4.あなたが好きです
翌日、俺は職員名簿片手に車で野末の住所近辺まで来ていた。住所は駅近くの集合住宅で、駅前の駐車場に車を止めて、車から出てマンションに向かうべきか車から出ずにこのまま帰るべきか三十分ほど車の中で悩んでいる。嫌っている人間がいきなり玄関先に現れたら怖いだろう。住所は半分公開されているようなものだといっても、知っていることと実際に訪ねることの間には越えられない壁がある。
(傷の具合がどうなのか、知りたいだけだ)
ここまで来る途中、ドラッグストアで買ってきた湿布や塗り薬の入ったビニール袋を片手にいざ車から降りよう、として再び座りなおす。そんなことを繰り返している。いかに駐車場とはいえ物騒な事件の多い昨今、防犯カメラはしっかりついている。駐車したきり人が降りてこない車は怪しまれているかもしれない。
そんなはずはないのに今にも警備員や警察が窓を叩きそうで、焦りばかりが大きくなる。
降りるべきか、降りないでいるべきか。
野末は俺の顔など見たくもないだろうし俺からのものは何であっても受け取らないだろう。せっかくの休日にわざわざ嫌いな人間の顔など見せて気分を悪くさせることもない。野末のことを考えるのならば車から降りないで自分の部屋に折り返すべきだ。でも傷の具合が気になるし別れ際の言葉も気になる、なにより野末に会いたい。
俺はどうしたらいいのだろう。
それから十分ばかりも悩んでやっと俺はがさがさうるさいビニール袋を片手に、のろのろと車を降りた。野末を思いやる心より自分の欲が勝った。
アパートとマンションと団地の中間にあるような、愛想のない古びたコンクリートの四階建ては校舎を思い起こさせた。野末の部屋は三階だ。打ちっぱなしの階段を上がり、薄緑色の鉄製のドアの前に立ったはいいが、まだ悩んでいる。いっそドアノブにビニール袋をひっかけてかえってしまおうか。と思ったがそれでは言い訳のしようもなくストーカーだ。野末には犯人の正体は分からないだろうが、せいぜいまっすぐにごみ箱行きだろう。
それは、俺が手渡しても同じことだろうけど。
玄関を前にどんどん落ち込んでいくとコンクリの床に沈みこみたくなってしまったので、なんとか立ち上がってドアの脇のチャイムを押す……はずがやっぱりこの期に及んで躊躇う指に力が入らない。
「押せ、押せ」
自分の指に話しかけてみる。どうでもいいが今ここを通る人がいたら確実に目をそらされて大きく迂回されること間違いなしだ。ゴールデンウィークの中日の昼間、もともとあまり入居者がいないのかそれともいかにも独身者向けの住宅だからか、玄関の前で不審人物がうずくまっていようが自分の指に話しかけていようが、通りかかる人はいないのは幸いだった。
押そうとする力と、止めようとする力のせめぎ合いの末に押されたチャイムはジジー、だかビビー、だか酷く懐かしい音をさせた。インターフォンなどついていない、チャイムだけのものだったから、野末が在宅しているのならまずはドアを開けるはずだ。
覚悟をして身がまえた時間よりもほんの少し遅く、ちょうど留守だったのかと脱力しかけた瞬間、内側からドアが開いた。不意打ちだ。
野末は俺の顔をみてぎょっとした顔をした。その顔を見て、やっぱり来なければ良かった、と思った。
「昨夜は、お疲れ様でした。あのこれ、湿布とか色々……、捨てても構いませんから、受け取ってください」
「……君は」
後に続くのは決して良い言葉ではなかっただろう。そういうニュアンスだったし、口調だった。けれど野末はドアを心持ち広く開けた。
「入るか?」
「……いえ」
「入れ。何もないが」
ぎくしゃくと俺は靴を脱ぎ、野末のあとに続いた。狭い廊下の突き当たりにあわせて十畳くらいの、フローリングのキッチンとリビング。ドアの数からして、これに寝室が一つついているのだろう。
野末は、昨日よりは痛みもひいたのだろう。それでも軽く足を引き摺りながら冷蔵庫を開け、麦茶のボトルを取り出し、コップに注ぎいれ、椅子が二客しかないキッチンテーブルに置いた。座れ、と目で促されて椅子に座る。普段は使われていないのだろう。座面に本が二冊おいてあった、それをテーブルの上に乗せる。文学全集の枕草子と、最近出版されて話題になっている、くだけた口語本だ。クリーム色に金彩の施された全集の重厚な表紙と比べて、口語本は漫画家によって表紙が描かれていて、却って男には手に取り難い仕様になっている。
向かい側に腰を下ろした野末は、「ああ、置きっぱなしにしていたな」と本を一瞥し、うつむいて麦茶を飲んだ。五月初旬とはいえ肌が汗ばむほどの陽気で、さっき廊下でさんざん逡巡して喉が渇いていたので、ありがたく俺も手を伸ばした。キッチンとリビングから小さなベランダに続くガラスドアが開け放たれており、部屋に気持ちの良い風が入ってきていた。額に浮いた汗がすっと引いていく。
「告白した男を部屋に上げるなんて無防備ですね」
「…そうだな」
「十年越しに恋をしてるって言いましたよね、三月に」
「ああ」
「毎日朝待ち伏せしてますよね、俺」
「……よく会うと思ってた」
「待ち伏せしてたんです。先生にセクハラしようと思って」
「………」
「そういう人間を部屋に上げちゃ駄目じゃないですか」
「そうか」
「そうですよ」
言うだけ言って満足し、俺は麦茶を飲み干して立ち上がった。
「ごちそうさまでした。あの、上げてくださって嬉しかったです」
「今、上げるなと言わなかったか?」
「それは常識の話で、俺は嬉しかったという話です。でもここにいると甘えて増長してしまうから、長居はしないほうがいいんです」
「君の言うことは難しいな」
「例えば今ここで、また無理矢理キスするぞ、て話です。調子にのってそれ以上にも進んでしまうかもしれない。別に先生の同意とかいらないしね、ていう話ですよ。俺は自分勝手だから結局、先生が嫌がるとわかってても今日ここに来てしまったし、先生が嫌がって抵抗したって、抱きたければ抱くんです」
空になったグラスを流しに置くついでにそんなことを言ってみる。背後に野末の溜息を聞いた。紙とビニールが擦れる音がして、ややあってライターの音と共に紫煙の匂いがした。
それが意外で振り向くと、初めて野末が煙草を吸っているのが見えた。
地味な外見の男だと思っていたが、けだるげな表情で煙草を吸う顔は思いのほか色気があって心臓が高鳴った。いつもはチョークを持つ先細りの骨ばった指が、煙草を摘んで口から離し、白い煙を吐く。
「…まだいたのか」
野末は振り向いてまだ俺がいたことに驚いたようだった。ちょっと意外な姿を見て足が動かなかっただけです。俺はちらりと笑ってみせた。
「すみませんまだいました。先生、帰ったと思ったのなら玄関施錠するとかせめてチェーン掛けるとかしましょうよ、無用心じゃないですか」
「ああ」
「先生煙草吸ってらしたんですね」
「学校では吸わない」
「知ってます」
「帰らないのか?」
「先生、お願いがあるんです。俺のこときちんと振ってください。そりゃあ先生にしてみれば振る以前の問題でしょうけど俺はずっと、先生に拘り続けてた。高校生のときからずっとですよ? 自分のことながら信じられません。ずっと先生のことが好きだった、再会して気まずかったけど嬉しかった。でも、いい加減俺は自由になりたい。先生がきっぱり振ってくれたら、俺やっと先生のこと諦められる気がするんです」
「君は、自分勝手で甘ったれだ。結局自分の気持ちばかりが大事で、私がどう思うのかなんてことは二の次なんだな」
そうですね、と笑うしかなかった。どんなに酷い言葉でも良い。きっぱりと振られて、それでも今更嫌いになったりどうでもよくなったりするのは難しいだろうけど、諦めがつく。それでも野末の顔を見るのは辛くて、何か言われる前から滲みそうな涙を根性で留めてシンクを睨みつけた。シンクは綺麗に磨かれていて、几帳面なんだよな、とこんな時だが思う。
野末は暫く押し黙っていたが、やがて背中に彼の声が聞こえた。
「昨夜も言ったがあの時、私は君のことが分からなかった。酷いことをしてしまったと思ったが、それでも君のことを積極的に探そうとは思わなかった。卒業式で見かけたが声を掛けようとも思ったが、実際、何を言っていいのかわからなかった。君が本気なのかもわからなかったし、そもそも私は好きだという気持ちがよくわからなかったのでね。それでも、名前を覚えていないような生徒がどこを見て私を好きだといったのか……、罪悪感を覚えた。だから君と再会して、これは報いだと思った」
「報いってそんな」
「今まで何人かの女性と付き合ってきて、一人は一緒に暮らしもしたが、結局誰とも二年ももたなかった。どの女性も私のことを好きだとは言わなかったし、私も誰のことも恋していなかったから、当然だろうが。雨こそは 頼まば漏らめ 頼まずは 思はぬ人と 見てをやみなん、というところだ」
野末はため息に似て煙草の煙を吐いて、続けた。
「だから再会して君が私のことを好きだと言ってきた時、何かの嫌がらせかそうでなければ本当に意味がわからないと思ったよ。あの時君は十代だった、何事も気の迷いで済まされる年だ。私だってまだぎりぎり二十代だった。けれど今の君はあのときの私と同じ年で、私はもうすぐ四十だ。とても信じられなかった」
「本当に。好きなんです」
「私は君のことが怖い」
かすかに震える声。でも俺も泣きそうだった。とうとう引導を渡されるのだ。
「私には君のことが理解できない。十歳以上も年の離れた男を好きだという君の気持ちが。ひどい態度を取っていても尚私を気遣うその気持ちが」
「だってそれは、好きだからです」
「………、私は君のことが怖い。けれど、君のことが好きなのか嫌いなのか、わからない」
「怖いのに?」
「人類は理解できないものには恐怖を覚える」
「いきなり人類まで話を広げなくても」
苦笑いしながら、いつのまにか握り締めていたシンクからそっと手を離した。きれいに磨かれていたシンクの、俺の手が握っていたところだけ白く汚れてしまっていて、申し訳なくて台所用布巾で磨いてみる。
振り返ると野末は煙草をくわえたまま、俺を見ていた。好意も嫌悪もないまなざし。それでも野末が俺を見ているというだけで幸せになる。
「じゃあ俺、まだ先生のこと諦めませんけど、それでいいんですか?」
「そうやって人に下駄を預けるところが君の悪いところだ」
「ええと、じゃあ、先生のことを諦めませんし俺のことを好きにさせてみせます」
「そうか」
「朝のセクハラもやめません」
「それは止めてくれ」
「先生好きです」
野末は、なんだか今初めてその言葉を聞いたように目を見開いて俺を凝視していたが、やがて、ふ、と笑みを浮かべた。
俺は野末の笑い顔を、なんと初めて見たのだった。