水槽の脳
夜は深い藍色に染まり、湿度を帯びた空気が重く澱んでいた。ここは水無瀬博士の研究室。だが、世間的には「廃ビル」と認識されている、都市の片隅の古びた建物だ。
部屋の中心には、異様な存在感を放つ装置があった。それは、透明な強化ガラス製の巨大な水槽。水槽の中には、奇妙な透明な液体が満たされ、その中央に人間の脳が浮遊していた。いくつもの細いケーブルが脳に接続され、周囲のモニターに複雑な脳波のグラフを映し出している。
水無瀬博士は、孤独な天才だった。彼の研究テーマは、「潜在意識の物質化と操作」。彼は主張した。
「人間の意識の9割を占める潜在意識こそが、現実を作り出す。そして、この水槽の中の**『コア・ブレイン』**こそが、ある人間の潜在意識を抽出・増幅させたものだ」
コア・ブレインは、博士の個人的な友人であり、実験への同意者であった**青年・透**の脳波から、極限まで『恐怖』の感情を抽出し培養したものだという。
「恐怖という最も強いエネルギーは、現実を歪める力を持つ」
助手である**私**は、この狂気染みた理論に常に恐怖を感じていた。
ある深夜、いつものようにモニターを監視していた私に異変が起こった。
接続されたスピーカーから、ノイズと共に、微かな歌声が聞こえ始めたのだ。それは、透が幼い頃に口ずさんでいたという、古風な子守唄だった。
「博士!コア・ブレインから、音の信号が出ています!」
水無瀬博士は歓喜した。
「来た!コア・ブレインが、増幅させた恐怖を**『現実』として具現化**しようとしている!これは、**別の世界**の透の意識だ!」
モニターのグラフが急激に跳ね上がり、室内の照明が一瞬、紫色に点滅した。その瞬間、水槽の横に設置された古びた鏡に、反射しないはずの「誰か」の影が映り込んだ。影は、私と博士の間に、透と同じくらいの背丈で立っているように見えた。
恐怖で身が竦む中、水槽の中の液体が赤黒く濁り始めた。コア・ブレインは、まるで心臓のように脈動し、歌声は徐々に鮮明になっていく。
「…助けて、ユウ」
歌声は、私を、私の名前を呼んだ。
「その世界は、間違っている。僕は、博士に殺されたんだ。潜在意識を抜き取られ、別の僕の体に入れられた。この水槽の中にいるのは、僕の残骸じゃない。博士自身の恐怖だよ」
私は博士を見た。彼の顔は、突然老け込んだかのように皺が増え、瞳孔が開いている。
「黙れ!偽物め!」博士は叫び、私を突き飛ばして、水槽の制御盤に手を伸ばした。
「博士!何を言ってるんですか!?」
博士は震える声で告白した。
「透は、死んだんだ。一年前、交通事故でな。私は、彼の死を受け入れられなかった。だから、彼の脳を保存し、彼の**『死への恐怖』**をコア・ブレインとして培養した。そうすれば、恐怖が現実を歪め、透が生きているパラレルワールドと接続できると思ったんだ!」
博士の言葉を聞いた瞬間、私は全てを理解した。この部屋自体が、博士の潜在意識が生み出した、透を失った恐怖のパラレルワールドなのだ。コア・ブレインが具現化しているのは、透の恐怖ではなく、博士が抱く「友人を失った」という、最も恐ろしい真実だった。
歌声が、再び響いた。
「ユウ、早く。博士の制御を止めないと、この部屋は永遠に博士の狂気の一部になる。君も、この世界から抜け出せなくなる」
私は制御盤と、狂気に囚われた博士を交互に見た。
「止めれば、透の…コア・ブレインは消える。そうすれば、この歪んだ世界も崩壊し、私は元の世界に戻れる。でも…」
本当に、これが元の世界ではないのか?
私の脳裏に、一つの疑念が湧いた。もし、私のいる「元の世界」こそが、博士の潜在意識が生み出した、別のパラレルワールドだとしたら? そして、この「怖い部屋」こそが、真の現実への扉だとしたら?
私が制御盤の緊急停止ボタンに手をかけた瞬間、水槽の透明な液体が、血のような赤色に完全に染まった。
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