1.あなたのことが好きでした
一話目は以前短編として出していたものと殆ど同じです。
既読の方は二話目からどうぞ。
期待していたわけじゃない。
友達や家族には相談できなかった。ネットには具体的すぎる方法や勧誘は沢山あったけど、本当に俺が知りたいことは分からないままだった。
自覚したのは中学生の頃。友達と一緒にAVを見て、AV自体は気持ち悪かったのに、興奮した友達を見て興奮したこととか。皆が騒ぐ水着姿のアイドルグラビアにちっとも共感できなかったこととか。でもそれは、好みのタイプじゃないからとか、胸がでかすぎるのはちょっと、とか。そんなことを言い訳にして済ませていた。
でもなんとなく、自分はもしかして「そう」なんじゃないかと思っていた。その時の焦燥を今でも覚えている。
高校に入って、俺は恋をした。古文の教師で、男だった。やっぱりな、と俺は思った。納得したわけじゃない、自分に絶望したんだ。
先生は、いつも国語科の準備室に居た。誰かと親しそうに話をしているのも見た事がない。野暮ったい眼鏡をかけていたし見た目が地味だからまだ若いのに女子生徒からももてなかったし、男からは馬鹿にされてて古文の授業は皆好き勝手やってた。
しかもそれを注意もしない人だったから余計に侮られてた。だからといって真面目に授業を聞いている生徒のことも目に入っている訳ではなさそうで、授業中、彼の眼は手元の教科書と黒板以外を見ることはなかった。
俺は先生の授業で一度も寝たことはなかったし、ノートもちゃんと取っていた。けれど、ぼそぼそしゃべる先生の声が案外深いことや、チョークを持つ先生が細くて長い手をしているのに見惚れていた俺は真面目に授業を聞いていた、とは言えなかっただろう。伊勢物語なんかを聞きながら、先生を背負って原を走る自分の姿などを想像して、その想像の恥ずかしさに一人で赤面していた。
告白しよう。そう思ったのは最後の冬だった。推薦で大学が決まり、慌しく切羽つまった友人たちから取り残されて暇になった時。
二年間も片思いをしている自分に気づいた。
もうすぐ三年は自由登校になるから、もし先生が俺が思っていたよりも社交好きで、そして口が軽くて、男の生徒から告白されたなんてことを誰かに軽々しく話すような人だったとしても、卒業式まで学校に来なければ問題ない。
だから大丈夫だと思った。そう自分に言い聞かせた。
別に何の期待もしていなかった。例えば告白が受け入れられるとかそんなことは夢にすら見なかった。
嘘だ。本当は何度も夢みた。告白が受け入れられること。先生が俺を受け入れてくれること。それが馬鹿みたいな夢想だと自分でも分かっていたけど。
けれど現実は思っていた以上に酷かった。
二月の、寒い放課後だった。曇りがちの日で、三時過ぎには廊下はもう薄暗かった。扉についている細長いガラス窓から光が漏れていて、準備室に誰かがいることが分かった。ノックをしたが、この時期、この時間には先生しか準備室にいないことは分かっていた。案の定扉の向こうから聞こえてきた返事は先生の声だった。
入ってきた俺を見ても先生の表情は動かなかった。
「どうした? 質問か」
「いえ。あの先生、俺……あの、俺…その」
きい、と椅子を動かして先生が体をちょっと俺の方に向けた。扉の前から動けずに、俺は床ばかり見ていた。視界の端に先生の膝から下、くたびれた革靴が見えた。
「その……、すみません。あ…あの、…俺は! その、先生のこと……」
先生の顔なんか到底みられなかった。うつむいて、時間を掛けてしどろもどろになりながらなんとか言葉を振り絞り、卑屈に笑いながらちらりと上げて窺った眼に映った先生の、嫌悪と無理解の混じった顔。
窓から入ってくる二月の夕焼けに塗りつぶされた真っ黒い、否定。
あの時、先生が何か言うつもりだったにせよ何も言わなかったにせよ。
俺は先生の顔を見た途端、走って準備室を飛び出した。
帰り道、後悔と恥ずかしさで死にたい気持ちが蛇みたいにぐるぐると体の中を駆け巡り、心臓を締め付けた。先生の指先や声や顔や存在そのものを頭から消したい。三年間の片思いの記憶を全て消したい。
二月の落日は早くて、すでに暗くなっていた道を俺はひたすらに歩いて、頬がぴりぴりするくらい冷たい空気を胸いっぱい吸い込んで吐き出すのを繰り返した。肺が無茶な呼吸に痛んで勝手に咳き込んだが知ったことじゃなかった。
それが俺の十八歳の、最悪の恋の終りだった。
◇ ◇ ◇
春休みの学校に漂う空気は独特だ。百人以上もの人間が一斉にいなくなり、そして同じ数の人間を迎え入れる準備をする時間。
毎年のことだからと言っても、たった三年で去っていく生徒達の、けれど三年間、一日の短くない時間を過ごす彼等の名前を覚え顔を覚え言葉を交わしていれば情も湧く。一人ひとり全員を覚えている訳でもなくとも、ごっそりと抜け落ちた虚脱感があり、寂しさがあり、さらに現実的なことを言えば行事続きの忙しさがある。
教員になってからすでに三校目の学校は、正門に桜が二本植えられているのが気に入った。コンクリの箱のような無個性な校舎棟が三つ並ぶのは田舎の古い公立校らしかったが、講堂の前には腕を回しても幹が余る大きな銀杏の木があり、木造の講堂に続く渡り廊下からは小さな池と花壇が見える。敷地も広いし、緑が多くて呼吸がしやすそうだ、と思って俺は深く息を吐いた。
前の学校は小さな敷地にぎゅうぎゅうと校舎が立ち並び、それに倣うように教員室も教室にもぎゅうぎゅうとした人間関係があって、少し息苦しかったのだ。
「そろそろ先生方も来ている頃ですから、職員室にいきましょうか」
「はい、ありがとうございます」
柔和な顔をした五十がらみの校長は、始業時間より一時間近く早く来た俺よりも早く学校に来て花壇に水を遣っていた。初め用務員かと思って声を掛けたのだが不快な表情も見せず、一通りの水撒きを終えたところです、と言って構内の案内を買ってでてくれた。こういう人間が校長なら居心地が悪すぎることもないだろう、と俺は小さく安堵する。
そろそろ二十代も終りに近づき、順当にいけばこの学校あたりから任期が長くなるはずだった。
高等学校の任期は十年、と言われている。まだベテランの域に入らない俺はそこまで長居はしないだろうがそれでも五、六年は一つ所にいることになるだろう。学校の雰囲気は重要だった。
職員室に入ると、複数の人の眼が向けられた。そのまま二列の島になった机の間、一つだけ正面を向いた(恐らくは教頭席だろう)机の前に連れられ、校長はおはようございます、と穏やかな声で挨拶をした。一斉に挨拶が返る。俺は緊張しながら職員室を一渡り見回し、見知らぬ人の顔の中に信じられないものを見た。職員室の右隅に立っているのは、十年分年を取ったはいたけれど見間違えるはずもない、『先生』の姿だった。
「今日からこの学校で教鞭を取る木下先生です。江上先生の後任としていらっしゃいました。現国を担当していただきますので、皆さんよろしくお願いします」
校長の紹介に慌てて頭を下げて挨拶をしながら、俺の胃の中では蝶が忙しなく羽ばたいていた。
どうしよう、どうしようと焦りながら俺は再び先生を見て、彼の眼に何の感情も浮かんでいないことを見て取った。
先生は、俺のことに気付いていないのだ。ほっとすべきなのか、がっかりすべきなのか、俺には判断がつかなかった。
それでも上の空で一通りの挨拶を受け、左の島の真ん中あたりにある俺の机に案内される。机の上に置かれているのは四月から担当するクラスの資料だった。
右隣の席は同じく一年生を担当する数学教師の水上という、俺より少し年上だろう女性。左隣は空いていた。休職中の音楽教師の席だという。不思議な配置だ、と思った。学校ごとに違うが大抵は年齢順や、学科ごとに固まっているものだった。
「学科ごとに固まっていないんですね」
「ああ、今の校長先生の提案で、毎年度、籤で席を替えているんです。面倒だから嫌がる人も多いけど、机の整理も出来るし私は好きですね。それに専門教科を持つ先生方は普段は大体教科の準備室に居ることも多いですし、教科会議などはそちらでされるから問題はないみたい」
水上は外見に見合ったはっきりとした物言いで、厳しそうだったがこういう人間が隣席にいるのは心強い、と俺は思った。そう思いながらも視線は気づくと先生の方へ行ってしまう。会いたくなかった。二度と存在を思い出したくなかった。そう思いながらも目が離せない。記憶の隅に追いやり、忘れたいと願いながら一度も忘れられなかった人だ。
水上は俺の視線に気づき、首を傾げた。
「野末先生がどうかした?」
「え? あ……、俺が高校の時に学校にいた教師に似ているような気がして。……でも勘違いです、きっと」
「ああ。教師やってて嫌なのってそこなのよね。生徒として授業を受けていた人が今度は同僚になるんだもの。本当は挨拶すべきなんでしょうけど、相手が気づかないようなら知らん振りしていたほうがいいわよ。お互いやりにくくなるから」
周囲に聞こえないように小さな声でこそっと囁き、水上はちらりと笑った。釣られて笑いながら俺は、水上から聞かされた苗字に動揺していた。野末先生。
野末晴高。それは間違いなく、俺の先生の名前だった。椅子に座った膝ががたがたと震えた。俺は今愛想笑いもひび割れた酷い顔をして笑っている。そう自覚しながら、資料を見るふりで顔を伏せた。どういう顔をしたらいいのか分からなかった。どうしたらいいのかも。
赴任初日は、春休みの体育館で入学式のパイプ椅子を並べ、一年生を担任する教師と顔あわせとミーティングをし……、慌しさが一段落した午後、俺はいつのまにか職員室から姿を消していた野末を探して、国語科の準備室の前に来ていた。迷いながらもやはり、どうしても会いたかった。
ここにもある自分の机を確認しにきただけ。数人いる国語科の教師ときちんと顔あわせと挨拶がしたいだけ。自分の中で言い訳を重ねながら準備室のドアをノックし、からからと引き戸を開けた。
狭い準備室には机が四つ向かい合わせに置かれている。それと両側の壁の、天井まで届きそうな大きなスチールキャビネット。それだけで部屋は一杯だった。
そしてその狭い部屋に、野末がいた。彼しかいなかった。昔のように。
野末は机に座って何か書きものをしていたが、戸口に立つ俺が動かないことに気づいてか顔を上げた。何もかもが昔のことをなぞったようだった。しかし今は三月で、まだ外は充分に明るい。
「……ああ、やあ。ええっと、新任の」
「木下です」
「木下先生。誰かに用事だったか? 生憎ここには今私しかいなくて。ああ、準備室はこの通り狭くてね、各人に決まった机はないんだが、キャビネットの棚が一つ空いてるから、荷物はそこに入れてください」
「先生……!」
堪らず遮ると野末はきょとんとした顔で口をつぐみ、俺の顔を見た。
俺は扉を閉め、後ろ手に扉の引違戸錠をロックする。かちっと僅かな音しかしない。野末には聞こえなかったようだ。聞こえても、俺の行動の意味などわからないだろう。自分でも分からなかった。
俺は尚もドアの傍に立ったまま、不審そうな野末の顔を見つめた。
あれほど忘れたいと願い、けれど忘れられなかった顔だ。十年前より僅かに目じりの皺が深くなったかもしれない。ぎすぎすと骨が透けそうに痩せていた体はほんの少し肉がついたかもしれない。
あの、先生の嫌悪に満ちた眼を思い出す。
記憶に捕われて一度目線を落として、すぐに顔を上げてまたしっかりと野末を見た。野末はまだ思い出さないのか、新任教師の不審な行動に困惑している。
俺は、どんな顔をしていいのか分からずに曖昧な笑みを浮かべた。
「先生、野末先生。お久しぶりです。十年前、先生の生徒でした、木下です。木下直人」
そうして高校名を言ったら野末は、ああ、あの高校か、と僅かな笑みを浮かべたあと、すまなそうな顔をした。
「そうか。すまない、家で卒業アルバムでも見れば思い出すんだろうが咄嗟には出てこないな」
「先生、卒業アルバムなんて持ってるんですか?」
我ながら意地悪い口調だった。案の定、野末はばつのわるそうな顔をした。彼はそんなものをとっておくような人間ではないだろう。
相手の弱みに付け込むように、俺は一歩野末に近づく。
「十年前の二月、あなたに告白した木下です。いや、告白まで行かなかったですね、先生は俺の言葉に、嫌悪した。潔癖な処女みたいな顔で俺を見た。だから俺は何も言えずに逃げた……、人が勇気振り絞った告白を忘れてたなんて酷いですね。否、もしかしたら忘れていてくれてありがとう、と言うべきなんですかね」
俺の言葉に暫く記憶を辿っていたらしい野末の目が見開かれる。やっと、思い出したのだろう。それほど些細なことだったのか、それともまさか生徒から告白されるのが珍しいことではないとか? まさか。
彼にとって、俺の告白は、それほど意味のないことだったのだ。俺の心を切り裂いた視線さえ。
「木下……?」
「あの後俺は全然学校に行かなかったし、卒業式でも必死で先生の姿を目に入れないようにしていたから、俺にとってはあの日以来の再会、です。先生、俺は結局自分を曲げられなかったけど、大学生になって。世の中そんなに同性愛者に厳しくないってことが分かりましたよ。少なくてもあなたへ告白したことより酷いことなんて一つもなかった。大学で同類にも会ったし、出会いの為の場所もあるんです。こんな田舎はどうかな、でも案外あるものなんですよ、普通の人は気づかないような、でも同類から見ればすぐに分かるような店」
野末の顔が強張っていく。それに勇気を得てさらに一歩、また一歩。俺は野末に近づき、とうとう彼のすぐ前に立った。キャスター付きの椅子がぎいっと嫌な音をさせる。恐らくは席を立ってこの場から逃げ去ろうとしたのだろう野末の両腕を咄嗟に掴んだ。
怯えと拒絶と混乱。野末の顔に浮かぶ表情にああ、やっぱりね。と苦い笑みが浮かぶ。当たり前だ。俺だって昔告白してきた人間が十年たっていきなり現れてべらべらとわけのわからないことを言いながら近づいてきたら怖いし、逃げようとするし、気持ち悪く思うだろう。
だというのに、自業自得なのに野末の表情に馬鹿みたいに傷ついて、顔が歪む。それでも、笑顔に見えていればいいけれどきっと見えていない。だって野末はまるで化物をみるような顔で俺を見あげている。
「先生、俺は恋もたくさんしましたよ。もちろんぜんぶ男で、叶うことも叶わないこともあったけど、でも……俺はいつも、誰のことも心の中で先生と比べてしまって、上手く行かなかった。先生」
「やめ…」
「先生聞いて。今度こそ聞いて。お願いだから。お願いだから何も言わずにちゃんと聞いて。あのね。俺はあなたのことが好き、でした。高校一年のときからずっと、先生のことが好きでした」
十年越しの告白。俺はなんだかやり遂げたような気持ちがした。達成感ではなく、暗い復讐を終えた満足感。
野末は俺を見つめている。こいつは何を言っているのだろう、と心底から理解できないような顔。
背広越しにも分かる野末の細い腕を名残惜しく離す。けれど俺の手が離れた瞬間野末の顔に広がった、茫洋とした安堵にむしょうに苛立ちがこみ上げてきて、一旦離した上腕をまた掴んで、そのまま覆いかぶさるようにして苛立ちの衝動のままに口付ける。体を安定させようと、野末の足を割るように椅子についた膝からかかる体重で椅子がぎい、と不吉な音を上げた。
口をひらかない野末を椅子と自分の体で囲うようにしながら、野末の唇を強く噛む。痛みに思わず開いた唇に舌を割り込ませて、コーヒーの匂いのする口に侵入した。
離れようと足掻く力の入った腕や体を押さえ込みながら、野末の、薄い唇からは想像もつかない柔らかい口内を散々に食い荒らして、一旦離した唇の濡れて色づくさまに煽られてもう一度口付けた。
「先生」
唇を離して間近で顔を覗き込むと、野末は涙で薄い膜の張った目で俺をにらみつけてきた。体が震えている。野末も、俺も。
震えてままならない指先を剥がすように野末の腕を解放する。力いっぱい握ってしまった腕には、きっと痣ができてしまっているだろう。可哀相にと思いながら、野末の細い腕にからみつく鬱血を想像して興奮している自分がいる。
馬鹿だ、と思った。結局俺はなんにも変わってない。あの日、こっぴどく傷つけられて、まだ何も懲りてない。どうしようもなく、馬鹿みたいにずっと、俺はこの男を好きだった。
「…先生、」
震える指先を握りこんだり放したりしながら、同じくらい震えている声で俺は再度野末に呼びかけた。 ぎゅ、と野末の拳が握られているのを見て、殴りたいのかな、と思う。殴ればいいのに。でも野末はきっと、怒りと同じ位怯えもあって、怖くて手を出せないのだ。
可哀相に、と思った。でも一番可哀相なのはきっと、野末に殴られたいなんて思ってる俺だ。そんな形でも彼からの接触が欲しい俺だ。
「先生……あのね、俺。あなたのことが好きでし、た。……好き、です」
無理矢理キスされた上にこんなこと聞かされる野末が可哀相で、なのにさっき噛んでさんざんねぶった唇が赤くはれ上がっているのに欲情した。こんな俺なんて死んでしまえばいいのに、殺してくれればいいのに、野末が。
そんな過剰な望みを抱かれているとも知れず、野末はいまだに殴ろうかどうしようかと迷うように、震える拳を握りこんでいた。