2.あなたが欲しい
学校は、思っていた通り雰囲気が良かった。首都圏の一端とはいえ一時期の開発ラッシュの波に乗り遅れて取り残されたように、駅前の僅かな賑わいの他、学校の周囲は民家と畑ばかり。一応は進学校とはいえ、本気で上を狙う子供達は私立に流れていき、良くも悪くも生徒達はのんびりとしている。教師も古参の人間が多く、教員の中では俺が最年少。だからという訳でもないのだろうが、やや便利に使われてはいるが忙しいのは苦にならなかったしそれに職員室や準備室に居座る時間が短いのはありがたかった。
そこに野末がいれば一挙一動に耳目をそばたてずにはいられなかったし、そんな俺の態度は周囲の不審を呼んだだろう。
当たり前だが野末先生は赴任の日の一件以来、俺を避けるようになった。朝、顔をあわせても挨拶をしない。こちらから声をかけるとやっと、ききとりづらい声で挨拶を返しはするが絶対に目を合わせない。
不自然だったがそれが目立たないのは野末が多かれ少なかれ誰にでもそういう態度をとっていたからだ。無論他の人間には朝会えば挨拶をするし必要最低限の話はする。話しかければ返事も返すだろう。けれどはかばかしい返事が返ってこないことを皆もう分かっているらしく、誰も野末と雑談しようとはしないようだった。
十年前とまるで変わっていなかった。
野末はどこの学校でもそんな調子なのだろう。生徒にも教師にも関心を示さず、授業とそれに纏わる雑用をこなすだけ。
新学期も始まった学校で、馬鹿らしいことに俺は毎朝偶然を装って野末に挨拶をすることを日課にしていた。彼は毎日決まった時間に自転車で学校に来る。教員用の駐車場の一角に駐輪場はあって、グラウンドと校舎を隔てる生垣と銀杏の木が校舎からも校庭からも目隠しになっていた。
俺は野末が来るのを待って車から降りる。野末が自転車を降りて教員用の昇降口に向かうのに合わせて肩を並べる。
「おはようございます、野末先生」
他人の眼がなければ無視されるだけだが、けれど他人の眼がなければ俺は野末の手や袖に触れることができる。すぐに振り払われてしまうが、動揺する野末が見られれば少しは満足できるのだ。どうしようもない。
俺は密やかな満足と共に野末の後ろを歩き、職員室に向かう。野末の、俺よりも少し低い位置にある痩せて骨ばった肩。安いスーツの袖口の、拭っても落ちない白墨の汚れ。短く整えられた髪の、子供のように清潔な襟足。
俺に会うのが嫌ならば時間をずらせばいいのだ。けれど野末は毎日決まった時間に来る。自分で決めたルールから脱線できない男だ。俺は僅かな蔑みを持って彼の後ろ姿を見る。
恋人はいるのだろうか。こんな木偶のような男を愛する女がいるのだろうか。それとも木偶も恋人の前では人らしく振舞うのだろうか。駐車場から職員室までの、校舎の端から端までの廊下を行く時間、俺はそんなことを考えている。
四月下旬。入学式の日から新しい友人作りやグループ作りに忙しなかった教室もようやく落ち着いてきた。朝のHRで教壇に立ち教室内を見回し、欠席がないことを確認する。来週はゴールデンウィークということもあり、生徒達は少し浮き足だっている。思えばゴールデンウィークに何かをしたという記憶はあまりないが、それでも自分も休みの前は何かしら高揚感を持っていた、と俺は毎年、長い休みの前をした生徒達を見る度にそうであるように自分の学生時代を懐かしく思い出し、少々の感慨に耽った。
「欠席はなし、と。ああ、休み明けには小テストがあるから、気をゆるめすぎるなよ」
「木下先生は休みに何をするんですか?」
はい、と手を上げて聞いてきたのはカナ、と呼ばれている生徒だった。小柄でリスのような印象のある少女だ。
「先生は君達の為に中間テストの草稿を作ります」
「うっそだあ」
「本当です。あと夜は見回りにも立ちますので、くれぐれも変な場所で先生と会わないように注意してください」
中間テストも見回りも嘘だが、カナや、数人の生徒が楽しそうに笑った。それを機にHRを切り上げて一限目の教室に向かった。
昼休み、職員室でコンビ二弁当を食べる横で江上は手作りの弁当を広げていた。毎日、彩りも良い手間のかかっていそうな弁当だ。
「毎日偉いですね、弁当」
「ああ、旦那が作ってくれるの」
「へえ」
「だから喧嘩をした日は周りにすぐバレるわ。木下先生は居ないの? お弁当作ってくれるような人」
「いたら毎日コンビ二弁当なんて買ってないですよ」
「じゃあ寂しいわね、ゴールデンウィーク」
「なんですか江上先生、子供みたいに。今朝教室でも聞かれましたよ、休みの間何をするんだって」
「何をするんですか?」
「……うーん、そうですねえ。部屋の掃除をして洗濯をして……」
「かなり寂しいわね」
「悪かったですね。独身男の休日なんてそんなもんですよ」
ごめんごめん、と言いながら江上先生はちりめんじゃこと青菜の入った出汁巻き卵を一つくれた。ありがたく頂きながら、この学校への赴任を機に別れた恋人のことをちょっと考える。長い付き合いでもなかったし、お互いあっさりしたものだった。毎年ゴールデンウィークの辺りから少し心身に余裕が出てきて恋人を探し、一年もたずに別れる。今年も馴染みの店へ新しい恋人を探しに行こうか、とふと思った。
野末に似た人、野末とは真逆の人。どんなタイプでも俺の基準は野末だった。高校の三年間を捧げた片思いだ、それは執念深くもなろうというもの。三つ子の魂百までだ。
「恋人、が欲しいなあ」
「頑張れ青年。私は人妻だから協力できないけど」
「いや、江上先生はタイプじゃないんで。人妻もタイプじゃないんで」
むしろ江上の机の上に飾ってある旦那らしき男の方がタイプだ。そうだ恋人を探しに行こう、と旅行のキャッチコピーのような文句が頭に浮かぶ。そうしながら目は右の島の端にある空席を追ってしまうのだから始末が悪い。
昼休み、野末を職員室で見ることはなかった。それは俺がいるからなのか、それともずっとそうだったのかは分からないが。
ああ、恋人が欲しい。野末のような、野末に似た、野末が欲しい。
我ながら己の執念には呆れてしまう。十年人を見る目を磨いてきて、高校生の頃の幻想が本当にただの幻想に過ぎないことはもう分かっているのに。野末が自分の幻想の中で育ててきたほどの人間ではないことはわかっているのに。
それでもどうしても、どうしようもなく、あの男が欲しい。
放課後。生徒達のHRが終わった後、職員室でも簡単なミーティングが開かれる。今日の議題はやはりゴールデンウィークのことだった。今朝、冗談で言った繁華街の見回りはどうやら本当に実施されるらしい。女性と、予め旅行などの予定を提出していた人間が除かれ、俺は休み中に二回、見回りをすることになった。
二人一組で、一回は野末と組む。夜、繁華街をうろつくような生徒が教師に見つかるような真似はしないだろうから、見回りが終わった後、何処かに誘ってみようか。そんな考えが浮かんだ。十中八九断られるだろうがチャレンジするのは勝手だ。
野末は、配られた見回りのスケジュールを見て眉を顰めていた。それを横目で見て苦笑がこぼれる。
一体何故、いつからこんなふうになってしまったのだろうか。少なくても高校時代の俺はもっと純粋だった。
今は、野末が嫌がり、うとましがる顔を見て暗い喜びにひたっている。今更野末が俺にそれ以外の顔をみせてくれるとは思えないから、それだけで満足しようとしている。
最悪だ。