壁に残る声
引越しして三週間、透馬は毎晩、同じ時間に悪夢で目を覚ました。深夜2時過ぎ、寝室の壁から聞こえてくる、微かな、しかし明瞭な囁き声だ。
最初は風の音か、隣室の音漏れだと思った。しかし、耳を澄ますと、その声はまるで耳元で話されているように鮮明で、その言葉はすべて透馬自身の声だと分かった。
「…疲れた。もう、どうでもいいよ。」 「…誰も、俺のことなんて見てない。」 「…どうして、あんなことを言ってしまったんだろう。」
それは、透馬が過去に独り言で、あるいは心の中で呟いた、ネガティブで、打ちひしがれた言葉の断片だった。
妻の美咲に尋ねても、「何も聞こえないわよ。疲れているんじゃない?」と心配されるだけだった。透馬だけが、夜の静寂の中で、過去の自分に責め立てられていた。
ある夜、囁き声が特に激しくなった。それは、まるで壁の裏側で、過去の透馬がもがき苦しんでいるかのようだった。
「助けてくれ…! 誰か、ここから出してくれ!」
透馬は反射的に飛び起き、声が最も強く響く壁の一点に手を当てた。石膏ボードの奥から、冷たい振動が手のひらに伝わってくる。
その場所には、以前から気になっていた、小さな、奇妙な茶色のシミがあった。それは、水濡れによるシミというよりは、何かを無理やり押し付けて乾いた跡のようにも見えた。
透馬は確信した。この壁の中に、声の源がある。そして、その源は、自分の過去の感情に繋がっている。
彼は工具箱からハンマーを取り出した。美咲を起こさないよう、慎重に、そして決意を込めて、シミのある一点を打ち砕いた。
石膏ボードが崩れ落ちると、壁の内部から現れたのは、小さな空洞だった。そして、その空洞の奥に、埃を被った古い日記帳が、まるで祭壇に供えられたかのように埋め込まれていた。
透馬は、日記帳を引き出し、震える手で表紙を払った。
その表紙には、**『透馬の日記』**と、紛れもない自分の筆跡で記されていた。しかし、透馬の記憶には、この日記帳をつけた覚えは一切ない。
ページを開くと、鉛筆でびっしりと文字が埋め尽くされていた。
「もう疲れた。どうでもいいよ。(日付:15年前の高校時代)」 「誰も見てない。(日付:10年前の就職活動時)」 「あんなことを言ってしまった。(日付:5年前の美咲との喧嘩の翌日)」
日記の中身は、夜な夜な壁から聞こえてきた、すべてを諦めたような、自己嫌悪に満ちた言葉の羅列だった。それは、人生の節目のたびに、透馬が最も打ちひしがれ、忘れたいと願った感情をそのまま書き写したものだった。
「これは一体、どういうことだ?」
透馬が混乱に陥ったその時、日記帳の最後のページが開いた。そこには、他のページとは異なり、血のような茶色いシミと共に、震える筆跡で、たった一文だけが記されていた。
「俺は、お前の中にいたかった。お前が、俺をここに追い詰めたんだろう。」**
その文字は、つい昨夜の深夜2時過ぎの日付で、そして、日記の言葉を書いたのは、紛れもなく**『過去の透馬』**自身だった。
透馬は悟った。この屋敷は、住人の**「最も弱い自己」、つまり自己嫌悪や後悔の感情**を、物理的な実体(日記)として引き剥がし、壁の中に封じ込める能力を持っている。
そして、夜な夜な聞こえてきた囁きは、「過去の自分」という囚われの存在が、「今の自分」に助けを求めていた声だったのだ。
透馬は日記帳を握りしめ、自分が逃れようとしていた過去の言葉と、その**「茶色のシミ(自己嫌悪の結晶)」**を見つめた。
その瞬間、壁の奥の空洞から、再び**「助けてくれ…」**という声が響いた。だが、それはもう、透馬自身の声ではなかった。
**「今度は、俺の番だ…」**という、現在の透馬の声だった。
透馬は顔を上げた。彼の手にある古い日記帳には、新たな、血のようなシミが広がり始めていた。そして、透馬自身の頭の中では、**「もう疲れた。どうでもいいよ」**という、新しい絶望の独り言が、形を成し始めていた。
彼が壁を壊し、日記帳を取り出したことで、**「過去の弱い自己」は解放され、代わりに「現在の弱い自己」**が、壁の中に埋め込まれる準備を始めていたのだ。
透馬はハンマーを落とした。彼の表情は抜け落ち、まるで壁の中に閉じ込められるのを待つ空の抜け殻のようになっていた。
彼の寝室の壁には、新たに小さな茶色のシミが、静かに滲み始めていた。
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