えるとは思えない。半端な額を出すと紛い物を掴まされる可能性の方が高い。
諦め気味のアールへパティが提案する。
「下見だけでもしておいたらどうです? これが欲しい!って目標を持つときっとお金も貯まりやすくなりますよ~。お仕事がない時でしたらわたしも知り合いのお店をご案内できますし」
「そっか……そうだよな、見るだけ見て来ようかな」
確かに目標物があれば金は貯めやすくなりそうだ。身を守る為のマジックアイテムを持っている方が安心できるのは、言わずもがな。それにこの街には来たばかりだ、色々な店を見て回るのも楽しいだろう。
湯屋の暖簾をくぐった時には沈んでいたアールの気持ちも、元通り前向きになって来た。
幾分かすっきりした顔になったアールになにを思ったのか、パティは陳列棚から一本の琥珀を取り上げて彼へと差し出した。
「はい、これどうぞ♪」
「えっ、これ……?」
「わたしの奢りですぅ。内緒ですよ?」
戸惑うアールへパティがしーっと人差し指を唇に当てる。
慌てて、アールは渡された琥珀をパティに返そうとした。
「わりーよ!」
「いいんですいいんです。アールさん、いっつも買ってくださいますから、そのお礼です。これ飲んで元気出してください」
少女の無邪気な笑顔が眩しい。思いがけずパティの優しさに触れたアールは胸をジーンとさせた。
けれど、女の子――しかも年下――に気を遣われて、奢られるのは……、
(ダメだ! 格好わりーよ!!)
そんな妙なプライドから、アールは咄嗟に声を上げていた。
「じゃ、じゃあ俺、なんか買うよ!」
「ええっ? でも……」
「いいって、今日のオススメはなんだっけ?」
きょとんとするパティを押しとどめ、アールは座敷を降りてブーツを履く。売店に近づいてメニューボードを覗き込むアールへ、パティが品名を指し示す。
「今日のオススメはこのパフェですけど……もしお持ち帰りされるんでしたら、焼き菓子の詰め合わせの方がオススメですぅ。お味が五種類で飽きが来ませんよ♪」
「じゃあ、それ貰うよ」
焼き菓子なら携帯に便利だし、土産物にもなる。世話になっているレイの顔がアールの脳裏をちらつく。
よし、と頷きアールは財布を開いた。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……銅貨十枚、確かに頂戴します。毎度ありがとうございました♪」
アールはパティから菓子の詰まった木箱を受け取る。ちょっとした散財だが、まあ悪い買い物ではなかろう――軽く考え、アールは休憩所を後にした。
その「ちょっとした散財」が積もり積もって財布を軽くしている、という事実に当人が気付くのは、一体いつのことであろうか。
階段を下り、一階のロビーを出たアールは、さてどうしたものか、と少しだけ考える。
パティは仕事のない時に街を案内してくれると言っていたが、そこまで世話になるのも悪かろう。空は快晴、夕暮れにはまだまだ時間があるのだ。自分一人で気ままに商店街を冷やかすのも面白い。
そう決めて、春の如き陽気の中を青年は元気よく駆け出した。
「結局、銅貨一枚で銅貨十枚の売り上げかい……」
厨房の奥から一部始終を眺めていた店主ソハヤが、呆れたように呟いた。主の性格を表すように厨房は整然としている。彼の短くした黒髪にも粋に着熟した真白い着物にも、清潔感が漂っている。
パティは親切心からアールに琥珀を奢ろうとしたのだろうが、結果的にパフェより高い焼き菓子を買わせている辺り、ちゃっかりしている。
「商品が売れるのも信頼あればこそ、です。パティちゃんの日頃の行いがいいんですよ」
おっとりと言葉を放ったのはソハヤの妻トモエである。午後の小休憩を前に、厨房の少し奥で従業員に振る舞う煎茶の用意をしている。
なだらかな肩を伝い背に流れる艶やかな黒髪、着物の藤色が映える肌理細かな象牙の肌、全身から馨る品のよさ――パティが憧れて止まない“白花撫子”の姿そのままに、トモエが淑やかな手つきで夫へと茶を捧げる。
ユータスを風呂に放り込むという一仕事を終えて来たばかりの彼は、妻から手渡された湯飲みを口元に運んだ。嚥下した熱い茶が腹の底まで染み渡る。彼の好みを熟知した一杯に妻の想いを感じ、ソハヤは切れ長の目元を微かに和らげた。
お茶請けにと手製のおはぎを銘々の皿へ配分しながら、トモエが言葉を続ける。
「それに、損して得とれって言いますし」
「まあな」
相槌を打ち、店主は壁に貼った売り上げ表へ線を書き足す。パティの欄にはソハヤのかっちりした筆跡で“正”の字がずらりと並んでいる。
情けは人の為ならず――故郷の格言を思い出し、妙に納得してソハヤは茶をもう一口。
厨房から見えるパティは、今も着々と売り上げを伸ばしているようだ。
「そろそろ休憩に呼んでやるか」
「そうですね」
夫の声に微笑んで、トモエはそっとパティの皿におはぎを一つ多く乗せてやった。
アール・エドレッド。
所持金、残り銀貨八枚と銅貨三枚。