皇帝陛下を推す侯爵令嬢、今日も第一皇子を巻き込んで推し活中です
シャーロット・スターライル、十歳。
侯爵家の一人娘であり、社交界では「将来が楽しみな美少女」と評判の令嬢である。金色の髪は陽光を受けるたびに柔らかく輝き、青い瞳は宝石のように澄んでいる。礼儀作法も完璧。勉強も優秀。人当たりもよく、侯爵令嬢として何の問題もない。そんなシャーロットには、誰にも言えない秘密があった。
ー推しがいるー
しかも、その相手は。
「本日の陛下も、素晴らしくお美しいっ…!」
帝国の頂点に立つ、皇帝陛下である。
「シャーロット」
「はい」
「君は朝から何をしているのかな」
呆れた声がした。シャーロットが振り返ると、そこには第一皇子アシェル・ブランサイスが立っていた。シャーロットと同じ十歳、銀色の髪に整った顔立ち、皇族らしい気品を漂わせる美少年である。そして現在、シャーロットの机の上に広げられた大量の肖像画を見て、深いため息をついていた。
「……また増えたの?」
「はい」
「何枚?」
「昨日の時点では三十六枚でした」
「昨日の時点では?」
「本日二枚追加されましたので、三十八枚です」
「増える速度がおかしいよ」
アシェルは頭を抱えた。ここは皇宮にある、子どもたちが集まるための私室。本来ならば、二人で勉強をする予定だった。しかしシャーロットは、皇帝陛下の肖像画を机いっぱいに並べていた。幼少期、青年期、戴冠式、外交式典、騎士団の視察、狩猟大会、即位二十周年記念、さらには執務中の姿まである。
「同じ人の肖像画を、どうしてそんなに集める必要があるの?」
「違います」
「何が?」
「全部違います」
「……どこが?」
シャーロットは真剣な顔で肖像画を指差した。
「こちらは若き日の陛下。こちらは即位直後。こちらは外交会議で少しお疲れの陛下。そしてこちらは先日の視察でございます」
「全部、父上じゃないか」
「はい。だからこそ素晴らしいのです」
「分からない…」
アシェルは本気で分からなかった。だが、シャーロットには分かる。前世の自分は、ごく普通の日本人だった。そして長い人生を終え、天寿を全うした……はずだった。ところが次に目を覚ましたら、異世界の侯爵令嬢、シャーロット・スターライルになっていた。最初は驚いた。魔法がある。皇帝がいる。貴族がいる。前世とは何もかも違う。けれど一つだけ、前世の記憶にある俳優と、今世の皇帝陛下が恐ろしいほど似ていた。
それがすべての始まりだった。渋みのある顔立ち。落ち着いた低い声。整った銀灰色の髪。そして何より、笑ったときに目尻へ刻まれる皺。
ーどストライクー
前世で最後まで好きだった俳優に、あまりにも似ていた。気づけばシャーロットは、皇帝陛下を応援するようになっていた。ただし、推し活にはシャーロットなりの絶対的なルールがある。
一つ、推しを蹴落とすために誰かを傷つけない。
二つ、推しの私生活に踏み込みすぎない。
三つ、無理をしない。
四つ、推しを応援するなら、自分の生活も大切にする。
「推しは推せる範囲で推すものです」
シャーロットは胸を張った。
「ですから、私は侯爵家の財産を使い込んだりしません」
「…そこまで考えていたの?」
「当然です」
シャーロットは真剣だった。
「推しのために自分の生活を壊してしまっては、本末転倒です」
「十歳の言葉とは思えない……」
「前世が長かったものですから」
「それは僕には分からないんだけど…」
シャーロットは微笑んだ。
「ですから私は、身の丈に合った推し活をしております」
「その机いっぱいの肖像画が?」
「必要経費です」
「必要なの?」
「心の栄養です」
「…………そう」
アシェルは諦めた。この話を始めると長い。彼は机の端に置かれていた小さな紙袋を見つけた。
「ところで、これは?」
「ああ、それですか」
シャーロットの瞳が輝いた。
「新作です」
「新作?」
「陛下のイメージカラーを使った刺繍入りの栞です」
「……誰が作ったの?」
「私とエミリーです」
「エミリーまで?」
シャーロットの後ろに控えていたメイドが、嬉しそうに一歩前へ出た。
「はい。とても楽しいお仕事でした」
エミリー、十八歳。クラシカルなメイド服を完璧に着こなす美しい女性。そして、その服の下には護身用の武器がいくつも隠されている。侯爵家令嬢の専属メイド兼護衛。戦闘能力は高いが現在は、刺繍針を握っている。
「こちらの模様、陛下がお召しになる礼服の襟元を参考にいたしました」
「エミリー……」
アシェルは遠い目をした。
「君まで楽しんでいるの?」
「はい」
驚くほどの即答だった。
「お嬢様がとても楽しそうですので」
そして小さく呟く。
「……私も、そろそろ推しというものを見つけたいのですが」
「エミリー!」
シャーロットが勢いよく振り向いた。
「推し活に興味がおありですか!?」
「はい」
「それなら…」
「待って!」
アシェルが止めた。
「待って、シャーロット。これ以上仲間を増やさないで」
しかし、その言葉は遅かった。シャーロットは満面の笑みを浮かべている。
「推し活は素晴らしいですよ、エミリー」
「はい!」
「では、まずは推しを探すところから始めましょう!」
「お願いします!」
「どうして護衛と令嬢がそんなに意気投合しているの……」
アシェルが呟いた、そのとき。部屋の扉が静かに開いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、二十歳ほどの青年騎士だった。アシェル専属護衛騎士、ルイス。
「殿下。本日の予定について…」
そこでルイスは足を止めた。机いっぱいの肖像画、刺繍入りの栞。目を輝かせるシャーロット。興味津々のエミリー。そして疲れ切ったアシェル。
「……何をしているのですか?」
シャーロットは胸を張った。
「推し活です!」
ルイスは少し考えた。
「……推し活?」
「はい」
「それは、何でしょうか」
シャーロットの目がさらに輝いた。アシェルは思った。また一人、犠牲者が増えると。
「ルイス様」
シャーロットはにっこり笑った。
「推し活とはですね…」
その瞬間、アシェルは確信した。今日もまた、平穏な一日は終わったと。シャーロットは、目の前のルイスに向かって人差し指を立てた。
「心から応援したいと思える方を見つけ、その方の幸せを願い、無理のない範囲で応援する活動です」
「なるほど……」
ルイスは真剣な顔で頷いた。その隣では、アシェルが嫌な予感を覚えていた。
「ただし、重要なのは距離感です」
「距離感?」
「はい。推しには推しの人生があります。私たちは、その人生を邪魔するのではなく、幸せを願うのです」
「……深いですね」
ルイスが感銘を受けたように呟く。
「シャーロット、君は十歳だよね?」
「十歳ですが?」
「いや…何でもない」
アシェルは諦めた。前世の記憶を持つという事情を知らないルイスからすれば、シャーロットは妙に悟った十歳児にしか見えないだろう。だがシャーロットは真剣そのものだった。前世では、推しの存在に何度も元気をもらった。仕事で疲れた日も、嫌なことがあった日も。推しの出演する作品を見れば、もう少し頑張ろうと思えた。だから今度の人生では、自分も誰かを応援する側でいたい。ただし…。
「推しのために自分を犠牲にする必要はありません」
シャーロットはきっぱりと言った。
「自分が幸せであってこそ、長く推し続けられるのです」
「……確かに」
ルイスが深く頷く。
「私も騎士として、長く剣を振るうためには自身の体調管理が重要だと教えられております」
「その通りです!」
「推し活と騎士道には、共通点があるのですね」
「あると思います!」
「そうですか……」
ルイスは腕を組んだ。そして、真剣に考え始めた。
「では、私にも推しを見つけることができるでしょうか」
「もちろんです!」
シャーロットは即答した。
「ルイス様は、尊敬している方はいらっしゃいますか?」
「尊敬している方…」
ルイスはしばらく考えた。そして、ぽつりと言った。
「第一騎士団団長です」
「おお!」
シャーロットの瞳が輝いた。
「どんなところがお好きなのですか?」
「剣術が非常に優れております」
「はい」
「部下への指導も的確です」
「素晴らしいです」
「それから、私が幼い頃から剣を教えてくださった師でもあります」
「それはもう……」
シャーロットは両手を握った。
「推し候補ではありませんか!」
「推し候補……」
「まずは応援するところから始めましょう」
「分かりました」
「ただし!」
シャーロットは真剣な顔になる。
「仕事中の団長様に突然『推しています!』などと伝えてはいけません」
「……はい」
「ご迷惑にならない範囲で」
「はい」
「節度を守って」
「はい」
「そして相手の生活を尊重して」
「心得ました」
アシェルは唖然とした。いつの間にか、ルイスが完全に弟子入りしている。
「ルイス……」
「はい、殿下」
「君、本当にそれでいいの?」
「はい!」
何故かものすごく晴れやかな顔だった。
「私は今まで、誰かを応援するということを考えたことがありませんでした。しかし、お嬢様のお話を聞いて、私にもできるのではないかと思いました」
「そう……」
アシェルは少しだけ嬉しくなった。シャーロットの推し活は、時々理解不能だ。だが、こうやって誰かの毎日を少し明るくすることもあるらしい。
「では、ルイス様」
シャーロットは紙とペンを取り出した。
「推し活ノートを作りましょう」
「はい!」
「待って」
アシェルが止める。
「なんでノートまで出てくるの?」
「記録は大切です」
「何を記録するの?」
「団長様の素晴らしいところです」
「本人の許可は?」
「個人的な記録ですので問題ありません」
「そういう問題なのかな……」
そのとき、部屋の扉が再び開いた。
「失礼いたします」
穏やかな声とともに入ってきたのは、トリスタンだった。六十代の王宮執事であり、現在はアシェル付きの執事を務めている。室内を一瞥し、机いっぱいの肖像画を見る。刺繍入りの栞を見る。推し活ノートを書き始めたルイスを見る。そして最後に、額に手を当てるアシェルを見る。
「……本日も、賑やかでございますね」
「トリスタン!」
アシェルが助けを求めるように叫んだ。
「何とかして!」
「何をでございますか?」
「みんなを止めて!」
トリスタンは微笑んだ。
「皆様、とても楽しそうでございます」
「そこじゃない!」
シャーロットが嬉しそうにトリスタンへ近づいた。
「トリスタン様、ルイス様にも推しができたのですよ」
「それはおめでとうございます」
「第一騎士団団長様です」
「なるほど」
トリスタンは静かに頷いた。
「確かに、良い方を選ばれましたな」
「トリスタンまで!」
アシェルの叫びが響く。しかしトリスタンは、ふと机の上の肖像画へ目を向けた。
「ところで、お嬢様」
「はい?」
「こちらの肖像画ですが」
「何でしょう?」
「陛下が若かりし頃のものですな」
「はい!」
「こちらは戴冠式の際のもの」
「はい!」
「そしてこちらは、先日の視察時のもの」
「よくお分かりになりますね!」
「長年、陛下のお側におりますので」
トリスタンは少しだけ笑った。
「ですが…」
「はい?」
「これほど熱心に陛下を応援されていることを、陛下ご本人はご存じなのでしょうか?」
室内が静かになった。シャーロットは固まる。アシェルも固まる。エミリーは目を輝かせる。ルイスはノートを閉じた。
「……それは」
シャーロットはゆっくり答えた。
「秘密です」
「なぜ?」
アシェルが尋ねる。
「だって!」
シャーロットは両手を胸の前で握った。
「推しに直接知られたいわけではありませんもの!」
「……え?」
「推しは遠くから応援するくらいがちょうどいいのです!」
その言葉には、妙な説得力があった。
「陛下が毎日お元気で、公務を頑張っていらして、笑っておられる。それだけで十分なのです」
シャーロットは穏やかに微笑んだ。
「私は、それを見て幸せになれるのですから」
アシェルは黙った。いつもの騒がしいシャーロットとは、少し違って見えた。ただ皇帝を好きなのではない。その人の人生そのものを、遠くから応援している。それがシャーロットの「推し活」なのだ。……だが。
「シャーロット嬢」
「はい?」
トリスタンが何かを思い出したように言った。
「実は本日、陛下がこちらへいらっしゃる予定でございます」
「…………」
シャーロットの笑顔が消えた。
「……はい?」
「午後のお茶会に、陛下もご参加される予定です」
数秒の沈黙。そして……。
「ええええええっ!?」
皇宮中に、十歳の侯爵令嬢の悲鳴が響き渡った。アシェルは思った。今日、一番面白いことが始まったと。
「どうしましょう…」
シャーロットは、両手で頬を押さえたまま固まっていた。先ほどまでの勢いはどこへやら。皇帝陛下がこの部屋に来る。それはつまり推しが、実物で、ここに。
「シャーロット?」
「……アシェル様」
「何?」
「私、今日は帰ります」
「どうして?」
「推しに会う心の準備ができておりません」
「さっきまで肖像画を見ながら『本日も素敵です』って言ってたじゃない」
「肖像画と実物は違います!」
シャーロットは真剣だった。
「肖像画なら、こちらの心構えができます。しかし実物は……」
「実物は?」
「動きます」
「……当然だよ」
「喋ります」
「……当然だよ」
「こちらを見ます」
「皇帝なんだからね」
「そして笑います」
「父上は普通に笑うよ」
「無理です!」
シャーロットは机に突っ伏した。
「推しがこちらを認識する世界線なんて想定していませんでした……!」
アシェルは呆れながらも、少しだけ面白くなってきた。
「じゃあ、どうするの?」
「できるだけ目を合わせないようにします」
「それは逆に不自然だよ」
「では、なるべく壁になります」
「侯爵令嬢が壁になるのはやめて」
そこへエミリーがやってきた。
「お嬢様、お召し物をお選びいたしましょう」
「エミリー……」
「はい」
「今日の私は、どんな服を着ればいいと思いますか?」
「皇帝陛下とお会いになるのでしたら、こちらなどいかがでしょう」
エミリーが取り出したのは、淡い水色のドレスだった。上品で、華美すぎない。シャーロットによく似合いそうな一着だ。
「…素敵」
「でしょう?」
「でも、陛下に『あの子、服が素敵だな』と思われたらどうしましょう」
「それはお嫌なのですか?」
「嫌ではありません」
シャーロットは即答した。
「むしろ人生最高の誉れです」
「では問題ないのでは?」
「問題があります」
「どのような?」
「推しに認識されると、推し活の距離感が壊れます!」
エミリーは一瞬考えた。
「……なるほど」
「分かってくれるの!?」
「はい。推しというものは、遠くから眺めるからこそ尊い場合もございます」
「エミリー!」
シャーロットが感動したように抱きついた。
「あなた、もう立派な推し活仲間です!」
「ありがとうございます」
エミリーも嬉しそうだった。その様子を見ていたアシェルは、さらに頭を抱えた。
「僕の周り、どうしてこうなっていくんだろう……」
その横で、ルイスが真剣に尋ねる。
「殿下」
「何?」
「皇帝陛下とお会いする際、推しとしての適切な振る舞いとは何でしょうか?」
「僕に聞かないで」
「お嬢様に伺っても?」
「シャーロットに聞いたら、余計に大変になるよ」
しかし、シャーロットはすでに講義を始めていた。
「まず、普通に礼儀正しく接します」
「はい」
「過度に騒がない」
「はい」
「無断で肖像画を描かない」
「はい」
「陛下の公務を邪魔しない」
「はい」
「そして…」
シャーロットは拳を握った。
「心の中で全力で応援します!」
「なるほど!」
ルイスが感動している。
「完璧ですね」
「でしょう?」
アシェルは呆れた。
「それ、普通の礼儀正しい子どもと何が違うの?」
「心の中の熱量が違います」
「見えないよ」
「見せる必要がありませんから」
「……そう」
どうやらシャーロットにとって、それが一番大事なことらしい。やがて準備が整った。シャーロットは淡い水色のドレスを身にまとい、髪を丁寧に整えた。鏡の中には、どこから見ても立派な侯爵令嬢がいる。
「……大丈夫」
シャーロットは小さく呟いた。
「私は推しを推すだけ」
「はい」
エミリーが頷く。
「陛下を見ても、叫ばない」
「はい」
「泣かない」
「はい」
「走って抱きつかない」
「もちろんです」
「肖像画を出さない」
「それは……」
「シャーロット」
アシェルが鋭く睨んだ。
「出さない」
「はい」
シャーロットは大きく息を吸った。
「大丈夫です」
その直後、扉の外から声が響いた。
「皇帝陛下がお見えになりました」
「…………」
シャーロットの顔が真っ白になる。
「お嬢様?」
「大丈夫です」
声が震えている。
「私は大丈夫です」
「シャーロット?」
「推しは推せる範囲で推す……」
「何か呪文みたいになってるよ」
扉が開いた。最初に見えたのは、黒を基調とした正装。その肩に掛かる深い色のマント。そして、ゆっくりと入ってきた男性。銀灰色の髪、落ち着いた瞳、整った顔立ち。五十代とは思えないほど堂々としていて、それでいて威圧感だけではない柔らかな雰囲気を持っている。シャーロットは息を呑んだ。前世の記憶が、一瞬だけ蘇る。テレビ画面の向こうで笑っていた、あの俳優。何十年経っても忘れなかった顔。その人と同じ顔が、目の前にいる。
「……」
シャーロットは完全に停止した。皇帝はそんな彼女を見て、穏やかに微笑んだ。
「久しぶりだな、シャーロット嬢」
「…………」
「元気にしていたか?」
「…………」
返事がない。アシェルが横を見る。
「シャーロット?」
「…………」
「シャーロット?」
「…………」
エミリーも心配そうに顔を覗き込む。ルイスは何故か緊張して背筋を伸ばしている。トリスタンだけが静かに微笑んでいた。
「お嬢様」
「……はい」
「ご挨拶を」
「……はい」
シャーロットは震える足で一歩前へ出た。そして完璧な淑女の礼をする。
「ご機嫌麗しゅうございます、皇帝陛下」
「ああ」
皇帝は優しく答えた。
「今日はずいぶん可愛らしい装いだな」
「…………」
シャーロットの脳内で、何かが爆発した。
ー推しに褒められたー
前世を含めた長い人生で、これほど嬉しい言葉があっただろうか。いや、ない。ないのだが。
「…………ありがとうございます」
必死に平静を装う。しかし耳が真っ赤だった。アシェルはそれを見て、思わず口元を押さえた。駄目だ、笑う。絶対に笑ってはいけない。でも…。
「……ふっ」
「アシェル様?」
「何でもない」
皇帝が不思議そうに二人を見る。
「仲が良いのだな」
「はい!」
シャーロットが勢いよく答えた。
「アシェル様には、いつも大変お世話になっております!」
「……僕が?」
アシェルが首を傾げる。シャーロットは満面の笑顔で続けた。
「推し活を手伝っていただいておりますので!」
「シャーロット!」
アシェルの叫びが響いた。皇帝の眉が上がる。
「……推し活?」
シャーロットは固まった。そして、今日最大の危機が訪れた。
「……推し活とは?」
皇帝陛下が、静かに聞き返した。その一言で、空気が一段階重くなる。シャーロットの脳内に、警報が鳴り響いた。
(待って待って待って……今の流れ、絶対に説明ミスったやつです!)
隣ではアシェルが、すでに額を押さえていた。
「やっぱり言うと思った……」
「アシェル様、今のは不可抗力です」
「不可抗力で“推し活”って単語が皇帝に飛ぶことある?」
エミリーは静かに視線を逸らし、ルイスはなぜか「なるほど」と頷いている。トリスタンだけが、いつも通り穏やかだった。
「ええと……」
シャーロットは必死に笑顔を作る。
(落ち着け私。落ち着け。これは社交。そう、社交……!)
「陛下のご活躍を、応援する活動でございます」
「ほう」
皇帝の目がわずかに細くなる。興味を持った顔だ。
(あ、これダメなやつだ……深掘りされるやつ……!)
「私を?」
「はいっ!」
即答、迷いゼロ。むしろここだけは全力。
「陛下が毎日ご健康で、帝国のためにお働きくださっていることを、心から嬉しく思っております!」
「……なるほど」
皇帝は少しだけ目を細めた。そして…ふっと笑う。
「それはありがたいな」
「……っ!!」
シャーロットの心臓が跳ねた。
(今の笑顔、何!? 破壊力が規格外なんですけど!?)
危ない、顔が崩れる。耐える、耐える、耐えるんだ。
「身に余るお言葉でございます……!」
声が少し裏返った。アシェルが横で小さく呟く。
「今の、完全に限界だったよね」
「アシェル様、黙っていてください」
「無理だよ、見てて怖いもん」
皇帝はそんな二人のやり取りを気にせず続けた。
「しかし、私の活躍とは具体的に何を指すのかな?」
「それは……」
シャーロットは一瞬固まる。
(来た……“推しの活動内容説明要求”……一番危険なやつ……!)
「陛下が健康でいらっしゃることです」
「健康?」
「はい」
「それだけでいいのか?」
「それが一番大切です!!」
即答、力強すぎる即答。アシェルが小声で言う。
「なんか宗教みたいになってきた」
「違います」
シャーロットは真顔で返す。
「推し活です」
「同じじゃない?」
「違います」
皇帝は少し驚いたように目を瞬かせた。
「私の健康を心配しているのか」
「もちろんです」
「侯爵令嬢として?」
「一人の人間としてです」
シャーロットは少しだけ柔らかく笑った。
「推しには、元気で幸せでいてほしいものですから」
……一瞬、空気が変わった。皇帝の表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
「……そうか」
静かな声。
「ありがとう、シャーロット嬢」
「……っ」
(今の“ありがとう”、人生で一番価値あるやつでは……!?)
シャーロットの脳内で何かが爆発した。だが叫ばない。騒がない。耐える、耐える、耐えるだ。
「……っふぅ」
息だけ漏れた。アシェルが横目で見る。
「今、魂抜けかけてたよね」
「気のせいです」
「絶対違う」
皇帝はふと肖像画に目を向けた。
「そういえば、私の肖像画を集めていると聞いたが」
「…………」
アシェルの首がゆっくり回る。
「シャーロット?」
「…………」
「何枚?」
「……三十八枚です」
「多いな!?」
皇帝が普通に驚く。
「すべて違います」
「何が違うのだ?」
「表情、衣装、光の当たり方、時期、構図……全部です」
「もはや別人扱いでは?」
「いいえ、同一人物の尊さの違いです」
「何その概念」
アシェルが頭を抱える。
「父上、これ以上聞かない方がいいです」
「なぜだ?」
「深い沼に入ります」
「沼?」
「説明できません」
皇帝は一枚の肖像画を見た。若い頃の自分。
「懐かしいな」
「……素敵です」
「何?」
「いえっ!!」
即座に否定、だが遅い。アシェルが呟く。
「今の“素敵です”はアウトだよね」
「違います」
シャーロットは必死。
「心の声です」
「漏れてるよ」
皇帝は苦笑した。
「君は本当に私をよく見ているのだな」
「…………」
シャーロット、完全停止。
(今のはダメ……“よく見ている”はダメ……尊死する……)
「シャーロット?」
「……推しに」
「何だ?」
「“よく見ている”と言われました……」
「うん」
「……今日はもう十分です」
「何が?」
「人生の満足度です」
「急に哲学になったな」
シャーロットはふわっと微笑んだ。そして一歩下がる。
「陛下」
「何だ?」
「これ以上は結構でございます」
「?」
「本日の推し活は、完全に満たされました」
「推し活?」
皇帝がまたその単語を繰り返す。アシェルが即座に割り込む。
「父上、それ以上聞かないでください」
「なぜだ」
「世界が変わります」
「大げさだな」
そのとき、横からルイスが手を挙げた。
「陛下」
「何だ?」
「私も推しがいます」
「今言うのか」
「第一騎士団団長です」
「今ここで言うのか」
アシェルが叫ぶ。
「ルイス!!空気!!」
「申し訳ありません。報告義務かと」
「違うよ!!」
皇帝は笑い出した。
「ははは、面白いな」
その笑い声に、シャーロットはふっと安心する。
(……あ、今日、平和だ)
そう思った瞬間だった。皇帝が、何気なく言った。
「ではシャーロット嬢」
「はい?」
空気が、止まる。
「今度、私の執務室へ来るといい」
…一拍。完全な静寂。誰も、すぐに反応できない。アシェルの顔が、ゆっくりと固まる。
「……は?」
ようやく出た声は、それだけだった。エミリーの手が止まる。ルイスのノートが閉じられる。トリスタンの微笑みが、ほんのわずかに深くなる。そしてシャーロットは…瞬きを一回、もう一回。理解が追いつかない。
(……執務室?推しの?え?え???)
皇帝は穏やかに続けた。
「帝国の政治を学ぶ機会になるだろう」
……二拍。まだ誰も動かない。空気が“理解待ち”のまま固まっている。そして三拍目………アシェルが、ゆっくりと口を開いた。
「父上」
「何だ」
「それ……」
声が震える。
「推し活の最終形態じゃない?」
その瞬間シャーロットの脳内で、何かが完全に弾けた。
「…………」
顔を覆う。沈黙、そして……。
「……行ってみたいです」
ぽつりと一言、次の瞬間。
「行くの!?」
アシェルの悲鳴が、皇宮中に響き渡った。しかしシャーロットは、すでに別の世界に意識を飛ばしている。…皇帝陛下の執務室。そこは、ただの部屋ではない。帝国の心臓。推しが毎日、呼吸するように仕事をしている場所。書類に目を通し、決断を下し、国を動かす場所。
(……見たい)
前世でも、俳優の「撮影現場密着」などという言葉に弱かった。舞台裏、楽屋、台本。そこにある“素の姿”は、完成された表舞台とは違う輝きを持っていた。だからこそ今…その“本物の仕事場”に行けるという事実が、現実味を持たない。
「シャーロット嬢」
皇帝が穏やかに問いかける。
「そんなに興味があるのか?」
「はい!」
即答、迷いは一切ない。その瞬間、アシェルは天を仰いだ。
「さっきまで『推しとは距離を保つもの』って言ってなかった?」
「はい」
「今、距離ゼロどころか職場訪問しようとしてるよね?」
「これは推し活ではありません」
「じゃあ何?」
「社会科見学です」
「絶対違う」
「帝国政治の理解です」
「もっと違う」
「……推しの職場見学です」
「それを最初に言うな!」
シャーロットは少しだけ頬を染めた。だが、目は真剣だ。
「ですが、邪魔はいたしません」
その一言だけは、揺るがない。
「陛下のお仕事を拝見し、帝国の仕組みを学びます」
「それは建前だよね?」
「建前ではありません」
シャーロットは静かに続けた。
「推しのことを何も知らずに応援するのは、失礼ですから」
皇帝の目が、わずかに細くなる。
「ほう」
「何をなさっているのか知ったうえで応援したいのです」
その言葉に、室内の空気が一瞬だけ変わった。軽い冗談の空気が、ほんの少しだけ引き締まる。皇帝は小さく息を吐いた。
「なるほどな」
そして、ふっと笑う。
「面白い考え方だ」
「……!」
シャーロットの胸が跳ねる。…今、褒められた、推しに。理性が危うく崩れかける。だが、耐える。ここは執務室、社会科見学、推し活ではない。
「陛下がお仕事をされている間は、静かにしております」
「本当に?」
「はい」
「質問は?」
「必要最低限に」
「書類は?」
「触れません」
「お菓子は?」
「……持ち込みません」
「今、少し間があったな」
「気のせいです」
アシェルは深くため息をついた。
「父上、本当にいいの?」
「ああ」
「絶対、何か起きる気がするんだけど」
「何も起きんだろう」
「その自信が怖い」
エミリーは静かに微笑みながらも、袖口の短剣を確認している。ルイスはすでに「推し活見学」の気配に目を輝かせていた。トリスタンだけが、すべてを見通すように目を細めている。
「では皆様」
穏やかな声。
「陛下のご迷惑にならぬよう、静粛に」
「はい!」
全員が返事をした。この時点で、誰も気づいていなかった。“静粛”という言葉が、すでに破綻していることに。
数日後、皇帝の執務室へ向かう廊下。シャーロットは何度も深呼吸を繰り返していた。
「落ち着いてくださいませ」
エミリーが優しく声をかける。
「分かっています」
「本日は社会科見学です」
「はい」
「推し活ではありません」
「……はい」
「推し活では」
「分かっています!」
シャーロットは胸を張る。
「今日は帝国政治の勉強です」
その横でアシェルがぼそりと呟く。
「昨日、帰る前に『執務室……執務室……』って言ってたよね」
「アシェル様」
「何?」
「それは心の準備です」
「完全に推し活の準備だよね」
ルイスが真剣に頷く。
「私も昨夜、師匠の執務室を想像して眠れませんでした」
「君はもう戻れないところまで行ってる」
やがて一行は、巨大な扉の前に立った。皇帝の執務室。近衛騎士が無言で立つその前で、空気が一段階重くなる。シャーロットは息を呑んだ。この扉の向こうに、推しがいる。いつも肖像画の中で微笑んでいた人が、現実として存在している空間。シャーロットは両手を胸の前で握った。
(落ち着いて、私は侯爵令嬢。社会科見学、推し活ではない……でも、推しの執務室)
「シャーロット」
アシェルが声をかける。
「顔、完全に楽しみにしてる顔だよ」
「……仕方ありません」
「何が?」
「推しの職場ですから」
「結局それか」
その瞬間だった。
「入れ」
扉の向こうから、低く落ち着いた声。皇帝の声。空気が一気に引き締まる。シャーロットの背筋が反射的に伸びた。
「……!」
扉が開き、光が差し込む。広い執務室、整然と積まれた書類、帝国の地図。そして中央に座る男…皇帝陛下。
「よく来たな、シャーロット嬢」
その声は穏やかで、しかし確かに“帝国の頂点”の響きを持っていた。シャーロットは思う。
ー来てしまったー
そして同時に。
ー来てよかったー
その瞬間、空気の中に、わずかな“違和感”が混じった。机の上、分厚い帳簿、その隣に置かれた一枚の書類。シャーロットの視線が、そこに吸い寄せられる。何かが、引っかかる。ほんの小さな歪み。整然とした空間の中に紛れ込んだ、わずかな不整合。
「……あれ?」
声が漏れた瞬間、室内の空気が変わった。皇帝の視線が、ゆっくりとシャーロットへ向く。アシェルの表情が強張る。エミリーの手が、わずかに動く。ルイスが息を止める。トリスタンの目が、細くなる。静寂と重圧。そして…。
「陛下」
シャーロットは、書類を指差した。
「その数字……」
一拍、空気が完全に止まる。
「少し、おかしくありませんか?」
皇帝の瞳が、わずかに鋭さを帯びた。アシェルの喉が鳴る。エミリーの指が短剣に触れる。ルイスが一歩前に出かけて止まる。トリスタンが、静かに息を吐く。そして、シャーロットは続けた。
「計算が、合っておりません」
…その瞬間、執務室の空気は、完全に“仕事の場”へと変質した。皇帝はすぐには答えなかった。視線だけを、机の上の書類へ落とす。
「……どこがだ?」
「こちらです」
シャーロットは指先で一箇所を示した。
「この三つの数字を合計すると、こちらの金額になるはずです」
「うむ」
「ですが、記載されている金額が違います」
アシェルが書類を覗き込む。
「本当だ……」
皇帝は眉を寄せた。
「シャーロット嬢。君はこの帳簿を見たことがあるのか?」
「ありません」
「では、なぜ分かった?」
「数字が並んでいたので」
「それだけで?」
「前世で……」
シャーロットはそこで止まった。
「前世?」
「……数字を見るのが好きだった時期がございまして」
苦しい、非常に苦しい言い訳だった。しかし皇帝は追及しなかった。
「なるほど」
そして書類を手に取る。
「確かに、おかしいな」
皇帝が別の書類を確認する。一枚、二枚、三枚…表情が少しずつ険しくなっていく。
「……この数字も違う」
「え?」
アシェルが驚く。
「父上?」
「同じ部署から上がってきた書類だ」
皇帝は机に並べた。
「こちらもだ」
「全部?」
「どうやら単純な計算間違いではないな」
室内に緊張が走る。シャーロットは思わず背筋を伸ばした。
ー推しの仕事場を見学しに来たはずなのに、何だか大変なことになっているー
アシェルが小声で囁く。
「シャーロット」
「はい」
「これ、君のせいだからね」
「なぜですか?」
「君が見つけたんだから」
「私はただ、数字を見ただけです」
「それが問題なんだよ」
シャーロットは首を傾げた。
「でも、間違いを見つけられたなら良かったのでは?」
「……それはそうだけど」
皇帝は二人の会話を聞きながら、少しだけ笑った。
「アシェル」
「はい」
「良い友を持ったな」
「……そうですね」
アシェルはシャーロットを見る。いつも皇帝陛下の肖像画を見ては幸せそうにしている少女。推し活に夢中で、時々とんでもないことをする。けれど困っている人がいれば、自然に手を差し伸べる。間違いを見つければ、そのままにしない。そんなところは昔から変わらなかった。
「はい。良い友達です」
アシェルがそう答えると、シャーロットは少し照れた。
「……ありがとうございます」
その様子を見ていたトリスタンが、静かに微笑む。
「お二人は、本当に仲がよろしいですな」
「そうでしょうか?」
「はい」
「僕は毎日大変ですけど」
「アシェル様?」
「何でもない」
皇帝は書類をまとめた。
「これは私が確認する」
「はい」
「シャーロット嬢」
「はい」
「君にも礼を言おう」
「いえ!」
シャーロットは慌てて手を振った。
「私は何もしておりません!」
「いや」
皇帝は穏やかに笑った。
「重要なことをしてくれた」
「……!」
まただ。また推しが笑った。シャーロットの心臓が忙しい。しかし、今度は先ほどのように舞い上がることはなかった。目の前には仕事をする皇帝がいる。帝国を背負い、間違いを見つければ正そうとする一人の人間。それを見ていると、シャーロットは前世の頃を思い出した。推しが好きだった理由。顔が好きだった。声が好きだった。演技が好きだった。でも、それだけではない。長い人生の中で、何度も元気をもらった。だから応援したかった。ただ、それだけだった。
「シャーロット?」
皇帝の声に、シャーロットは顔を上げる。
「はい」
「どうした?」
「……やっぱり」
「何がだ?」
「陛下を推していて、良かったなと思いまして」
室内が静かになった。
「……そうか」
皇帝は少しだけ照れたように笑った。その姿を見て、シャーロットは心の中で叫んだ。
(今日も推しが尊い!!)
だが、声には出さない。推し活は節度が大事。ここは執務室、社会科見学。そう自分に言い聞かせる。
「さて」
皇帝が立ち上がった。
「せっかく来たのだ。帝国の仕組みについて少し説明しよう」
「よろしいのですか!?」
「ああ」
「ありがとうございます!」
シャーロットは目を輝かせた。皇帝は帝国の地図を広げる。
「まず、帝国には大きく分けて五つの主要地域がある」
「はい」
シャーロットは真剣に聞く。アシェルも隣に立つ。ルイスは後ろから静かに見守り、エミリーはお茶の準備を始める。トリスタンはいつものように、少し離れた場所で微笑んでいる。最初は推しの仕事場を見たかっただけ。けれど気づけばシャーロットは、帝国の政治そのものに興味を持ち始めていた。皇帝が何を考え、どんな決断をしているのか。どんな問題を抱えているのか。何を守ろうとしているのか。知れば知るほど、応援したい気持ちが強くなる。
「……なるほど」
シャーロットは小さく頷いた。
「だから陛下は、あのときあのような決断をされたのですね」
「そうだ」
「勉強になります」
皇帝は満足そうに頷いた。
「また来るといい」
「はい!」
シャーロットは嬉しそうに答えた。アシェルはその横顔を見て、苦笑する。
「父上」
「何だ?」
「これ、もう完全に気に入られてるよね」
「そうか?」
「そうだよ」
「シャーロット嬢は熱心な子だからな」
「……父上も満更じゃないんだ」
「何のことだ?」
「何でもない」
こうしてシャーロットの初めての「推しの執務室見学」は終わった。帰り道、シャーロットは満足そうに歩いていた。
「今日は素晴らしい一日でした」
「そうだね」
アシェルは疲れた顔で答える。
「陛下のお仕事も拝見できましたし」
「うん」
「推しの健康状態も確認できましたし」
「……うん」
「しかも、陛下のお役に立てました」
「それは良かったね」
「はい!」
シャーロットは胸を張った。
「やはり、推し活は最高です」
アシェルは苦笑する。
「でも、今日は僕、何もしてないよね?」
「何をおっしゃいます」
シャーロットが振り返る。
「アシェル様が一緒にいてくださったから、安心して見学できました」
「……」
「ありがとうございました」
アシェルは少し驚いた顔をした。そして、ふっと笑う。
「……どういたしまして」
その様子を、少し離れた場所からトリスタンが見ていた。そして、小さく呟く。
「お二人とも、まだお気づきではないようですな」
「何がですか?」
エミリーが尋ねる。
「いえ」
トリスタンは笑った。
「何でもございません」
その日、シャーロットは日記にこう書いた。
『本日の推し活。
皇帝陛下の執務室へ行った。
陛下はとても素敵だった。
帝国のことも少し分かった。
そして、アシェル様が一緒にいてくださった。
今日も良い一日だった。』
その隣には、小さく一言。
『推し活は、無理をせず、楽しく、長く続けること。』
シャーロットはペンを置く。そして満足そうに笑った。…このときの彼女は、まだ知らない。今日見つけた小さな数字の間違いが、やがて帝国を揺るがすほどの騒動へ繋がっていくことを。そして、いつかアシェルが、前世の記憶を取り戻すことも。
「……明日も頑張ろう」
シャーロットは眠りについた。
その頃、皇宮の執務室では、皇帝が今日見つかった書類を再び眺めていた。
「……この数字の改竄は、いつからだ?」
静かな呟き。その隣で、トリスタンが答える。
「調べてみる必要がございますな」
「ああ」
皇帝は窓の外を見た。
「だが今日は……」
口元に、微かな笑みが浮かぶ。
「面白い客人が来てくれたものだ」
こうしてシャーロットの平和な推し活生活は、思いがけない第一歩を踏み出したのだった。
それから数日後、シャーロット・スターライルは、侯爵家の庭にあるお気に入りのベンチに座っていた。膝の上には一冊の小さなノート。表紙には、本人にしか分からない暗号のような文字で
『皇帝陛下・推し活記録』
と書かれている。シャーロットはそのページをめくりながら、満足そうに頷いた。
「……今回の推し活も、大成功でした」
「何を基準に成功と言っているの?」
向かいに座っているアシェルが尋ねる。
「陛下がお元気だった」
「うん」
「陛下が笑ってくださった」
「うん」
「陛下のお仕事を少し知ることができた」
「うん」
「そして、陛下のお役に立てた」
「……それは確かに、そうだね」
あの日、シャーロットが見つけた帳簿の数字の食い違いは、単純な記載ミスだった。どうやら複数の部署から集められた資料をまとめる際、一部の数字が古い資料のまま残っていたらしい。大きな問題になる前に発見できたことで、皇帝は大いに助かった。そしてシャーロットはというと…。
「陛下から、お褒めの言葉をいただきました」
うっとりと呟く。
「それ、もう十回くらい聞いたよ」
「十一回目です」
「数えてるんだ……」
シャーロットは幸せそうだった。その様子を少し離れたところから見ていたエミリーが、ふっと笑う。
「お嬢様、本当に楽しそうですね」
「はい」
シャーロットは即答した。
「推しがいる人生は素晴らしいです」
「私もそう思います」
エミリーは最近、密かに推しを探している。候補はまだ決まっていない。ただし、以前より王宮の人間を観察する時間が増えた。
「エミリーも、早く推しが見つかるといいですね」
「ありがとうございます」
エミリーは微笑む。
「ですが、焦らないことにいたしました」
「素晴らしいです!」
シャーロットは嬉しそうに頷いた。
「推しは無理に作るものではありませんから」
「はい。自然に『この人を応援したい』と思えたときが、その時…お嬢様から教わったことです」
「ふふ」
そこへ、ルイスがやってきた。
「シャーロット嬢」
「ルイス様。どうされました?」
「報告があります」
妙に真剣な顔だった。
「何でしょう?」
「第一騎士団団長への推し活についてですが」
「はい!」
シャーロットの目が輝く。
「ついに何かございましたか?」
「はい」
ルイスは胸を張った。
「昨日、団長が訓練場で部下に剣術の指導をされていました」
「それで?」
「大変素晴らしかったです」
「はい!」
「以上です」
「……以上?」
「はい」
シャーロットは少し考えた。そして満面の笑顔になる。
「それで十分です!」
「そうなのですか?」
「はい。推しの素敵なところを見つけられた。それだけで立派な推し活です」
「なるほど……」
ルイスは深く頷いた。
「勉強になります」
「ちなみに、本人には?」
「まだ何も」
「素晴らしいです」
「なぜです?」
「節度が守られていますから」
ルイスは満足そうに頷いた。
「では、これからも静かに応援いたします」
「はい!」
そこへアシェルが呆れた声を出した。
「……君たち、何をしているの?僕の護衛騎士が、僕の知らないところで騎士団長の推し活をしているんだけど」
「問題ありません」
「問題しかないよ」
「殿下」
ルイスが真顔で言う。
「推し活は素晴らしいものです」
「君までシャーロットみたいにならないで」
「失礼しました」
「謝るところ、そこなの?」
アシェルが頭を抱える。その様子を見て、シャーロットは笑った。
「アシェル様も、何か推してみてはいかがですか?」
「僕はいいよ」
「どうしてです?」
「今のところ、推したい人がいないから」
「なるほど」
シャーロットは素直に頷いた。
「それなら、無理に作る必要はありませんね」
「……うん」
「推しは義務ではありませんから」
アシェルは少し驚いた。
「そこは意外とあっさりしてるんだね」
「当然です」
シャーロットはノートを閉じた。
「人それぞれですもの」
「そう」
「推したい人がいれば推せばいい。いなければ、自分の好きなことを楽しめばいいのです」
「……なるほど」
アシェルは少し笑った。
「じゃあ、僕はしばらく君の推し活を見てるよ」
「はい?」
「君が楽しそうだから」
「……」
シャーロットが目を瞬く。
「それも、悪くないと思う」
アシェルはそう言って立ち上がった。シャーロットはしばらく、その背中を見つめていた。
「……アシェル様」
「何?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「いつも巻き込まれてくださって」
「それ、感謝するところなの?」
「私にとっては、とても大切なことです」
アシェルは一瞬黙った。それから、いつものように苦笑する。
「仕方ないよ。僕たち、幼馴染だからね」
「はい!」
シャーロットは嬉しそうに笑った。
「お嬢様」
エミリーが空を見上げた。
「そろそろお茶のお時間でございます」
「分かりました」
「本日は陛下の肖像画入りの新しいお菓子を…」
「エミリー」
アシェルがすかさず止める。
「そんなもの作ったの?」
「はい」
「いつの間に?」
「昨日でございます」
シャーロットの顔が輝く。
「見せてください!」
「こちらです」
小さな箱が開かれる。そこには、皇帝の顔……ではなく、皇帝がよく身につけている紋章を模した焼き菓子が並んでいた。
「素晴らしいです!」
「ありがとうございます」
エミリーも嬉しそうだ。
「お嬢様と一緒に作りました」
「僕も手伝わされたけどね」
アシェルがぼそりと呟く。
「ありがとうございます、アシェル様」
「……どういたしまして」
四人と一人の執事は、庭でお茶を囲んだ。笑い声が響く。今日も平和だ。皇帝陛下は帝国のために働いている。シャーロットはそんな陛下を応援している。アシェルは相変わらず巻き込まれている。エミリーは自分の推しを探している。ルイスは師匠を静かに推している。トリスタンは、そんな全員を温かく見守っている。
そしてシャーロットは思う。前世では、長い人生を生きた。今世で、もう一度人生を始めた。せっかく二度目の人生をもらったのなら、誰かのためだけに生きるのではなく、自分も楽しんで、自分も笑って、好きな人を、好きなものを、無理のない範囲で大切にしていきたい。それがシャーロットの推し活だ。
「さて!」
シャーロットは立ち上がった。
「明日も推し活です!」
「明日も!?」
アシェルの悲鳴が響く。
「もちろんです!」
「何をするの?」
「まだ決めておりません」
「決めてないの!?」
「推し活は計画的に」
「どっちなの!?」
エミリーが笑い、ルイスも笑い、トリスタンも静かに微笑む。そしてシャーロットは、青い空を見上げた。
「明日も、良い日になりそうですね」
その笑顔は、十歳の少女らしく無邪気だった。けれど、その胸には二度目の人生を楽しむための、確かな覚悟がある。推しを推す。誰かを傷つけない。無理をしない。そして、自分の人生も大切にする。今日も推しが元気なら、それで幸せ。明日も推せるなら、それでもっと幸せ。
「では、明日も楽しく推しましょう!」
「だから僕を巻き込む前提なの!?」
庭に、アシェルの叫び声が響き渡った。こうして皇帝陛下を推す侯爵令嬢と、今日も巻き込まれる第一皇子の一日は、穏やかに幕を閉じた。そしてきっと明日もまた、何かが起こる。
推し活は、まだ始まったばかりなのだから。




